激しさ増すロヒンギャ迫害 世界を揺るがすもう一つの難民問題 ミャンマー | You're My Heart! You're My Soul!!

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東南アジアのミャンマーに居住する、少数民族ロヒンギャに対する迫害、虐殺が深刻化しています。ミャンマー政府は国際社会からの批判の高まりを受け、ロヒンギャに対する人権侵害を調べるための調査委員会を設置。2017年1月4日調査委員会は、迫害などの人権侵害はなかったとの中間報告を公表しました。

しかし中間報告公表の2日前には、ミャンマー治安当局によるロヒンギャ弾圧の映像が公になっており、調査委員会の報告には疑問符がついています。

最終報告は1月末にまとめられる予定で、その内容が注目されます。

 
中東のシリア内戦による難民の欧州への大量流入が、国際的に大きな問題になっていますが、東南アジアにもそれ以上の問題が存在します。
ミャンマーに居住する少数民族ロヒンギャは、以前より弾圧、迫害を受け、周辺国へ大量に流出しています。しかし周辺国もロヒンギャの受け入れには消極的で、ミャンマーへ強制的に送還または周辺国もミャンマー同様に、ロヒンギャへの迫害を行っているのが現状です。
ミャンマー政府は以前からロヒンギャを迫害していましたが、今回調査委員会を設置したのは、ロヒンギャへの迫害が激しさを増し、国際社会特に東南アジア諸国連合内からもミャンマーを強く非難する声が上がったためです。
 
ロヒンギャ迫害が激しさを増したきっかけは、2016年10月に発生した事件でした。
2016年10月9日ミャンマー西部ラカイン州で、武装組織が国境検問所を襲撃し警官9人が死亡しました。ミャンマー政府はロヒンギャ武装組織によるものと一方的に断定。国軍はロヒンギャへの攻撃を始めました。
事件については正体不明の組織が犯行声明を出しており、その信ぴょう性については不明です。
10月11日ラカイン州のマウンドーで、ミャンマー国軍と武装組織が衝突。10人以上が死亡しました。翌12日にも衝突が発生し、多数の死傷者が出ています。
武装組織の正体がミャンマー政府のいうロヒンギャかどうかはいまだ不明ですが、一連の事件には複数のの組織が直接的、間接的に関与している模様です。
ミャンマー国軍によるロヒンギャ迫害が続く中、隣国バングラデシュに逃れたロヒンギャは、すでに5万人を超えています。もはや迫害、弾圧の域を超え、民族浄化といえる状況にあります。
 
2016年12月4日マレーシアの首都クアラルンプールで、ロヒンギャ迫害に抗議する集会が開かれました。この集会にはマレーシアのナジブ首相も参加。演説の中でナジブ首相は、ミャンマー政府を激しく非難。さらにミャンマー政府のトップであるアウン・サン・スー・チー国家顧問にも、矛先を向けました。
またインドネシアも12月6日に、外相をミャンマーに派遣しロヒンギャ問題の解決を促しました。
12月8日には国連がアウン・サン・スー・チー国家顧問に対して、ラカイン州の現場を視察することを求めました。
12月19日にはミャンマーのヤンゴンで、東南アジア諸国連合(ASEAN)非公式外相会議が開催されました。議題はロヒンギャをめぐる問題です。アウン・サン・スー・チー国家顧問は会議で、事実関係の調査を約束したものの、具体的な解決策は示されませんでした。
ロヒンギャ問題の現場になっているラカイン州は、外国人ジャーナリストなどの立ち入りが禁じられており、現地の詳しい状況は不明のままで、隣国バングラデシュに逃れたロヒンギャの声が唯一の情報源といってもいいでしょう。
バングラデシュには多くのロヒンギャが避難していますが、バングラデシュは公式にはロヒンギャの受け入れを拒否しています。バングラデシュのロヒンギャは不法入国者としての扱いのため、保護対象ではなくいずれミャンマーへ送還されることが予想されます。
 
ロヒンギャ問題についてミャンマー政府は、あくまでも国内問題であり、国際的な非難は内政干渉だとして反発しています。しかし周辺国を巻き込んだ大きな問題に発展しているため、国内問題とするには無理があります。インドネシアやマレーシアは、国内問題ではなく国際問題だとして逆にミャンマー政府を非難しています。
 
2016年12月29日歴代のノーベル平和賞受賞者23人が、ロヒンギャ問題の解決を求めて国連安全保障理事会に書簡を提出しました。この中でミャンマー国軍の行き過ぎた軍事行動だけでなく、ミャンマー最高指導者でノーベル平和賞受賞者でもあるアウン・サン・スー・チー国家顧問も批判の対象になっていましたが、アウン・サン・スー・チー国家顧問は現在もなお国軍の行動を黙認。もはやアウン・サン・スー・チー氏がロヒンギャ問題を深刻化させているといっても過言ではない状況になっています。
 
ロヒンギャとはミャンマー西部ラカイン州に居住する少数民族です。宗教はイスラム教(ミャンマーの多くは仏教徒)。ロヒンギャの起源については諸説あり、謎が多くはっきりしません。
ラカイン州では15世紀から18世紀にかけてアラカン王国が栄えていました。仏教徒による王国でしたが、少数のイスラム教徒も居住していたようです。このイスラム教徒がロヒンギャの起源なのかどうかはわかりませんが、その当時仏教徒とイスラム教徒の間に宗教的対立はなかったようです。
1785年アラカン王国はコンバウン王朝(のちのビルマ)によって滅ぼされます。
1824年イギリスがビルマを攻撃し、イギリスとビルマとの間で戦争が始まります(第一次英緬戦争)。戦争はイギリス側の勝利に終わり、ラカイン州はイギリスの植民地になります。このイギリス植民地時代に多数のイスラム教徒が、周辺地域からラカイン州に移住してきます。
そして第二次世界大戦ではラカイン州をめぐって、イギリスが支援するイスラム武装勢力と日本が支援する仏教徒武装組織が戦いました。この戦いが仏教徒とイスラム教徒との間に、対立を生むきっかけになったとされています。
1948年ビルマ(現在のミャンマー)はイギリスから独立します。イギリスのビルマ植民地政策が、イスラム教徒と仏教徒とのあいだに軋轢を生んだ要因であることは事実なのですが、ビルマ独立以前にロヒンギャという民族名は確認できず、ロヒンギャの起源については多くの謎が残っています。
 
1962年ミャンマー(当時はビルマ)で軍事クーデターが発生。政権を握ったネ・ウィン革命評議会議長(のちの大統領)による社会主義政権下で、ロヒンギャは弾圧を受けます。
1978年には大規模な軍事攻撃により、20万人以上のロヒンギャがバングラデシュに逃れました。
1982年に施行された市民権法では、ロヒンギャは国籍をはく奪され無国籍状態になりました。
1988年に実権を掌握したソウ・マウン軍事政権は、1991年から92年にかけてロヒンギャへ激しい弾圧を加え、およそ30万人がバングラデシュに避難しました。
ミャンマー政府はロヒンギャについて、ベンガル地方からの不法入国者との認識を示しており、自国民と認めていません。
迫害、弾圧を逃れてミャンマーから流出するロヒンギャは後を絶ちませんが、周辺国も受け入れを拒んでおり、ロヒンギャはミャンマーだけでなく周辺国からも迫害を受けている状況です。
ロヒンギャは国籍がないため、難民として認定される要件がありません。ミャンマーから逃れたロヒンギャを、保護名目で他国が受け入れても事実上難民認定はできず、国籍がないためミャンマーへ送還することもできません。
 
2008年12月ミャンマーから逃れ、マレーシアへ向かっていたロヒンギャの難民船をタイ海軍が拿捕しました。ロヒンギャはタイ海軍から激しい暴行を受けた後、エンジンを取り外された船に乗せられたまま洋上に放置されるという事件が起きました。その後インド警備隊によってロヒンギャは保護され、2009年1月にインド政府がこの事件を公表したことにより明るみに出ました。
2012年にはラカイン州でロヒンギャ(イスラム教徒)と仏教徒の衝突が起きました。ミャンマー国軍が仏教徒支援にまわったこともあり、200人以上ともいわれるロヒンギャが殺害されました。
2015年5月にはタイ南部で集団墓地が発見されました。東南アジアで横行するロヒンギャ人身売買の被害者のものでした。東南アジアでは強制労働などを目的とした人身売買を行うブローカーが存在し、その被害者の大半はロヒンギャとみられています。
タイで集団墓地が発見された直後、今度はマレーシアでも同じような集団墓地が見つかりました。ロヒンギャに対する迫害の実態は、公になっていないものも含めると相当な規模になるとみられます。
 
ロヒンギャをめぐっては別の不穏な動きもあります。パキスタン・タリバン運動やイスラム国など複数のイスラム武装組織が、ロヒンギャに対して武装蜂起を促していることです。さらにイスラム武装組織はロヒンギャへの軍事支援を表明しており、すでに武装組織に合流しているロヒンギャもいるとみられます。
イスラム武装組織とロヒンギャが接触する場所はバングラデシュと考えられます。バングラデシュのハシナ政権は、活動を活発化させているジャマトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュの取り締まりを強化しています。
2017年1月6日には主要メンバーのサダム・ホセイン氏とヌルル・イスラム・マルザン氏の二人を殺害。1月13日にはジャハンギール・アラム氏を拘束しました。
取り締まりの強化はロヒンギャ問題と関係があるのかどうかは不明ですが、バングラデシュ政府が国内でのイスラム武装組織の動きに、神経を尖らせているのは間違いありません。
 
2015年にミャンマーでは歴史的な総選挙が実施されました。しかしロヒンギャは選挙に参加することはできませんでした。仏教徒主体のミャンマーでは、少数派イスラム教徒への差別意識が一般民衆の中にも根強くあります。
1991年にノーベル平和賞を受賞したものの、軍事政権により軟禁中だったため授賞式に出席できなかったアウン・サン・スー・チー氏は、ミャンマーが民主化に向けて大きく動き出した2012年に言いました。
「私たちが目標にすべきなのは、絶望的な状況にいる人がいない世界を創造することです。」と・・・