前回たくさんのコメント、ありがとうございます。


涙が出るくらいに嬉しかったです。


でわ、調子こいてどんどんぶっ放しますね!

 

 

 


希望と喜びが溢れるJES社長のブログ
 

 

 

 


上記の絵について

 

仏陀の絵を海外のインターネットで見つけました。

 


絵の説明では、
「ゴーダマ・シッダールタの史実に基いた真の姿」

…ということです。


実は僕のビジョンで沸いてきた仏陀と
とても良く似ていたので参考の為に掲載しました。

 

始め、とても女性的で優しい目をされていたので、
どちらかと言えば、

 

弥勒菩薩かな…と思ったのですが、
やっぱり仏陀だったようです。


でも僕が浮かんだ仏陀は、
この絵よりもっと小柄で華奢な身体だった感じがします。


でも声はとても大きかったです。

 


確かに、
カピラヴァースト(カピラ城)の王子であったシッダールタが、
現代に伝わる大仏のようにメタボである訳がありません。

 

 

仏陀がメタボな姿に変わった理由としては、
仏教が中国に渡った時点で、
大陸の土着宗教と相重なり、
「ふくよかで豊満な方がイメージが伝わりやすい…」と、
当時の権力者の都合で改ざんされたのだと思います。

 

 

お釈迦さまが本当に当時、
大仏のように肥えた姿で『乞食(こつじき)』なんてしてたら、
「お前、何食ってんだ!」と、

 

みんなから石をぶつけられますし(笑)。

 

真理は常に、
当時の権力者(大人)の都合によって変えられますね。。

 

 


下記は参考までに釈迦の悟り…らしい。

 

(T先生の言われた内容を参考にしました)

 

自分の意識は宇宙大に広がり、
宇宙が自分の意識の中に入って行くのを感じた。

 


全宇宙の拍動が美しい星と共に、
自分の眼前に繰り広げられて行く。


何もかもが美しい。

 

生命の躍動が、手に取るように感じられてくる。

 


あの森も、あの河も、町も、地球も、

明星も、天体の星々も、
神の偉大なる意思の下に息づいている。


まるで光明に満ちた大パノラマを見ているようだ。

 

見ているようでいながら、自分の肌に、
生きとし生けるものの全ての呼吸が、
直に感じられてくる。

 


大パノラマは、
そのまま自分の意識の中で、動いているのだ。


36年間に作り出した不調和な暗い心、

想念の曇りが、
この瞬間において、光明と化したのであった。

 

やがて夜明けになって、
釈迦はゆっくり目を開けた。
その眼は、在るがままに観て、
在るがままにとらえる眼であった。

 


ブラフマン(梵天)は、
「釈迦よ、人々に真理を説き賜え」と伝えた。


釈迦は言う。


「世の人々は、

私の悟った真理を理解できるとは思えない」


梵天は、

「このままでは世は希望を失い滅びてしまう」と思い、
尚、釈迦に
「世の中には、泥の中から咲き出る蓮のように、
あなたの教えを受けて、

見事に華を咲かせる者もきっといる」
と告げた。


そして釈迦は考えた後、ゆっくりと立ち上がり、
真理を伝えるべく第一歩を踏み出した…。

 

 

疑問追求

 

 

 

上記の釈迦の悟りは、

 

僕が感じた「宇宙即我 」と多少似てますが、

質も感じ方もレベルが違うなぁ…と思います。

 

宇宙即我は、

瞑想によって誰でも感じることができます。

 

違うのはその奥、

質と感じ方のレベルなんだと思います。

 

ブラックホールの存在が僕には大きかったのですが、

それは僕自身に、

闇意識が強いからかも知れませんね(笑)。

 

でもやはり仏陀も、

自分の得たビジョンを言葉で『アラワス』ことは

とても難解なことだと思ってたみたいです。

(※当然、怠惰な僕とは比較にはなりませんが)

 

 

さて、これから話す内容について、
後で分からないところとか疑問とかがありましたら、
コメントに書いていただければ幸いです。

 

実は、
この疑問を持つということはとても大切なことなんですね。

 


今回のビジョンも僕自身の疑問も含め、
みなさんの疑問から始まったものだからです。

 



疑問と疑心の違い

 


講演会などでは、
「質疑応答」というコーナーが
よく設けられる事があるかと思います。


僕は仕事がら、
この25年間で2000回以上の講演会に立ち会っていますが、
よく会場の後ろの方で、
モニター越しにその質疑応答の様子を見ていると、
ある一つのことを気付いたのです。


それは何かと言いますと、
質問を発した段階で、
既に質問者の中には答えが用意されている…

ということなのです。


自分の答えを既に持っていながら、
それなのに講師に質問しているのです。


そして講師が答える言葉と、
既に自分の持っている答えとが一致しますと、
「う~ん、なるほど、名回答だ、素晴らしい先生だ」
となるのです。


これはどういうことかと言うと、
勿論、中には
自分の持っている答えを確認する意味で

質問することもあるのでしょうけど、
明らかにその答えが分からずに質問する方もいます。


それでも心の中では、
「きっとこれか、こちらかのどちらかが答えなんだろうな」と、
2択あるいは3択4択と、
様々な答えを潜在的に既に持っているのですね。


それらの1つでも合致すると、

「なるほど」と納得するわけです。


ちなみに、

最初から否定的な思いの「疑心」の質問は、
虚偽の答え、

間違った答えしか自分の内側には用意されておりません。


疑問ではなく、最初から疑っている疑心では、
何の発展性も真実の答えもないということになりますね。

 

 

 

答えは全て内にある


結論を言えば、
疑問というのは意識の進化を目的に、
発信(第一の意思)と受信(第2の意思)というものがあり、
同時に受信と発信が同時に行なわれる現象…

ということですね。


そこに第3の意思、
つまり法則がプラスして働くと、
様々な奇跡、正しい思念、必要なインスピレーション、
シンクロ、結果を生む行動等ができるようになります。


つまり全ての疑問の答えは、
既に自分の中にある…ということになります。


その内側の答えを見つける作業が、
疑問追及という事になりますね。

 


人生はアミダクジ

 


人生の選択は、

結果的にどっちを選んでもよい…という話をします。


人生はアミダクジです。


でも皆さんが昔遊んだ、
当たりとかスカとかのアミダクジとはちょっと違います。

 

なぜ、アミダクジというかと言うと、
そもそも「阿弥陀」と言う名前は、
今から約2500年ほど前、
インドのきしゃくつさん(耆闍崛山)という山で、
仏陀の説法の中で説かれた中に初めて出てくる如来の名前が

 

阿弥陀 」です。


そしてクジというのは賭け事ではなく、


「神のご加護(慈悲)による人生の選択」

 

という意味で、
神道や密教にも
『九字』を切って旅先の安全を祈願することがあると思います
(魔からのバリアを張る方法でもある。

「希望の星」参照)。

 

この「九字」にもいろいろと言い方があるようです。

 

 


覚りや悟りを定義する九字

 


阿耨多羅三藐三菩提
(あ・のく・た・ら・さん・みゃく・さん・ぼ・だい)


陰陽道や風水等に使われる九字

 

朱雀・玄武・白虎・勾陣・帝久・文王・三台・玉女・青龍
(すざく・げんぶ・びゃっこ・こうちん・ていきゅう・
ぶんおう・さんたい・ぎょくにょ・せいりゅう)


病魔等を払う九字

 

令百由旬内無諸衰患
(りょう・ひゃく・ゆ・じゅん・ない・む・しょ・すい・げん)


密教系が使う九字

 

臨兵闘者皆陣列前行
(りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう)

 


僕の尊敬しておりますT先生は、
「人間は一人ひとり人生の設計図を持って生まれてくる」…

 

と言いました。


そのT先生も生前、
「人類は3億6000年前に始めて地球に降り立った」

と言っているのですね。


私がそれを聞いたのは、今から26年前です。


勿論、NASAのK先生も、

T先生という存在は知っておりません。


でも「3億年以上前」という内容は一致しているんですね。

(※「希望の星 」参照)

 

 

「人間は一人ひとり人生の

 

設計図を持って生まれてくる」

 

…ではその設計図とは何か?


その設計図とは、
「人生の阿弥陀くじ」のようなもので、
ありとあらゆる可能性と道が書き記されている

膨大な選択肢のある
「慈悲の表」ではないかと思うのですね。

 

九字とは、

 

「久慈」が大元の意味なのです。

(※久遠の慈悲)


阿弥陀くじというのは全て二股に分かれてますけど、
本当はそれが3つだったり4つだったり、
そして立体的に、
他の人とも関わって幾十にも重なっているのが
本当の『阿弥陀久慈』なのです。


しかも皆さんが言っている

「人間に与えられた自由意思」とは、
その選択肢の書いた表の制限の中で存在する…

と思うわけですね。


人間が魚になりたいと思ってもできなかったり、
別の惑星に引っ越ししたいと思っても

できないのと一緒です。


だから、本当のことを言えば自由ではないんです。


つまり、

表に書いてない選択肢は選びようがないわけだから、
広義に考えれば人は、完全なる自由意思で、
人生を渡っているのではないと言う事になります。


どういう事かと言うと、
もし「アメリカの大統領になる」という計画が設計図がなければ、
現実的に、

どんなに努力しても大統領になることはないのです。

 

実はこれはとても重要なことなのです。

 


というのは、
中には
『人生の設計図に無いものを

一生懸命求めている人が多い』…ということです。


自分の人生の設計図にないものを
いくら求めても得られるはずがないのです。


大統領になる可能性は「0」なんですね。


「これじゃ、夢も希望も無いじゃないか!」…

って怒られそうですが、
でもしょうがない真実なんです。

 

結論を言えば、

 


『願望や希望を信念として

思い続けられるかどうか』…


の、「期間」がとても重要になってくるのです。


思い続ける期間が

三日坊主ではだめだという事なんですね。


思い続けることができなかった場合は、
その願望や希望、そして目標が、
自分の設計図に無かったことを意味しています。

 

法則として、

最低でも『21』という数がとても重要になります。


21日間ずっと、その希望なり目標なり願望なりが、
思い続けられるかどうかが重要なんです。


この事はこれから話す事の前提として、
皆さんに知っておく必要があるんです。

 

 

 

阿弥陀とは慈悲そのもの


「阿弥陀」とは『慈悲でもあり愛』でもあります。


でも人によっては、

アメリカの大統領になることが即、
その人への慈悲にも愛にも繋がらないんですね。


だから設計図に無い人が多いんです。


しかしながら、
アメリカの大統領になる…というのが設計図になくても、
「日本の総理大臣になる」という計画や使命が、
この設計図にあるかもしれないのです。


総理大臣になれなくても、
国会議員や地方議員になる計画が

あるかもしれないのです。


この議員になれたのも、
当初の「アメリカの大統領になりたい」という、
強い信念と希望と努力があったからかもしれないのです。


大宇宙の意識から見れば、
アメリカの大統領も日本の総理大臣も国会議員も、
質的な問題であって、大した差ではないのですね。


もし最低でも21日間、
「アメリカの大統領になる」と思い続ける事が出来たなら、
大統領になれなくても地方議員になる可能性は

充分にあるのです。


議員になることが自分の設計図に無ければ、
まず21日間、思い続けることはできません。


よって、
大統領になる事も

総理大臣になる事も議員になる事も叶いません。


言い換えれば、
自分の設計図に無いものは思い続けることができない…

ということになります。


潜在意識下(無意識)で

自分の方から否定しているからです。


無理して、
トイレに「大統領になる」と大きく紙を貼っていても、
手帳に書いてても、
毎日写経のように21日間書き綴っても、
イメージコントロール(自己催眠)で思い込むようにしても、
絶対に叶う事はありません。


この21日間は、
ある特定の方法、儀式と呼んでもいいかもしれませんが、
その方法で思い続けられるかどうかが

一つの目安になります。

 

 

最終的に人は、

 

 

成功・喜び・幸せ・安らぎが待ち受けている

 

また、『慈悲と愛』の目的に沿って

 

設計図が用意されているということは、
「挫折も絶望も失敗も恐れもない」ということになります。


どういうことかというと、
どんな道を選んでも、

それが失敗や挫折や絶望の道だとしても、
必ず次の道(救い)があるからこそ、
「アミダの慈悲=阿弥陀久慈」だと思うのです。


ゲーム上のアミダクジには

それぞれの選択によって結論が違います。


失敗やスカ、はずれもあります。


けれども人生の阿弥陀久慈には、
一時的に途中で失敗だとか感じることはあっても、
最終的には、
成功とか喜びとか幸せとか安らぎが、
どんな人にも待ち受けているのです。

 

 

成功、喜び、幸せ、安らぎの条件


ただし、条件があります。


その条件とは、
「希望を持ち続けること」なのです。


希望の内容がその都度変わって行ってもいいのですが、
希望を持つことだけは諦めない…ということです。


とにかく「希望を持ち続ける」ことが、
成功、喜び、幸せ、安らぎの絶対条件です。

 

アメリカの大統領になるならないは、
実はその人にとって成功、喜び、

幸せ、安らぎとは繋がらないし関係ないんです。


「希望を持ち続ける」ことだけは絶対、
人間として捨ててはいけないことなのです。


どんな困難、苦しみ、挫折を味わっても、
自分の未来に希望を持ち続けることなのです。


希望さえ持っていれば、
必ず次、

またはその次には阿弥陀の慈悲が待ち受けています。


成功、喜び、幸せ、安らぎの感じ方とか、
その大きさ、質量、深さは人によって感じ方が違いますが、
最終的にはこの、

成功、喜び、幸せ、安らぎが待ち受けているのです。


神は人間に、
途中でどっちの道を選ぼうが

全く気にしてないと僕は思います。


なぜかと言いますと、
それは時間的な「質量」…

つまり近道しているか遠回りしているか、
そして物質的な「質量」…

つまり、お金があるかないか、
物が多いか少ないかだけの量の問題だけであり、
神の目から見たらあまり価値がないのですね。

 

それぞれの魂が最終的に辿り着くところは、
この成功、喜び、幸せ、安らぎを得られる境地なのです。


そのためには、
どんな状態になっても

希望を持ち続けることが最低条件となります。


なぜこんなに「希望・希望」としつこく言うかというと、
この希望があったからこそ、
人類は3億6000万年の間、

絶滅もせずに生き続けて来たからです。

 

 


さて次回は、
では具体的に自分の希望や願望、目的が、
自分の設計図に書かれているのか

 

 

書かれていないのかの確認の仕方、
または21日間、
どういう風にして思い続けることができるのかについて

話したいと思います。


 

…が、

今月は明日から関西の出張があり、
帰って来てからのお楽しみにして下さい。
予定では、9月の初旬に更新したいと思います。


 

ありがとうございます。