癒しの条件その⑤


お互いの信頼

 

1)癒しはお互い信頼がないと効果は現れない

 


2)発信と受信の擦れ違い現象


3)不信感や疑心によって反目する


4)母子の関係が最も癒しの効果が現れる


5)手を当てて祈るだけでも効果がある


6)相手の痛みを一端自分に受け入れて、
大地に流すつもりの覚悟が必要

 

 

聖書では、イエスが故郷ベツレヘムに帰った時に、
癒しの奇跡がなぜ現れなかったか知っていますか?

 

 

 

癒しの条件の5番目、

 

それは「お互いの信頼」です。


両者に信頼がないと、
どんなに愛を持って行なっても癒しの効果は現れません。


ベツレヘムの人たちは大工のせがれに何ができる…
と不信感だったのですね。


つまり疑問ではなく、疑心です。


疑心では何も起きません。


疑問と疑心の違いについてはお話した通りです。

 

「お前が救世主なら、俺の目を治してみろ」とか
「神の子なら足を治せるはずだ」
という人ばかりだったのですね。

 


結局イエスは、誰一人癒すことができなくて、
「ほうぼうのてい」で故郷を後にしています。


いくら思いの発信が愛に満ちたものであっても、
受信が反目していては実(み)は成らないのです。


まるで、岩場に草花の種を撒くようなものです。


何も実りません。
つまり、癒しを行う条件の一つに、
お互いの「絶対的信頼」があるのですね。


お互いに不信感を思っていては、
絶対に癒しのパワーは相手には届きません。


ということは、
あなたを最も信頼している人に癒しのパワーを与えると、
いとも簡単に元気になります。


例えば母親と息子の関係です。


もしくはその反対です。


これほど大きな信頼関係はないと思います。


だからよく効くんです。


まず癒しの練習の手始めとして、
お母さんにやってみると言うのも良い方法ですね。


「手当て」と言う言葉があるように、
ただ相手の身体に手を当てているだけで元気になります。

 


824(エニシ・縁・円の循環)

 

 

8→永遠・浄土・メビウス・パラダイムシフト・八正道

 


2→陰陽・裏表・+-・男女・精神と肉体・善悪


4→四苦八苦・悟りへの道・起承転結


24→西方(イスラエル)・黄金・ゴール


48→阿弥陀の誓願
(2+4)×三位→18番目の本願(十方浄土)


18→弥勒菩薩(弥勒の法則を悪用した666=魔)


(8+2)×4→完成霊数40、400、444



さて、
阿弥陀の立てた48の18番目が本願といって
一番重要な意味を持ちます。


歌舞伎のおはこ、「18番」というのは、
得意技とか、
人がなかなか成し得ないことをやったときに

掛ける掛け声です。


成し得ないことをやったから18番なんです。


阿弥陀の18番目の願いと言うのは、
全宇宙の人類の極楽浄土を作り上げる・・・

というものでした。

 

阿弥陀の愛と慈悲によって、
人はある一定の条件さえあれば、
どんな人も「成功・喜び・幸せ・安らぎ」が得られますよ・・・
というシステムを作り上げたのですね。

 


十方の浄土、
つまり全人類の幸福になるためのシステムを、
一人ひとりの人生の設計図に組み込んだのです。


それが今までお話ししている

「人生の阿弥陀久慈」なのです。


阿弥陀久慈は、
常に次の慈悲の道が用意されているんですね。


道は2又、あるいは3又に分かれます。


一時的に失敗しても、
次の道は成功の道が用意されているということですね。


その「一定の条件」というのは、
「希望を持ち続けること」と言いました。


希望さえ持ち続けていれば、
失敗しても必ず阿弥陀の慈悲の道が用意されていることを、
心の底から信じるということです。


これらの事実を知ることが
癒しを行なうものにとっての最低の認識なんですね。


希望を持っていなくて人に癒しを行なうことは
「ラクダが針の穴を通ることよりも難しい」のです。

 

 

癒しの条件その⑥
欲を捨て、

 

 

願望・希望を持ち続ける

 

欲とは、
己を知らずに、
われ先にと自分に無いものを求め続けること(偽我)

 


願望とは、
自分を知って、
自分と他人に必要なものを求めること(利自即利他)  

 
希望とは、
自分を知り、
大宇宙や大自然、
そして他との調和を図りながら

限りなく進化・発展していく過程 (真我)

 

 

欲と願望と希望の違いとは何でしょうか?

 

 


欲とは、
己を知らずに、われ先にと
自分に無いものを求め続けることを欲といいます。


「吾、唯、足るを知る」が全く無い人です。

 

「吾、唯足るを知る」についての解説がありましたので
下記に記します。

 

 

石庭で有名な京都の龍安寺につくばいがある。

 


つくばいとは、茶室の庭に据える手洗い鉢のことだ。


円形の石の中心に水をためる「口」の形、
その上下左右に文字を彫り、
「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」と読む。


カネやモノ、地位や名誉…。


人間は常にそれらを満たそうとするけれど、
ほどほどのところで満足しようという、

心がけの言葉だろう。


釈迦の教えを書いた「遺教経(ゆいきょうぎょう)」や
中国の老子が「足るを知る」を説いており、
東洋に古くから流れる思想である。

 

例えば、老子はこう書く。

 


足るを知る者は富むと-。


竜安寺は臨済宗の禅寺だが、
この精神が養生訓に繋がり、
禅の心や茶道の心と結びついたわけである。

 

 

欲と願望の違いについて

 

 

 

自分を知らずに、
われ先にと自分に無い物を求めてばかりいることを

「欲」と言うんです。

 

これは本当の自分を知らないから

 

そうなるんですね。


偽りの自分だから、これを偽我と言います。

 

自分を知って、
自他に必要なものを求めることを

 

「願望」と言います。

これは、自分の利益が他人の利益に繋がる、
もしくはその反対ですね。


これを「利自即利他」と言います。

 

願望は全ての条件がそろえば誰でも実現しますが、
欲はなかなか実現しないものです。

 


万一、欲が実現したとしても、
後でその反作用、大失敗が必ず来ることになっています。

 

これも一つの法則です。

 


ちなみに「希望」とは、
自分を知り、大宇宙や大自然、
そして他との調和を図りながら
限りなく進化・発展していく過程を言います。


これを真なる我、つまり「真我」と言います。

 

では具体的に、

 

願望と欲の見分け方はどのようにしたら良いのでしょう。

 

願望には、

良くない反作用というものがありません。


あるのは「実現」だけです。


そしてより鮮明なイメージ、

ビジョン、目標、計画が生まれてくるものです。


心に引っかかりがないのですね。


(※ローソク祈願で書き直すという行為は、
心に引っ掛かりのあるものは実現しないからです)

 

子供のように素直にイメージできる。

 


勿論、罪悪感や不安、恐れなどは存在しない。


達成したら和やかな顔も浮かぶ。


「何が何でも!」といった力みもあせりも生じない。


そういう状態になれたときには、
「自己否定」の思いや

「自分にはできない」といった自己卑下が少なく、
すんなりと行動に移せる場合が多いんです。


よって怠りなく継続も努力も工夫もできるし、
実現の可能性も高くなって来ます。


いろんなインスピレーションも降りてくるし、
病気が癒される可能性も高くなって行くんですね。

 

欲は勿論、これらが逆になります。

 


欲は、思い浮かべただけで目つきが上がり、
脂ぎった顔つきになり、不適な笑みになるでしょう(笑)。


また、自分の思い描くその内容を、
第三者に堂々と公表できないことが欲でもあります。

 

よって、
癒しの条件その⑥として、
「欲を捨て、願望・希望を持ち続ける」ということになります。