ブログを近々閉鎖します。

ミクシイには引き続き書きます。

開国博Y150へ

午前中は免許の更新へ。
午後は「開国博Y150」の内覧会へ。某ルートからチケットを入手。
今日はとりあえず有料会場の三箇所を訪問。
赤レンガの向かいにある「はじまりの森」には、フランスから来た機械仕掛けの「蜘蛛」。
生憎、今日は白人のエンジニアが整備していて、動いてくれませんでした。

「蜘蛛」を眺めつつ、おばさんたちに「シャッター押してくれ」と頼まれつつ、マスコットの「たねまる」君が係の人に手を引かれていくのを見て、暑そうで忍びないなと思いつつ、時は流れた。
「PRESS」の名札をつけた人が全体の1割くらい。

それから、横浜の開港の歴史の年表などが展示されているコーナーはじっくり見るには人が多い。
エネオスのエネルギー館は、横浜市全体が空撮された写真が床に張られていて、来訪者はみな自分の家を探していた。ここでは他に、水素自動車の模型を使ったイベントをやっていた。概して、こじんまりとした印象。
もっとも盛況だったのは、お土産コーナーとレストラン。

日産の会場はイベントが三本立て。
最初のブースは、NHKが開発したスーパーハイビジョンの映像。
画質がスーパーにハイビジョンということらしいが、これは自分の目で確かめてもらうしかないだろう。
個人的には、たしかに静止画は奇麗だが、動画にはまだまだ進化の余地があるように思った。
映像は、NHKの午前4時ごろ流れていそうな国内の田園風景や宇宙が中心。

次のブースは日産の電気自動車が中心に置かれていて、来客はここで環境問題を啓発する映像を見る。
地球環境のキーワードは「思いやり」。

第三のブースでは、その「思いやり」というキーワードから、来客者それぞれができる「思いやり」を葉っぱ形の短冊に書いてもらい、巨大バルーンに空気の力で飛ばす。
ちなみに私が書いた「思いやり」は、「肉食を減らす」です。
肉食を減らせば、身体にもいいし、環境への負荷を軽減できます。
以上が日産の会場。

最後の会場は、「トゥモローパーク」。ここのメインは、アニメ映画「バトン」の上映。
3章構成で、1話約20分の上映。2章、3章は会期が進むにつれて公開される。
声の出演者の生身の動きをコンピューターで捉えて、
その動きをそのままをアニメ化させたという画期的な技術を採用したというのが売りなんですが。

私はこの映画が終わった後、口角が上がりっぱなしでした。
「すごい」映画です(「すごい」に「」が付いているのがミソです)。
私はこういう作品を観て、「いい映画だ」と言える感性を持った人が好きですね。

最後に、「楽しむ」とは何か、そしてそこから「生きる」とは何かということを改めて問いただしてくれたという意味で、
今日の内覧会はとても私にとって有意義なものでした。

最後にみうらじゅんの言葉を引用。http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/jidai/061107_miura2/index1.html
「それで、行き着いたのが『そこがいいんじゃない』という思想です。
なにごとも、この思想で眺めると俄然面白くなりますよ」
映画でも小説でも、世の中にはB級作品のほうがはるかに多い。
だから、そういう作品に当たる確率のほうが高くなる。
他人と話していて、先日見たB級映画の話になる。相手が口を極めてその映画をけなす。
つまらない映画だった、あそこがおかしい、ここがヘンだ。
で、こちらは、すかさず切り返すのだ。
「そこがいいんじゃない」と。
「つまりね、否定を引っ繰り返して肯定に転じてしまう。いや、僕も否定したいんですよ、つまんないから(笑)。でも、『そこがいいんじゃない』と強がる。
26k完走

ランニングイベントに参加。北鎌倉から若宮大路を抜けて、由比ガ浜~江ノ島~平塚駅まで。
途中、江ノ島では江ノ島神社の上まで登って参拝し、完走を祈願してきた。
序盤のハイペースが祟って中盤はしんどかったが、なんとかそれでも3時間以内にゴール。
平均時速で言うとちょうど10キロ。
3月にハーフを走ったときは、レース前に喰い過ぎて、胃腸にばかり注意が行って、
足のシンドさとかが全く掴めなかったが、
今回は、残り4キロあたりから、「これ以上ペースは上がらないが、かといって下がりもしない」という
境地に達した。ランナーズハイをさらに一段階超えた状態といったらいいのだろうか。
その段階は、疲労が疲労でなくなる感じで、もしフルマラソンを完走しろと言われたら、できたかもしれない。
もちろん、翌日、身体がどうなっちゃうかはしらないけど。

11月には湘南国際マラソンがある。
今日走ったところと同じ、海岸線沿いの国道134号線がコースになっている。
それまでにもっと鍛えておきたいものである。

今日は天気も曇りで、絶好のランニング日和だった。
富士山が雲で見えなかったが、見えない天気のおかげで走りやすかったのだ。
今日は江ノ島過ぎたあたりから、国道134号線より海岸側に並行して走っているサイクリングロードを走った。
防砂林が防音林の役割を果たしており、砂浜から穏やかな風と静かな波の音に包まれながら走った。
海岸から平塚駅南口までは一直線に道が伸びており、しかも歩道が広く、街路樹として松が植えられていて非常に心地がよい。ゴール地点では、主催者のおじさんが先にゴールしていた人にビールなんかを振舞っていて、松の下で一杯呑んだ。

主催者のおっさんはこのイベント終了後、その場所から24時間160キロマラソンの主催者になるそうだ。
ということで、ゴール地点には、その超人的なイベントの参加者が集まってきていた。参加者は7人だという。
それでも多い。
「24時間テレビの100キロマラソンみたいに見栄えがいいもんじゃない」
とオッちゃんは言ってたが、確かにその通りで、なんせ、平塚から、峠のある箱根に向かっていくというのだから。
単に160キロといっても、海抜0メートルから900メートルまで駆け上がるアップダウンが加わるわけだから、
ちょっと考えたくない。今頃彼らは走っているのだろう。

「フルマラソン完走した位じゃ、到底無理」
というおっさん。
フルマラソンの先には、100キロ走るウルトラマラソンが待ち構えているのだった。
漢検で言ったらたぶんそれは間違いなく一級ものだ。
常人にとっては、どちらも「おかしな人」である。
補充論

目立たない仕事の典型として、「補充」というのがあると思う。
この「補充」とは、特に普段誰がやるという風に役割が決まっているわけではない。
気づいた人が手が空いている時に自発的にやるのがこの「補充」という仕事である。
一見、「補充」は報われない仕事である。
普段、「在って当たり前」のものが当たり前のように設えてあることに対して、人は気にも留めないが、
それが無いとわかった途端に、煩わしさやイライラするものである。
そのイライラの原因は、「在って当たり前」を前提に仕事を進めていたのに、それが無いせいで、余計な仕事が増えたと思うからである。

一言でいうと、「補充」は報われない仕事である。
在って当たり前。無いと不満が噴出する。
クレームはつけられても感謝はされることはないという日陰の仕事である。

そんな日陰で報われる事のない「補充」という仕事をもし自分が仰せつかることになったらどう考えたらいいか。

禅語に「和光同塵」という言葉がある。
「光(ひかり)を和(やわら)げて塵(ちり)に同(どう)ずる」。
光という高い道徳的品性や英知を備えた聖人は、塵やゴミにまみれた俗世間に混じって人々を救済するという意味だ、
と一言で書いてしまうと、なんだか聖人がずいぶんと上から目線で世間を見下ろしているようなマイナスイメージにも捉えられかねないが、それを肯定的に見るかどうかは禅に対する個々人の価値判断によるのだろう。

「ほっとする禅語70」の中では、危険なところを助けて、名前を名乗らずに立ち去る青年を「和光同塵」の一例として紹介している。「補充」する自分をそういう人とイメージを重ねてみるのもいい。

あるいは、「補充」という仕事は、やっても直接誰かに感謝されるという事は無いが、やったら必ず「ありがたい」と感じてもらえるはずの仕事であるという考え方もできる。仕事の中には、「果たして今やっている仕事は、本当に人々に報われる仕事になるんだろうか?」と根本的な問いと突きつけらるような仕事もあるが、「補充」はそういう意味では確実に報われるという確証がある。

だから「補充」という仕事は、
「普段やっても感謝されず、怠ると文句を言われる」、つまり「プラスが無くてマイナスだけの仕事」という発想から、
「やったら確実に成果になる」、つまり「マイナス無くてプラスだけの仕事」と思えばいい。

さらに、もう一つ禅語から。「無功徳」というのがある。
見返りを求めてはいけない。下心あっての行いには功徳は無い、という意味。
功徳は無心で行うことで功徳足りえる。
つまり、余計な妄想はせずにやれという意味で、
そうすると、「感謝されない」とか「やらないと文句言われるだけの報われない仕事だ」という妄想はおろか、
「『補充』は確実に報われる仕事だ」とか「マイナス無くてプラスしかない仕事だ」という妄想すら捨てよということになる。
ちなみに、「妄想するな」という意味の、「莫妄想」という禅語もある。
善い行いは、人に知られず、黙ってやりなさい。そうすれば清清しい無心を得られる。
これはラディカルな解決法だ。

なぜこんなに「補充」について考えるかというと、何を隠そう自分も補充という仕事に倦怠感があるからだ。
というより、そう思ってしまっている自分が嫌なのだと言ったほうが正確だ。

昨日、ふっと仕事中に思ったことがある。WBCでのイチローの最終打席の件である。
彼が打席に入った時に自分の実況中継が聞こえたと言っていたのは記憶に新しい。
これってどういう心境だったのだろうとずっと考えていたのだが、ふとなんとなく分かったことがある。
それは、イチローは普段から「しんどい時こそ、自分が今試されている」という思いを強く持っていたのではないか」
という仮説だ。
つまり、あの最終打席に立ったとき、彼の身体は肉体的にも精神的にもかなり追い詰められていた事は確かだ。
実際、彼は胃潰瘍もとい、「いかいよう」(漢字で書くなと本人談)に蝕まれていた。
あの運命の打席のとき、彼はいつもの志向習慣から、「あー、また試されてるわ、自分」と思ったに違いない。
それが究極の具現化された形となって現れたのが実況だったと言えまいか。
「さあ、ここでイチローです。さあ、ここでイチローは打ってくれるのでしょうか?」
という、ここでの実況の文脈の核は、まさに「イチローの真価が試されています」という点に尽きる。

しんどい状況に追い込まれる→「辛いときこそ試されている」ということに気づく→
自分自身を客体化できる心の余裕→平常心

という段階を経ていたのではないだろうか、というのが自分の実体験に基づく仮説だ。

いわゆる「辛い」仕事の典型として、「補充」をピックアップして、それをどううまく続ける事ができるかを考える。
これを「補充論」と勝手に命名した。
あなたは「補充」をしなくてはならなくなった時にどうやってやりますか?
・仕事で悩む妹に母の一言
「苦しめているのは自分が苦しんでいるだけ」

外的要因によって自分が苦しめられていると思うのは、錯覚だということだろう。
たしかに、それは一理ある。
誰だって「ちょっと今の仕事しんどいな」と思うときが一度や二度はある。
しかし、辛いしんどいと思っているのは自分の心であり、実は仕事そのものは善でも悪でもない。
しんどい仕事から逃れたいのではなく、自分の心から逃げたいだけではないか。
一方で、このロジックは、上司が部下に対して使えば、部下を追い詰める凶器にもなる危険があるから注意が必要だ。
気の優しい部下なら、自分自身の健康を害してでも仕事をしてしまいかねず、過労死に繋がりかねない。

自発的に出てきた言葉と、他人から言われたまま消化せずに鵜呑みにしてしまう言葉とでは、
同じ言葉でも効果は180度異なる。

だからアドバイスというのは、本当にタイミングや言葉を慎重に選ばないと難しい。
悩みの多くは最終的に自分で解決すべき問題なのに、
他人からアドバイスを求めてしまうということに、そもそも構造的なジレンマがある。

悩むという状況は、ある不安に取憑かれていて、物事を多面的に見ることができない視野狭窄の状態だ。
思考が柔軟性を失い、硬直してしまっているということでもある。

悩みを脱するときには、その硬直した思考を解さなくてはいけない。
そのためには、他者からの助言が必要になってくる。
それは、他人からのアドバイスかもしれないし、本や映画や芸術作品なのかもしれない。

しかし、悩みの中にいる人にはそんなことは無意味だ。
硬くなった思考の殻を自分自身で内側から穴を開けなくてはならない。
そして、一度穴が開けば、そこから外と内側の境界が崩され、悩みは「溶け」ほぐれてゆく。

外を見れば、自分の悩みは決して自分だけが味わったものではなく、誰もが味わっている事なのだと言う事に気づく。
そうして、自分の悩みは他者のそれと溶け合う。

悩みはトイレットペーパーみたいなものだ。
トイレットペーパーで鼻をかむと、硬い紙質だなと思う。
しかし、水に流すと、簡単に溶けてなくなってしまう。
悩みも、乾燥してるから硬くて、肌触りがよくないのであって、
水と混ぜ合わせると、トロトロに溶けてしまう気がする。
ちなみに人間は水でできている。
悩みを抜け出す術もまた既に自身の中にある。

・漢検一級より
「睚眥(がいさい)の怨みも必ず報ゆ」
どんな小さな怨みであっても必ずはね返ってくるという意味。
そこから転じて私はこう解釈することにした。
「常に感謝の心を忘れてはいけない」
全身で走る

比叡山で、約7年かけて約4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を二度満行した酒井雄哉大阿闍梨が著した「一日一生」(朝日新書)の中に、「足が疲れたら肩で歩けばいい」という題の話がある。
そこには、回峰行の師匠から教えてもらったという大泥棒の話がある。
その大泥棒は、福島県の小名浜から宮城の仙台まで、毎晩盗みに繰り出したという。
(ちなみに小名浜~仙台間の距離をさっき調べたら、ちょうど片道100キロという具合だから、一晩かけて200キロの道のりを走破したという事になる)

しかも、家のものに自分が泥棒である事を気づかれないように、皆が寝静まった夜に出発し、皆が起きてくる朝までに帰ってくるという離れ業を続けていたという。
その後、彼は盗みを働いている最中に女性看護士に背負い投げを喰らい、体力の衰えを実感し、自首するのだが、
彼は「なぜ毎晩長距離をどうやって歩いたのか」と問われたとき、「休み休み歩いているから疲れない」と答えたと言う。

右足が疲れたら左足という風に、体のいろんな部分を交代で意識しながら歩くのだと言う。両足が疲れたら、腰、首、肩に意識を向け、その間に別のところが休んでいるという要領だ。そうすることで、スピードが落ちずにずっと早足で歩けたのだという。

酒井大阿闍梨は、この話を引き合いに、「考えを辛い事に一点集中しすぎちゃうから身を投げ出しちゃう。しんどい所は休ませて違うところに精神を集中させてみると楽しく生きられる」ということを仰っている。

私は、走っているときこの話を度々思い出しては、その時々に応じて身体のさまざまな部位に呼びかけて、まだ疲れていない箇所を見つけては、そこを意識して走るようにしている。

今日は土手を20キロ走った。その間に、例えば今日は側筋に意識を向けて走ることができた。側筋を使うためには、どうしても上体を起こさねばならず、それによって体幹を有効活用できるようになるという恩恵もある。また、側筋と極めて近いが、骨盤を意識して走るというのもある。倒れている骨盤をもう一度起こそうとすることで、体幹を使う事にもつながるし、右足と左足にそれぞれつながっている骨盤の高さを常に一定にさせることで、走るたびに左右に体が傾くのを抑えることができる。すると、左右に分散されてしまっていた運動エネルギーを、推進力に変えることができる。
他にも、肩甲骨を意識したり、肩を意識したり、呼吸を意識したりするなどして、なんとか走りきることができた。

あともう一箇所前頭葉を意識して走ったこともあった。ここを意識する事で何が変わるかは初めはわからずに意識をしてみた。つまり、とりあえず意識を向けてみた。そうしたら、後々になって、自分を鼓舞させるイメージが沸いてきた。それは直接、今走っている事のモチベーションにつながるものだったので、一時的にテンションが上がった。それがブースターのように働いて、ペースが上がった。

走るときはほぼそうやって走ることに意識を傾けるので、今のところは知っている最中に音楽を聴くというようなことはあまり必要性を感じない。ただ、走っている最中に、自然と自分の中から曲が流れてくるというのはある。今だと、ケツメイシの「さくら」なんかがヘビーローテーションだ。

「一点に集中しすぎないで、しんどくなったら他のところに精神を集中させてやればよい」ということで、走っている私はスラムダンクを思い出した。
山王工業戦での湘北チームを一人の人体と捉えてみればよい。
あの戦いはまさにそうした休み休みの戦い方の勝利だと言える。
ルカワは常に沢北と戦っていたわけではない。ルカワは前半にベンチに一度引き下がったりもした。
まだ精神をそこに集中するときではないと見越しての采配だった。
逆に、河田弟が出てきた時には、ここぞとばかりに湘北は桜木で一対一の勝負を挑んだ。
序盤のすっぽんディフェンスで疲れさせられた三井は、中盤ではめっきり息を潜めていたが、終盤に見事に巻き返した。

状況に応じて、意識の集中のポイントを変幻自在に変えていくということは、個人レベルでも組織レベルでも重要だと言えるんじゃないだろうか。WBCの日本チームはまさにそれを体現したとも言える。

「どこに意識を集中させればよいか、どこを休ませるべきか」を見極める力、それは実践を通じて磨かれていくものだと思う。特に、意識を向ける部位というのは、今でこそ骨盤や肩甲骨といった感覚が掴めるが、以前では無意識の中に埋もれていた感覚である。

最近分かってきた感覚といえば、他に肉を食べると下腹部がぽこっと膨らむということである。
肉は消化にものすごいエネルギーを消費し、同時にガスを発生させる。ぽこっとお腹の原因はそのガスが充満したもののようである。そういう意味で肉を食べると、非常に走る時にも不都合であるどころか、日常生活でも問題が起きる。食後に、突然意識レベルが低下するのだ。食後の眠気は安眠とはまったく関係ないという話がある。これは恐らく、43度くらいの風呂に漬かったときの眠気と同じで、両者は単なる意識障害にほかならないからだ。
つまり、肉も43度の風呂も人体にとってはかなりの負荷をかけているもので、決していいものではない。
そういうことで、最近、肉の摂取を意識的に減らしている。
野菜、海藻類、木の実類、きのこ類、穀物、豆類、小魚、果物を積極的に摂るようにしている。
この一週間は断酒もしている。
夜の8時以降には基本的に何も食べない。
おかげさまで、身体が軽い。

さっき観たテレビによると、結婚披露宴や居酒屋での残飯はものすごい多いらしい。

テーブルに食べきれないまま残されたフルコースのお皿が並んでいる。「いやー今日は豪華な披露宴だったなあ」と、ワインで高潮した顔で膨らんだ腹を叩き満足げにしている。
「今日は祝儀をはずんだから元はとらねえとな」と、高価な伊勢海老を堂々と残し、こんなご馳走を残すくらい今日は食べたんだから今日は満足、とでも言いたげ。
消費消費。二人の結婚も所詮、消費。

「今日は割りカンなんだから、頼まなきゃ損。」とばかりにテーブルに乗り切れないくらいの料理と酒が次々と運ばれてくる。
テーブルの上に、大量の皿とグラスと残飯がたくさんあるのを見て、「今日はたくさん食ったなあ」となんだかいい気分になって、「これだけ今日は派手に飲み食いしたんだから、ちょっとくらい金払ってもいいや。今日は使う日だ!」などと思って、気持ちよくお金を払って帰る。
店を出たその脇で、「喰いすぎた気持ち悪~」と、今にも吐きそうな輩。それを介抱する女。そんな何気ないことがきっかけで、私たち結婚する事になりました。つきましては、披露宴ですが・・・・・・
永遠に続く。

ストレスを発散させるために食べていないか。
その発散行為によって、内臓はオーバーヒート寸前の勢いで消化するという「付け」を払わされている。

「日本の緻密で繊細な野球が、あんな力任せのアメリカンベースボールに負けるはずがねーだろ」っていう一方で、食生活が意外とアメリカンだったりして。

走り始めて5ヶ月。こうも人は変わるのね。
かず子も直治も、戦後の退廃ムードの中で理性に対する強い不信感が生まれた。
そして破滅思想、反道徳、恋(不倫)と革命といった非理性的なものに向かっていった。
しかし、実は彼らの「理性を疑い、直感を信じる」というスタンスこそ、近代特有の二元論的な発想であり、二人はそこに絡めとられていることに気づいていない。
革命や自殺といった極端な道へ心を逸らせるものは、非日常への憧憬である。
しかし、非日常を憧憬するその瞬間こそが非日常であり、それは実現してしまったら日常に堕する。
戦争が終わって何もない日常が始まるというときに、それに耐えられなくなる心理は理解できる。
どんな状況においてもその日常をやり過ごすには、楽観性が必要であるが、それに与したくないというナルチシズムの中に文学はあるのかもしれない。当時の「斜陽族」のブームがそれを象徴していると思う。
先週、バイト先の年長の社員が無断欠勤をした。その二、三日後に、本人から支店長宛に、退社を仄めかす置手紙ならぬ置メールを送って以来、それからかれこれ数日経つが、まったく音信がない。

いわゆるバックれ。
「いい年してバックれるなんて、幾らなんでもひどいよね」と、私は単純に切り捨てたくない。正確に言うと、単純に切り捨てたくても切り捨てられない自分がいる。それは自分自身にもまったく同じような経験があるからでもあるが、かと言ってそれだけが理由のすべてではない。

二元論は嫌いだが、安直な決め付けはもっと嫌いだ。
確かに、バックれは社会人として最低限順守すべきルールとマナーを破る行為なのだから、「悪い」。しかし、この「悪い」はあくまで、社会人として価値判断をしたときの「悪い」であるにすぎず、鍵括弧つきの「悪い」なのだ。
無論そんなことは分かっているつもりだが、改めてここに書いておく必要はある。それ程このことは忘れられやすいことだからだ。例えば、同僚たちのとの何気ない会話の中で、さりげなく「それにしても悪いよね~」といった言葉につい乗せられてしまいやすい。当の本人はもういないから、尚のこと自分が注意しないと、社会人としての「悪い」が、一事が万事「悪い」人だった、変な人だった、よくよく考えてみるとおかしい人だったというイメージの一人歩きが始まりかねない。

また、「いなくなった人のことなんかさっさと忘れよう」という考え方にもあまり賛同できない。
かと言って、いなくなった人のことをみんなで話し合う必要もない。一人一人が胸のうちで考えればいいことだ。私はこの人から色々と指導も仰いでもらったので、今回の件で少なからずショックを受けたせいもあって、忘れようとしてもふとした瞬間、例えば自転車を漕いでいるときとか、半身浴で読書をしているときとかに思い出してしまうのである。

例えば、風呂で「論語」を読みながら、
「人の己を知らざるを憂えず、人を知らざる事を憂う」
(他人が自分のことを知ってくれないことを嘆くのではなく、他人のことを知らないことを嘆け)
なんてフレーズをふと思い出してその頁を読み返してみたりした。

バックれる時の心理は、まさに「人の己を知らざるを憂う」状態である。
バックれは、一時的にではあるが、自分への注目を偏に買う事ができる有効な手段だからである。
漫画「働きマン」の中にもバックた社員のエピソードがあるが(第二巻)、バックれた人というのは、他人から誉めてもらったり、注目してもらうことに非常に飢えている人たちだ。
勿論、かく言う私もその当時は他聞に漏れずその思いが強くあった。

たしかにこの件でショックを受けたが、積極的に忘れようとはしないように心掛けた。
これも一つの縁から生まれた経験だと思って、考えられるだけのことを考えつくしてみたいと思った。
桑田真澄はより長く現役でいられるように、いいピッチングをし続けられるように、頭のてっぺんから足の指先まで神経を行き届かせ、どこかにまだ使わずに眠ったままの部位がないだろうかということを常に考え続けてきたそうだ。
そのためにいいものはどんどん取り入れよう、やれることはやってみようと挑戦し続け、今もそれは続いている。
それが結果的に、食事への配慮や古武術への傾倒、大学院進学へといったものに現れている。

そうした何事からも学ぼうとする真摯な姿勢に私も肖ろうということでもあるのだが、もっと自分の言葉で説明すると、「無意識はゴミ箱ではない」ということなのだ。

「嫌なことはどんどん忘れよう」というのは、ある時には正しいのかもしれないが、それだけでは心もとない。
忘れるということは嫌だと感じている経験・体験を無意識の外に追いやるというイメージだと思う。
しかし、無意識とてやはり自分の心に他ならず、無意識をそうやって嫌な思い出ばかりポイポイ捨てたまま未処理でいると、生ゴミのように腐臭を放って、家中悪臭に包まれるように、無意識の異臭は意識の中にも次第に及んでいくのではないかと考えるからだ。

また、「嫌な事はどんどん忘れる」という事は、「楽しいことやいいことばかりを覚えていようとする」という事でもあると思うが、しかし、これもうまくいかないと思う。身体の腸内細菌の中には善玉菌と悪玉菌がいて、常に一定のバランス(均衡)を保って共存している。このバランスが崩れると不健康な状態ということになる。つまり、腸の中では悪玉菌が一定程度いる状態が健康な状態なのだ。さらに、薬などで悪玉菌を全部死滅させて善玉菌ばかりにすると、なんと今度は善玉菌の一部が悪玉菌に変身して、善と悪のバランスを保とうとするというのだ。
記憶に関しても、同様のことが言えるんじゃないかと思う。つまり、意図的にいくら」「楽しい思い出」ばかり覚えていようとしても、やがて「楽しい思い出」同士の中で順位付けが始まり、下位の「楽しい思い出」は、「あまり楽しくない思い出」に成り代わってしまうのではないだろうか。

野球やランニングなどの正しいフォームを学ぶ時には3つの段階があると考えている。
まず、過ちの無自覚の段階。
次に、過ちが意識化され、正しいフォームへ修正する段階、
そして正しいフォームの再無自覚化。

イチローのような名人級の選手は、こうしたステップをもう数え切れないほど精神を含めた全身においてやったのだと思う。つまり、徹底的にあらゆる部位に意識を傾け尽くして、高度で美しいバッティング技術がほとんど無自覚の状態でできるのだと思う。
ちなみに、「天才とバカは紙一重だ」という表現をする人がいるが、これはそうだと思う。
バカも天才も共に無自覚な状態であることには変わりはないからだ。

勉強においても仕事においても我々にも同じような経験はある。
始めはチェック項目をひとつひとつ見ながらでないと出来なかった作業が、
次第に何も見ずにほとんど何も考えることなく正しくかつスピーディーにこなせてしまえるようになった経験はある。

お坊さんの世界で言えば、第三段階こそ、悟りの境地なのではないだろうか。

私もそこにたどり着きたいと思うのだが、第三段階の正しいフォームの再無自覚化の最大の利点は何かというと、
「未知の問題への対応力」だと思う。
つまり、野球で言えば、正しいフォームが何も考えずに自然とできるようになれれば、どんな未知の投手の未知の球種にも対応する事ができるということだ。お坊さんであれば、未知の問いにも常に正しい答えを出せる人だし、弁護士では未知の案件と言い換えることができるだろう。

そのためには、ひとつひとつの事象に対しての無自覚な状態から脱し、意識化を進める以外に道はないのだと思う。
だから、出来る限り考えて考えて考え抜く。そしてやがて未知の人生に自然に対応できる日が来るかもしれない。

ちなみに孔子は、「七十にして心の欲する所に従い、矩を越えず」と言っていたから、彼にして最晩年である。
長き道のりである。

さて、やや倫理的に説いてきたが、別の発想もある。
なぜ、こういう折につけて考える時に考えたほうがいいか。
それは「めんどうくさいから」である。

今、考えられそうな時にまとめて考えておかないと、後々また同じような問題に出くわした時にもっとめんどうくさいことになるはずだからだ。それに、さっきの「無意識はゴミ箱ではない」理論のように、嫌なこととして忘れてしまったほうが後々よっぽどめんどうくさい。だから、今片付けてしまおう、という発想の転換である。

かれこれここまで2時間近く書いているが、ここで止めると後々もっとめんどうくさいから書き続けていたのである。

最後に、
バックれは必ずしも悪いことではない。ただし、「逃げ」は本当にクセになる。
実は、バイト先でこの人は、自分で立ち上げた計画を途中でいつの間にか断念してしまっていた。
そうした小さな「逃げ」癖が、どんどん大きなリスクのあるものからも簡単に「逃げ」る体質を作ってしまう。
私の実体験にも基づく。

それから、バックれは、
「自分がいないことで職場にダメージを与えてやりたい、困らせてやりたい」という怒りの表象と、
「自分みたいな人間は職場から消えたほうがいいんだ」という自己犠牲の表象という一見、相反する感情の発露であることも見逃せない。この一見矛盾する感情の根本には何度も言うが、自分にもっと注目して欲しい、誉めて欲しいという願望の現われに他ならない。

バックれの予兆としては、
・ 一緒に呑みに行こうと誘ってくる。
・ プライベートの話をしたい素振りをさりげなく入れてくる。
・ 「つい先日気持ちを新たにしたんだ」といった決意表明をする。(新たな決意を持たなければいけないほど今追い詰められているという証拠)
などが、今回の件で自分なりに分かったことだ。
先行其言 而後從之

先ずその言を行い、而して後に之に従う。
つまり、「まず言おうとする事を行動してから、後からものを言うべきだ」という意味であるから、これは有言実行は言うまでもなく、不言実行とも似て非なるものである。
不言実行ならば、行動をした後に語るべきかどうかについては触れられていない。個人的には、不言実行と言った場合は、行動した後も語らないというイメージが強い。

「先行其言 而後從之」を読んでまず思い浮かんだのが、イチローだった。WBCの最後の決勝打のとき、彼は自分で自分を実況していたという話は有名になったが、私はヒーローインタビューで雄弁に語る彼の姿にこの言葉が重なった。

思えば、論語には発言するときは用心しろという教えが表現を変えつつも兎角散見される。

曾子が日々反省する項目の中に、
「朋友と交わりて信ならざるか」
や、君子の条件として、
「事に敏にして言に慎み」
などとある。

道元禅師も発言の前には必ず3回考えて、それでよいと思ったら喋れということを言っている。

さて、イチローを見ていて勉強になるのは、「これからやろうとすることを後日談として語る自分がはっきりと確立している」という点だ。これも、ただ「予定を立てる」というのとはまったく違う。「予定をこなした後の自分が予定を過去として扱う自分がいる」ということがミソなのだ。

某司法試験予備校では、試験勉強を始める人に先ずやらせるのが、合格体験記を書かせることである。
予め合格体験記を書くときのイメージとイチローの打席に入っているときのイメージは、もちろん程度の差はあるが、イメージのベクトルはかなり同じに思える。

言ってみれば、イチローは常に変わる戦況の中で先取して合格体験記を思い描くことができる名人と言えるかもしれない。実況中継が頭の中で自然と浮かんできたのは、日々のそうした研鑽が生んだ余韻だったのかもしれない。
一生掃除

人生の目的とは何かと考えた時に、最近思う答えは「掃除」である。
ここ数日、過度に走りこんだせいで全身に疲労による倦怠感が蓄積され、気力や思考を低下させていた。
仕事で遅くに帰宅すれば、腹も空く。もちろん夜に喰えば、脂肪になりやすいと分かっていても、食欲に拘泥し、つい肉に箸が伸びる。疲れた身体を笑いで癒そうとテレビをつければ特番のシーズンで、ついつい見入ってしまう。そして特番に託けて、これを好い機会とばかりに酒を飲みだす。すると、テレビもそこそこに眠気が襲い、そのままソファの上で意識を失う。ふと気づいてみれば日付も変わろうかという深夜で、風呂はおろかシャワーすら浴びる気にもなれずそのまま布団に入る。そんな有様で布団に入ったときの睡眠の質など到底良い筈もなく、翌朝の寝覚めも悪い。

睡眠前の食事は脂肪に直結するのはさることながら、アルコールによる眠気は、意識レベルの低下に因るもので、睡眠の質にはむしろ悪影響だ。
また、風呂は血行を促すことで、血中に蓄積された老廃物を取り除くことができる効果が期待できるわけだが、それを怠れば当然翌日に疲労は持ち越される。
そして、鼻炎持ちである私は、風呂やシャワーを浴びることで外出先で髪や皮膚にくっついた微小な粒子を流し落とさないと、翌朝は、それらが鼻腔に蓄積されて鼻水が半日止まらなくなる。

さらに、こうした一連の怠惰な行為対する後悔を翌朝になって私は鼻を咬みつつするわけで、いわば心理的にも前日を引きずってしまっているのである。

こういう愚考を悔いていると、最近のベストセラー酒井雄哉大阿闍梨の「一日一生」(朝日新書)という言葉が身に染みる。

一日が終わって、また生まれ変わる。
今日の自分は今日でおしまい。明日はまた新しい自分が生まれてくる。

そう思って一日一日を過ごしていくためには、一日を一日のうちに完結させねばいけないと思う。
一日を終えて眠りに就くときには、まさしく一日をそこで終えておかねばならないし、同時に明日への準備ができていなければいけない。それができてこそ初めて一日一生という覚悟が生まれるのだと思う。

一日の終わりに一日の肉体の疲れを癒し、身の回りの片付けや心の整理を済ませる。
そうしてこそ、新しい一日を一生の覚悟を持って過ごすことができると思う。

使ったものは片付ける。元の場所に戻す。脱いだ洋服は奇麗にたたむ。常に掃き清める。
日常を行住坐臥というが、こうした日常動作においても作法があり、その作法のひとつひとつが美しくすらある。

掃除というのは、清潔に「保つ」ことである。「保つ」という言葉の中には、上昇志向はない。
ある目的のために、成長し続けようというアクティブで動的なイメージはない。
しかし、保ち続ける所作を行い続けるという「状態」自体こそが目的たりうるのではないだろうか。
幸せの青い鳥が、もっとも身近なところにいたように。

禅語には「知足」という言葉がある。
足るを知る。

人生の目的は何かと再度言うなら、清潔に保つことである。何かのために清潔を保つのではない。それが目的なのだ。

仏教では、人間の肉体は仏様からの借り物だという考え方をする。
だから、生きている間に、磨けるだけ磨いて、奇麗な状態で仏様にお返ししなければいけない。
俗っぽい見方をすれば、このアイデアは、例えばダイエット中の人には有効だろう。
奇麗な状態で仏様にお返しするのだ、と考えれば、むやみやたらな暴飲暴食は控えられるだろうし、口に入れるものにも気を使うようになるだろう。
考えてみれば、ダイエットをしている人を問わず、食事というのは、自分の体内を奇麗に保つための掃除だということも言えなくもない。

清潔を「保つ」の「保つ」という言葉から私は、風一つ吹かない暗い静かなお堂の中で、蝋燭の火が揺らぐことなく燃えている姿を想起する。揺るがない、すなわち「平常心是道」である。

ただし、「保つ」というのは、変化がまったくないというのとはわけが違う。不動の蝋燭の炎も、一瞬一瞬の火は、無数の蝋が連続して燃え続けている現象である。掃除もまた、いつの間にやら溜まってくるホコリやチリを除き去ることの繰り返しなのである。ここで私が言いたいのは、動的平衡である。
掃除をすることで、動的平衡という自然の摂理を、人間の営みの中に内面化する事が可能なのだと思う。