今日はぼやきを許して欲しい。


もう震災から3週間経った。


にも関わらず、

いまだに物資は被災者の手には届かない、

少人数の避難所が多いと聞く。


4/2、管首相は福島県陸前高田市の避難所に訪問。


管首相は、

「物資が届かない状況はどうなってますか?」と、

避難所にいる被災者に質問したという。


開いた口が塞がらない。。


逆に管首相が、

被災者から聞かれるべき質問なのに。



実は、

救援物資はどんどん集積所に運ばれている。


避難所ではなく、近くの集積所である。


いわき市などでは、

競輪場を物資の集積所にしているが、

大量に積まれた物資が山積みになっているらしい。


灯油タンク、食糧、毛布、飲料水、ティッシュ、生活用品…

企業やボランティア団体等からの善意の提供だが、

とんでもないくらいのかなりの量だ。


しかし、

小規模な避難所ほど、被災者の手には届かない。



混乱しているさなかの話だが、

ある業者は市から依頼され、

弁当会社から5,000食が提供された。


しかし、被災者には届けられず、

結局、廃棄処分された。


ある小さな避難所ではいまだ、1日パン1個と僅かな水、

そして灯油切れ、

更にはようやく意識が現実に戻って、

事の重大さと精神的ショックとストレスにより、

毎日何人かのお年寄りが亡くなっていると言う。



また、津波の被害に遭った地域では、

ボランティアの多くが市役所に集まっていた。


しかし、被災者からの依頼電話が無いと動けない。


ただ大勢の善意の若者が、

ただじっと市からの指示を待っているだけ。


被災者はこのことを知らされてないから、

誰も連絡などしない。


ある被災地では、

津波の被害を受けた老人が、

泥で汚れた家財や畳を必死に外に出していた。


『誰か、手伝って欲しい…』と、苦痛に満ちた顔で訴えていた。


電話は断線、携帯電話も持っていない。


そして市では、

ただじっと電話が鳴るのを待ち、

会場で指示を待つボランティアの若者たち。


なぜ市は、

彼らを使ってチラシを撒こうとしないのだろう。


なぜ、

善意のボランティアが待機していることを知らしめないのだろう。


なぜ、

連絡が無くても被災地に向かわせないのだろう。



そこで、「物資は我々が運ぶから…」と名乗り出た人がいた。

しかし、市から指示があるまで運んではいけないという。


何を運ぶか、いくつ運ぶか、

市の在庫調整があるからだと言う。


一つの被災地に1,000人の避難者がいて、

995人分のおにぎりしかなかった場合は、

その避難所には運べない《決まり》になっているという。


誰がそのルールを決めたのか。



そして結局、6時間待たされた後に、

「今日決定するのは難しい」…と拒否された。


多くのボランティア達も、何もすることなく帰って行った。


そして、その数も日々減って来ているという。


今、一番恐いことが起きているような気がする。



連日、

何とか助けたいと思って集まっても、

ボランティアには何もやることがないからである。


市の職員も国も自衛隊も警察も、

みんな必死で動いているのは分かる。


しかし、何とかしたい、

何とか力になりたい、

何とか助けたいと思っている人たちが大勢いる。


ただそれらを繋ぐ、

行政や国の命令、指示系統がない。



完全なる縦社会の構造。



なぜ行政は彼ら一般の方々の力、そして善意を生かせないのか。


なぜ現場の職員は皆、上からの指示が無くては動けないのか。


緊急事態では誰も決断できないでいる。


しかし、

緊急事態だからこそ即断すべきではないのか。




多くの義援金も全国や世界からどんどん集まっているという。


そして、ソフトバンクの孫さんが、

役員報酬を返上し、100億円の寄付をしたという。


それ自体は素晴らしいし、凄いことだと思う。


しかしその善意のお金も、

指示が無いと動けない国や行政の手に委ねられる。


そのための予算編成、

使い道などを連日会議を行ってから使うとのこと。


いつ決まるか分からない。


それまで誰も使えない。


税金の使い道をあれこれ考えていることと同じことをしているのでは…

と勘繰ってしまう。


仏教に『毒矢のたとえ』があるのを思い出した。


《毒矢のたとえ》


ある人が毒矢に射られた。

すぐに矢を抜いて処置をしなければならない。
ところが、


「一体この毒矢を射た人は誰か、
どんな名前の人か、
どんな顔の人で、どこに住んでいるか、

どんな弓で射たもので、どんな毒なのか…」


と理論だけを追求していたら、結局その人は手遅れになってしまった。



今、国はこれと同じことをしているのではないだろうか。


今、必要なものを必要な人に手渡すだけなのに、

なぜこんなに手間取っているのだろう。


時間が過ぎれば過ぎるほど、犠牲者がどんどん増えるのに。


このブログを編集している時に、

コメント欄で的確な記載を頂いた。


『命にも期限があるのに…』



本当にその通りだと思った。

(※ペリステライトさん、コメントありがとう)



国は、法律やルールよりも上に、

ひとりの命を優先すべきことを知らないように思える。


ルールは時に弊害となる。


今こそ、ただ一言、

『各地の現場の責任者に任せる』…と言えば良いだけなのに。



国も行政も命令、指示を出すためだけに会議を行い、

そして現場もただそれを待つのではなく、

現場にいる長、

もしくは一人ひとりの決断こそが大事な時だと思うのだ。


非常事態に必要なのは、現場の決断だけなのだから。


自分の責任や立場を考える前に、

一人ひとりが扶け合う、

『相互扶助』の本質を分かってもらえれば…と思ってしまう。





話は変わるが、私は以前、

新型インフルエンザの防止のために、

多くの方に警鐘を鳴らした。


当時は誰も、

『季節性インフルエンザの強いものだろう…』

程度にしか思っていなかった。


むしろ批判の方が大きかった。


『オーバーだ!』


『恐怖をあおっている!』


『良くない風評を広めようとしているのか!』


しかし、私はどう思われようと、

何としてでも被害を最小限度に食い止めたかった。


そして、生体ミネラル「希望の命水」と、

N-95以上の「高機能マスク」等を普及した。


多くの方にもプレゼントした。


理解して頂いた方は、

その被害を最小限に食い止めることができた。


新型インフルが流行し始め、

顧客のお子様に学級閉鎖、学校閉鎖が相次いだ。


クラスメイト全員が罹患しても、

顧客のお子様たちには何も症状が出なかった。


出たとしてもその多くが軽症で済んだ。


間違いなく罹っていたのに、微熱で済んだ方もいた。


『恐怖を煽る』ことと、

『真実を伝える』こととは違う。



今回の放射能対策も同じことのように思う。


75%以上の根拠が無ければ私は伝えない。


また、対策が見つからない場合も伝えることはしない。


単に恐怖を煽る、『陰謀論者』になりかねないからだ。


多くの風評がネットで溢れている。


この地震が、

人工であろうが地球の浄化作用であろうが、

今はそんなことはどうでも良い。


先程の『毒矢のたとえ』と同じで愚かな論争だ。


いずれにしても、結論なんか出るわけがない。


今の被災者の命を一人でも救うことが先決だ。



最悪の場合を想定して準備することは、

「危機管理」であって「防災意識」である。


危険性が1%でも、

最悪の事態が来てからでは遅いのだ。


それが無駄になることが理想だと思っている。



現在、

津波で亡くなった方、行方不明の方は3万人に届こうとしている。


火葬では間に合わないという事で、

ウイルスなどの二次災害を恐れ、土葬に決定したと聞く。


私が新型インフルの対策を広めたのは、

2006年7月12日に見た単なるインスピレーションがきっかけだった。


無意識レベルの妄想にしか思わなかった。


私はすぐに人を信じてしまい、

自分のインスピレーションほど当てにならないと思っている。


人一倍自分に疑いを持ってしまう。


広場にショベルカーで大きな穴を掘り、

マスクを掛けた人たちが、

亡くなった方々を袋に入れて、

まとめて穴に葬るシーンを映像(※イメージ)で見せられた。


当時にそれと同じシーンを、

新型インフルのパンデミックを想定したテレビ番組を見て、

衝撃を受けた。


そこでてっきり、

パンデミックが起きてこれと同じ状況になると思った。


単なるイメージ、妄想をいったん受け入れたのである。


疑心から疑問に変わった。


その後に多くの資料を探して読み、

このイメージは間違いなく根拠があると思った。


そこで、

私の無意識から出たことが現実になると思い、

よって、パンデミック対策を本格的に練った。


そして現在、

パンデミックとは違うが、それと同じことが起きている。


しかし今回、マスコミはその実態を一切報道しない。


どれだけ悲惨な状態か、今は誰も伝える人はいない。