神様が創造されたものは、そのままで完璧だと、改めて分からせてくれます。
人間の心が神様から離れるにつれて、どんどん自然破壊しています。
人が正しい神様への信仰に立ち返れば、農業や酪農だけでなく、医療、住宅(建材)、自然素材の衣服など、衣食住全ての質が向上します。


https://www.youtube.com/watch?v=j5pugwSszM8&t=295s

福岡正信 自然農法 不耕起 無肥料 無農薬 無除草

1913年2月2日、愛媛県伊予郡南山崎村(現伊予市)に生まれる。
現・岐阜大学応用生物科学部を卒業後、横浜税関の植物検査課に所属し、研究に没頭していた。

しかしながら、急性肺炎にかかり死の淵をさまよったのを機に「この世には、何もない」と悟る。

地元・愛媛県に戻り農を通じて自然と向き合いながら、「不耕起 無肥料 無除草」を特徴とする福岡正信流の自然農法の体現化を始めた。

また世界各国への歴訪を重ね、泥の中に植物の種子を入れて粘土団子状にする事により、砂漠化を抑制する取り組みで世界的な評価を受けるとともに、多くの書籍・詩・画を通じて「無」の境地の伝道に尽力した農哲学者である。

 

人は本当の意味で自然を完全に知ることは出来ないから余計なことはしない

しかし 放任することは違う  自然は 怠情な百姓に甘くない

「わら一本の革命」より

 

功績からインドのタゴール国際大学学長のガンジー元首相からは「自然農法は真理の農法」と言われ、最高名誉学位を授与されました。
また同年アジアのノーベル賞と称されるフィリピンのマグサイサイ賞「市民による公共奉仕」部門受賞、その後、地球環境保全に貢献した人に贈られるアース・カウンシル賞の初の受賞者となりました。卒寿を超えてもなお、越境して精力的な活動に邁進した姿は、まさに人種の壁さえも超えた命の伝道活動だったと言えます。

知る事と解る事は 違う

福岡 正信

農園のこと | 福岡正信自然農園 official site (f-masanobu.jp)

 

 

 

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

 

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。

 

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 

愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

 

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

 

ロシアの文豪であるガーシュインという人が「信号」という小説を書きました。時はロシア革命の前の腐敗した帝政ロシアのころのことでありました。役人がわいろをとったりして乱れた時代のことでした。ワシーリーは、政府に反抗的な革命思想を持っていました。それだけならいいのですが、自分の上役とトラブルを起して、その腹いせに悪巧みを企てました。線路の枕木をはずして、列車を転覆させて仕返しをしようと計画しました。

 

セミヨーノフはワシーリーの良き友となって彼のためにいろいろ気遣いをしました。ワシーリーは上役とのけんかの腹いせに破壊工作を企てました。こっそり線路の枕木に打ち付けられた犬釘をとり、線路のレールをはずしてしまいました。そして列車の転覆による大事故を見ようと草むらの陰にかくれていました。そのことを察知したセミヨーノフはあわてて線路のレールを元に戻そうとしました。でも向こうから汽車の音が聞こえてきました。間にあいそうににありません。このままいけば汽車は転覆して大事故になって死者やけが人が出てしまいます。そこで彼は、列車を止めて大惨事から救おうとしてシャツを脱いで持っていたナイフで自分の腕を深く傷つけ、血でシャツを真っ赤に染めました。そのシャツを赤信号の旗にして、血で赤く染まったシャツを振りながら列車を止めようとしました。けれども列車はこれに気がつかず、いっこうに止まる気配がありません。そのうちにセミヨーノフは出血多量で線路の上に倒れてしまいました。そのことを見ていたワシーリーは、セミヨーノフの自己犠牲の気高い行為に心を打たれ、草むらから飛び出し、血で真っ赤に染まったシャツをつかみ、それを大きく振って大声で叫びました。そして列車は止まりました。

 

ワシーリーは言いました。「あっしをしばっておくんなせい。あっしが線路をはずしたんですから。」この時からワシーリーは前のワシーリーではありませんでした。このセミヨーノフの自己犠牲の行為に心を打たれ、心が砕かれて悔い改めたワシーリーに変わっていました。この小説でセミヨーノフの流した赤い血は、人類を救うために流されたキリストの尊い血を指し示しています。セミヨーノフは自分を犠牲にしてまでも、人を救おうとする、キリストの後に従う人でした。ワシーリーは、愛の自己犠牲の行為に心を打たれ悔い改めた罪人を象徴しています。

 

『幸福な王子』(こうふくなおうじ、The Happy Prince)は、オスカー・ワイルドの子供向けの短編小説。あらすじ

ある街の柱の上に自我を持った幸福な王子の像が立っていた。両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。

渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。エジプトに渡る事を中止し、街に残る事を決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんの不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。

やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。 死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

時を同じく天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。

 

 

1919年に日本に来たH. コルベという宣教師夫妻がおりました。

 

このご夫妻は、フィリピンのバナイ島におりましたが、第二次世界大戦中、日本軍に捕まり、そこで彼も奥さんのシャルマも他の宣教師も処刑されました。この宣教師夫妻には、マーガレットとアリスという名前の二人の娘さんがおりました。二人ともアメリカの本国で勉強していました。自分の両親が日本軍の手で殺されたことを知り、悲しみ、悲しみは憤りと憎しみに変わりました。両親は、日本軍から最後に30分だけ猶予を与えられ、その時間に二人でマタイ伝5章―7章の山上の説教のところを交代で読み、祈り、それから処刑されたということを聞かされました。マーガレットもアリサも両親が死ぬ前に最後に読んだ聖書の箇所を自分でも読んでみました。

 

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 

聖書のことばを読んでいくうちに、自分が日本人を憎んでいたこと、嫌っていたこと、それがいけなかったことを示されました。そして神の前で悔い改め、日本人を愛するようになりました。マーガレットは、日本人捕虜収容所に行き、捕虜となっている日本の軍人たちの身の回りの世話をしました。アリスは、その時はもう働いていましたか、自分の一年分の給料をそっくり日本人の救いのために捧げたのです。彼女たちの心を作り変えたのは、命がけで彼女たちを救ってくださったキリストの愛でした。神の愛は人を作り変え、そして反感や怒りや憤りといった罪をおおい、新しい心を与えます。Iヨハネ4:9-12を見てください。

 

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

純福音立川教会 泉パウロ Jesus39god - YouTube

 

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