仮庵(かりいお)の祭り(スコット)9~10月


レビ記23:34「この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。」

 

この祭りは、出エジプト後にイスラエルの民がシナイの荒野を旅したことを記念します。7日間の祭り期間に、雄牛70頭がいけにえとして捧げられました。(民数記29:12~34)1日目は13頭、2日目は12頭、3日目は11頭と1頭ずつ少なくなり、7日間で合計70頭になります。そのいけにえは、ノアの子どもから派生した70の異邦人の国々(創世記10章)のためと考えられます。
これは預言的には千年王国と天国を現わし、永遠の命に預かる準備完了です。天国に入れてくださるイエス様に感謝しましょう。

 

千年王国は、イエス様と教会の結婚披露宴に例えられます。(マタイ22:1~14) 

イスラエルの伝統的な披露宴は、仮庵の祭りの期間と同じく7日間続きます。

祭りの期間、庭にスカーという仮小屋を建てて住みながらお祝いしますが、ユダヤ人がエジプトから脱出し、荒野を旅した時代に、仮庵に住んだことを記憶する祭りで、この時期にイスラエル旅行すると、様々な場所に仮小屋が建ち、まるでホームレス村のような状態ですが、これは楽しい祭です(ゼカ14:16~19)。 仮庵の材料は、美しい木の実、なつめやしの葉、茂り合った木の太枝、川縁の柳。仮庵の祭りは天国の家を象徴します。

 

日本では、仮庵の祭りは、祇園祭(ぎおんまつり)に形を変えました。

ギオンに似た呼び名のイスラエルのシオン祭と同じく一ヶ月間祝います。

起源は聖書のノアの洪水からの救いが7月17日です。祇園祭で、山車(だし)の一種、山鉾(やまぼこ)巡業がピークを迎えるのも同じ日です。ですからイスラエルのスカーという仮小屋も日本の山車も山鉾も元来は天国の家を象徴します。

 

イエス様は十字架の上で「完了した」(テテレスタイ)と叫んで死なれました。イスラエルの7つの祭りはイエス様によって完了して終わりを告げたという意味です。連動してそれを受けた日本の皇室、神道の7つの祭りも完了して終わりを告げています。今はただ一度、神様であられるイエス様が十字架で死んで三日目に復活されたことを信じるだけで誰でも救われて天国に入れます。イエス様の救いにはこれら7つの祭りの意味がすべて含まれていたのです。それゆえイエス様は言われました。

 

ヨハ4:21-24「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

ヨハ14:6 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 

山鉾

 

熱海城に展示されている山鉾の模型。昔からこのような山車です。しかし、気になるのはそこに掲げられた刺繍の絵。それがこれです。

 

 イラクのバクダッド宮殿

 

 ピラミッド

 

 聖書のイサクに水を供するリベカ。

 

 聖書のイサクの嫁選び物語の一場面。

 

これらは、函谷鉾(かんこぼこ)の見事な前掛けと言われますが、題材は「イサクに水を供するリベカ」、「イサクの嫁選び」。重要文化財で、16世紀末のベルギー製ということですが、日本の神道なのになぜ中東の絵の数々?

しかも聖書の物語!祇園祭は、明らかに聖書のシオン祭です。「イサクに水を供するリベカ」と「イサクに水を供するリベカ」は、いずれも聖書の創世記22章に出てくる一連のストーリーです。その意味は何でしょうか?

その意味に祗園祭の本当の意味が隠されています。それはイサクとリベカの結婚物語です。つまり私たちにとってのシオン祭とは、近い将来、花婿イエス・キリストと花嫁なる教会は結婚して愛されて天国に入るという意味です。その象徴であって、もはや祗園祭もイスラエル7つの祭りのすべても意味がないのです。

 

私は大学生の時、アルバイトの掲示板で見つけた「山車」(だし)に関わったことがあります。一日だけでしたが、変わったバイトだと思いました。事実、仕事は変でした。札幌の市内を何百人という祭り関係者たちがタイヤのついた大きな「山車」を中心に踊りながら練り歩くものです。私は何故かその中で一番簡単な仕事、「山車」の一番上に乗って座り、稀に住宅街で電線が近付いて来た時だけ、背の高い「山車」に引っかからないよう長い棒で持ち上げる単純作業でした。沿道に人の多い場所に来ると、これ見よがしにハンドルを回して「山車」内蔵の大きな人形を下から上に登場させることも業務でした。ほとんど仕事はなく座っているだけでしたが、眺めていると市内中心部で何万人と集う大群衆の中、私の乗る「山車」に向かって手を合わせる高齢者たち、寄付金を捧げる人たちが大勢いました。内心、馬鹿だなと思いました。「こんなものただの作った偶像の人形で、神秘的な力も御利益もない金集め、大半のスタッフはバイトなのに。」

 

しかし、市内中心部で特に沿道に群衆が多い場所に来ると、あれだけ多い群衆の中、反対を表明する変わった人たちを発見しました。彼らは「山車」に向かって持ち手のついた黒い看板の板を持ち上げましたが、そこには白い字で「悔い改めよ。聖書」と書いていました。今考えると、あの人たちは勇気ある丸森伝道隊というクリスチャンたちです。私はその言葉がなぜか、心に残りました。あれだけ何万人と沿道に群衆がいて「山車」と踊り、仮装された祭り衣装を面白がっているのに、ごくごく少数派の彼らだけは「皆と違う見解の、何かが違う人たちだ。でも彼らは正しい。」そう思いました。今、自分は悔い改めて聖書の神の子イエス・キリストを救い主と信じた牧師ですが、「山車」には、なんの力も御利益もありません。当時の私は始めから参加していたスタッフでしたが、主催者たちでさえ、「山車」なんか信じていないし、拝んでもいないです。まったくの嘘の金集め目的のパフォーマンスです。それどころか、神ならぬものを神として祭ることは、本当の神様に対する冒涜であり、大罪です。冷静になって一人静まり考えるなら聖書が正しいこと、創造者の真の神様がおられることが分かるはずです。

 

イザ44:6-11 「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。」