僕が大学3年生の頃、
友人から誘われて「日本青年遺骨収集団」に参加しました。


その頃は日本に対する愛国心は全く無かったので、
ただ単に、
「タダで海外に行けるぞ!」という単純な動機からでした。


行く前に戦争の歴史を学び、
簡単な試験を受けてパスし、
十数名と共に、

玉砕の島サイパンに向かいました。


現地では、
第二次世界大戦時の戦没者の遺骨を収集するのが仕事です。


もう何度も遠征しているので、
緩やかな丘陵はほとんど探索済みだったので、
まだ誰も足を踏み入れていなかった山や、
断崖絶壁などの危険な場所での探索に絞られました。



希望と喜びが溢れるJES社長のブログ

↑地元の子供たちと。

当時は髪の毛フサフサだった…


当時、
中央大学6年生だった(笑)藤原隊長の指示の元、
現地の案内役と共に山に向かいます。


山の麓に到着し、
道が無くなったところで2人1組のペアを組み、
他のみんなと別れて、
それぞれが草や木をかき分け頂上に向かいます。


単なる山登りとは訳が違って、
何が飛び出してくるか分かりません。


野生のイノシシに襲われた事もあります。


持ち物は、
遺骨を入れるリュックと、
救急道具とバントウ(木を刈る太いナタ)のみ。


山が僕らの行く手を拒むように、
『ブーン』という唸り声をあげています。


この音の原因は、ハチの羽音です。


山のあちこちに島バチの巣があって、
その羽音が山全体に共鳴しているのでした。


猛毒を持っていて、

刺されて死ぬこともあるそうです。

(※実は僕が刺されてしまい、その悲劇の物語も後日に公開!)


戦後、
あまりにも戦没者の腐敗臭がひどいので、
米国が飛行機で、
『タガンタガン』と呼ばれる木の種子を撒いたのだ、と学んでいました。


この木は日本の「篠」に似ていて、
根が深く、
切っても切っても次から次へと生えて来て、
成長も雑草のごとく早いです。


この木にハチが群生したのです。


けれども地元の島民に聞いて見ると、
僕たちが学んだ事とはちょっと違いました。


このタガンタガンと言う木は、
周りに生えている果樹の栄養分まで吸い取り、
全てを枯らしてしまう。


だから我々は今までのように、
誰もが自由に取って食べていた、
自然の恵みである果実がほとんど枯れた。


その後に米軍がやってきて、
配給が始まった。


この配給がなかったら、
島民は餓死していただろう。


米国は言っていた。


「我々によってお前たちは生かされている。
だからもう二度と

日本人の言う事は聞いてはならない。
お前たちを犠牲にし、

苦しめたのは日本人なのだから」と。


『日本人は悪だ』という教育も始まった。


でも当時を知っている私たち年寄りはみんな知っている。


日本の兵隊さんはみんな親切で、
いい人達ばかりだった。


私たちを騙したり、
暴行など一つもしなかった。


若くて、親孝行な人ばかりだった。


島に昔から伝わる話で、

親孝行な人に悪い人はいない。


日本人は我々に、

「肌の色が違うだけだ」と言い、

同じ人間として接してくれていた。


それなのに米国は、
我々がもう二度と日本人に味方しないようにと、
タガンタガンの木の種を山に撒き、
それによって食料を奪う事で、
何百年も自給自足できないようにした。


その為に配給した。

(※TPPと同じ戦略?)


私たちの山を殺したのは米国だ。


日本の兵隊さんたちは、
いつも楽しそうに歌を歌いながら、

一緒にマンゴを取るのを手伝ってくれた。


天から与えられたものだから、

誰もが自由に取って食べて良いのに。


日本人の礼儀正しさに感心した。


「こんなに甘い果物、家族にも食べさせたいなぁ」…

とみんな呟いていた。


おいしい、おいしいと言いながら、

泣く人もいた。


そんな優しい人たちがみんな死んだ。


それに、乾燥地だから、
死臭はすぐに消える事を私たちは知っている。。



僕たちは戦争の悲惨さと共に、
日本軍と米軍が行なってきた事を学びました。


断崖絶壁の途中にある、
小さな洞窟の中に、
多くの密集した遺骨を発見しました。


ダイナマイトを放り投げられたのでしょう、
遺骨も食器もバラバラになっていましたが、
壁面には、
『お母さん』…

と書いた字がうっすら消えかかっているのを見つけました。


お守りや写真の破片も

あちこち飛び散っていました。


当時は僕たちと同じ学生がここで戦っていた…


もう34年も経っているのに、
まだ戦争の爪後は残されていました。


私たちは教科書には載っていない事実、
そして従軍慰安婦問題にしても、
かなり歪曲された事を信じ込まされているのかもしれません。


戦時中の歴史を調べれば調べるほど、
日本人はどんな時でも潔く、

高貴な魂を持っている民族だと気付きます。


核を落とされても米国を恨まず、
震災でも暴動を起こさず、
助け合う心を持った日本人。。



これを書いている時、
一緒にエジプトに行った駒川先生から、
こんな情報を頂きました。


シンクロですね。


彼はもう開いているのかも?(笑)



下記はその「駒川先生」 からのメール内容です。



今日は朝から大変感動したブログ記事を見ましたので、
ご紹介させていただきます。


自虐史観的な歴史を教えられる日本人にとって、
違った観点からの歴史も知ることで、
日本人としての誇りを持つことができると思います。


(是非下記を開いて読んでみてください!)


「ねずさんの ひとりごと」


おりしも

原爆投下を命じたトルーマン大統領のお孫さんが

来日されているそうです。


自分の祖父が決断した行動を、

孫である自分が責任を持って事実を見る必要があると、

厳しい意見にさらされるのを覚悟で来日したそうです。


原爆被害者との対談で、

ただただ被害者の意見を聞いているお孫さんと
恨みつらみを言わずに

原爆被害の悲惨さを訴えている日本人たちと、
双方ともの立派な行動に感心しました。


今日は広島の原爆記念日。


広島にも長崎の記念式典にも出席するそうです。


でもやはり平和な社会が一番素晴らしいですね!


駒川より。