十九世紀初め、英国の裕福な資産家の令嬢として生まれたフローレンス・ナイチンゲール

 

彼女は、家族で日曜ごとに教会に通い、神の御心にかなって生きることを願って育つ。裕福なナイチンゲール家は、村の小学校を援助し、近隣の貧しい家々への慈善訪問を慣わしとしていた。それに同行した少女ナイチンゲールも、将来は自分も何かの役に立ちたいと願っていた。

 

そして、自分の住んでいる周りの貧しい人たちへのボランティア活動にも積極的であった。自分が生まれ育った上流社会の生活に疑問を持っていた彼女は信仰深く、十六歳のとき両親の家の庭で、神の啓示を聞く。「汝のすべき事を成せ」と。自分ができることをまっとうしなさい、という御心を受け止めたナイチンゲールは、二十四歳のときに、自分が神に仕える道は看護だと確信する。


 当時、裕福な家では、病気になっても自宅で療養するのが当たり前で、病院は貧しい病人の収容所であった。英国では修道院が病院を運営していたが、カトリックに反対したヘンリー八世が、修道院を解散させたので、病院は都市などが譲り受ける。看護はシスターではなく、一般女性が有給でするようになるが、彼女らはシスターのような社会的身分はない。

 

看護婦になるのは社会的な底辺にいる人たちで、低賃金の彼女らは、患者から金品を受け取り、酒を飲み、行動すべてが粗雑で品格を全く欠いていた。そんな時代に、上流階級の娘、ナイチンゲールが看護の職に就きたいと言い出したのだから、両親は猛反対する。それでも、訓練を終えたナイチンゲールは、三十三歳にしてロンドンの病院に就職した。現在、看護師がプロの仕事として尊敬を集めているのは、ナイチンゲールの功績による。


 十九世紀半、クリミア戦争(十九世紀半、英・仏・トルコの同盟軍 VS.ロシア)が始まった。ナイチンゲールは、政府の高官をしていた友人ハーバート氏の口ききもあり、クリミア戦争に従軍看護師として行くことが実現した。この時、不思議なことが起こっている。ナイチンゲールが、ハーバートに、「クリミア戦争に行って兵士たちの手伝いをしたい」という手紙を書いた同じ日に、ハーバートがナイチンゲールに、「クリミア戦争に来て何か役に立たないか」という手紙を送り合っているのだ。トルコの野戦病院にナイチンゲールが派遣されると、衛生管理や食事が改善され、兵士の死亡率も四二・七%から二・二%に下がった。

 

またナイチンゲールは、英国政府に向けて、「クリミア戦争で夫を亡くした未亡人のケアをもっとしてください」という手紙を出している。これらの功績をたたえ、英国民から贈り物をしたいという申し出が殺到し、「ナイチンゲール基金」が設立され、1860年、彼女が設計したセント・トーマス病院内に、世界初の看護学校が設立された。


 クリミア戦争から帰国したナイチンゲールは、三十七歳にしてクリミア熱という伝染病にかかり、背骨や腰が痛み、微熱が続く。その後三十年間を病人として自室にこもるが、彼女は独りになって思う存分仕事に打ち込む自由を得た。最後の十年間は完全に失明していたが、彼女の真の功績は、そのベッドの上から生まれたものだった。彼女はホテルの一室にこもり、医療改革のための政府との交渉、出版活動、そして、病院建設、衛生問題などに関して、八十歳近くまで、世界各地の相談役だった。


 1910年、ナイチンゲールは九十年の生涯を閉じた。国葬を行ってウェストミンスター寺院に埋葬するという政府の意向は避けられ、彼女の遺言により、かつて家族揃って通った聖マーガレット教会墓地に、父、母、姉とともに葬られている。墓石には故人の意思により、F.N.と、イニシャルだけが記された。

 

クリミア戦争での献身的な看護から、「白衣の天使」と呼ばれたナイチンゲールは、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と言っている。クリミア戦争で重傷を負ったある兵士は、「あなたはわたしにとってキリストです」と彼女に言った。

 

環境的な預言

 

ヘブル語でベイト(家)+ レヘム(パン)が合わさった(パンの家)の意味を持つベツレヘムで「命のパン」なるイエス様がお生まれになったとき、岩の洞窟の馬小屋で壁を掘った荒削りな馬の食卓の飼葉おけに寝かされたイエス様は布にくるまれていました。清いみどり子の静かな眠りは十字架の死を象徴しますが、岩を背景としたこの情景自体、考古学者ロン・ワイアットの語る本当のカルバリ現場を預言するかのようです。ところで、ユダヤ人クリスチャン聖書学者によると、この馬小屋は、死者を一時的に保管する場所としても使われ、そこに備えていた死者をつつむための布こそみどり子イエスを包んだ布であったと指摘します。

 

実にイエス様にとってこの世で受けた初めての衣服なる産着さえ死の衣であったとは・・・。力なきみどり子が全身布にくるまれると行動の自由が奪われ、その現場で少ししか動けなくなったように、イエスの十字架でも全身を少ししか動けなく制約したもの、それが手足に強く打たれた釘です。普通は柔らかい布のかわいい産着が、将来の鋭く硬い恐怖の釘打ちを預言していた!ということになります。なんという究極の皮肉でしょうか。

 

十字架イエスの死の衣は釘です。十字架上、全裸だったはずのイエスが死の衣を着ていたとは!神の御子はここまで徹底的な呪いと試練を受けなければならなかったとは!その後、みどり子イエスは占星術の博士たちの訪問を受け、黄金・乳香(フランキンセンス)・没薬(ミルラ)を受けましたが、一説ではこの誕生祝は彼らの占星術に関係した商売道具だったといいます。

 

その大事な占い道具を手放してイエス様に捧げ、別の道から帰ったことは、彼らが過去の罪深い占い依存の生活を悔い改めて完全にやめた現れであり、イエスに出会えば誰でも別の道なる新たな人生を歩めるという意味があります。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。・・・私はあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする。」(ミカ書5:2~12)

 

十字架のことばは、ベツレヘムの馬小屋・岩場の飼葉おけ・死の衣のように物言わない物質や環境が大切な何かを預言している場合があります。また、大祭司カヤパのように発言自体が本人は全く知らずして神の御心を預言している場合もあります。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人(イエス)が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネ11:50)他に使徒パウロのように行動自体が大事な何かを預言している場合もあります。

 

使徒パウロのイエス預言行動

 

使徒パウロは熱烈に主を愛した結果、限りなく主の御心と一致し、本人は知らずして、その行動自体がイエスの御心を表す預言になりました。特に第二コリントの12,13章では霊的にこの書簡を解釈するとき、偉大なイエスの隠された奥義が見えてきます。共に隠された預言を受けましょう!

 

まず、第三の天・パラダイスを体験したパウロは、肉体に一つのとげを受けました。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(コリント第二12:7,8)

 

パウロの肉体のとげとは、目の病気と思われます。回心以降、三日間限定で失明したパウロですが、「サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。」(コリント第二9:8)、その後のパウロの目の病気を自分の事の様に心配したガラテヤ教会員がこう紹介されています。「あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。」(ガラテヤ4:15)。

 

パラダイス体験以降のパウロは目の病気という肉体のとげを受けたようですが、天国から来られたイエスも肉体のとげが十字架上ありましたね。釘打ちです。三度願っても取れない抜けない手足合計三本のとげのような釘、それはイエスにおいてもサタンの使いでした。

「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」(コリント第二12:14)

 

ここで、パウロの三度目のコリント教会訪問を予告していますが、イエスも同様です。世界に対し、一度目の訪問は約2000年前のクリスマスに神が人となり、人類史に介入されたインカネーション(受肉)のイエス!二度目の訪問はイエス昇天以降、今に至るまで臨在される聖霊さま!そしてこれから予告された三度目の訪問があります。それこそイエスの再臨です!これを念頭に上の御言葉を読み返すと再臨目的も見えてきます。すなわちイエスの求めは持ち物でなく私たち自身ですから、再臨時に空中携挙が起き、み父がたくわえた天の報いが与えられます!

 

パウロは過去の訪問を回顧します。「私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。」(コリント第二12:18)

イエスの宣教もやさしく、弟子たちのレベルに合わせた同じ心と歩調ですね。しかし、続く御言葉でパウロのガラテヤ教会員への心配事が今、預言的に再臨直前のイエスにとっても、同様の心配事となります。 

「私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。」(コリント第二12:20、21) 

 

説明なしに意味が分かりますね。イエスの場合、以前の訪問時、群集面前で受けたはずかしめとは十字架でした。「私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」(コリント第二13:1,2)

 

今後、三度目の訪問なるイエス再臨以降は白い御座ですべての事実が明らかになる正義の裁きが始まります。今は、二度目の滞在なる聖霊臨在の期間です。だから今のうちに罪人は聖霊の言われるうながしで悔い改めなければなりません。なぜなら悔い改めない者にはこう続くからです。

「今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」

続く御言葉は、天の御座にて日々とりなし祈られるイエスの御心が見え隠れする重要証言です。「私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。」(コリント第二13:7)

 

「私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。」(コリント第二13:9)

 

さらにイエスは天国と地上という離れた環境からこう呼びかけています。「そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」(コリント第二13:10)

 

イエスは出来れば世界に対してきびしい裁きの主ではなく、築き上げる救いの主として来たいのです!そして最後のあいさつ。これもそのままイエスの御心ですね。 「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。」(コリント第二13:11,12)

 

補足説明として、ここで私たちに「よろしく!」と言っている「すべての聖徒たち」とは、誰でしょう。それは新旧約すべて天国に移された義人たち!先に天国へ入ったすべての先輩クリスチャンたちです。彼らすべてがイエスと共に私たちの見方!地上の私たちに深い関心と愛情を寄せています。

 

今も天国からこのような形で「よろしく!」と言って地上の私たちを応援しています。ハレルヤ!これを悟ったら喜んで天を見上げて御子イエスに投げキッスしましょう!(詩篇2:12)(ヘブル12:1)  

 

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