杜牧「江南の春」独善解釈 | 奥村顕のワールドプリズム Ken Okumura's WORLD PRISM

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杜牧「江南の春」独善解釈



※ 読み下し文は現代仮名遣いによるものです。
※ 一般的解釈とは異なる独自解釈が含まれる場合があります。

 

江南の春
(こうなんのはる)
杜牧

千里鶯啼いて緑紅に映ず
(せんりうぐいすないてみどりくれないにえいず)
水村山郭酒旗の風
(すいそんさんかくしゅきのかぜ)
南朝四百八十寺
(なんちょうしひゃくはっしんじ)
多少の楼台煙雨の中
(たしょうのろうだいえんうのうち)


読者の目に鮮やかな情景を焼き付けながら、この詩には具体的な地名が出て来ない。「千里」という言葉で歌い出されており、最初から広大な土地の集合体が描写の対象となっている。同じことは時についても言える。今年の春ひとつを歌うのではない。昨年も一昨年も春の風が酒屋の旗を打っていたのは疑いなく、やがて南朝という幾世代にも渡る時代が、霧雨の中に浮かび上がる。

花が咲き鳥が鳴き、酒を楽しむ人々がいる。幸福で穏やかな歌いぶりは、過ぎ行く時への哀惜を呼び起こし、春の光の及ぶ範囲に限りがあることを感じさせずにはおかない。無常を説く仏法に帰依しながら、自らの王朝の永続を願った南朝の人々は、その願いが叶えられないことを知っていただろう。陽春はどの固有名詞をも支えようとせず、ただ毎年巡ってくる。

杜牧は晩唐期に差し掛かる生涯を生きた。長安の威光が津々浦々に平和を約束してくれた頃は遠ざかり、ほどなく節度使が自立して相争う時代がやってくる。陰影を帯びた南朝の春の空気は、さらに後世から見れば、衰勢にある唐朝の春がまとう空気でもある。

五感で捉えられる光景と時代とを乗り越え、普遍的な春を思い描こうとした杜牧の姿には、永遠への願いを胸に秘めた人々の悲しみを思わざるを得ない。春の本質を捉え得ても、それは言葉として変わらぬ形を残すだけだ。願いを受け止めようともしない時の移ろいは、なぜか美しい。

風は吹き、雨はしたたる。それを禁ずる術がないならば、目の前の春に命の幸せを感じるのが素直な選択と言うべきだろうか。

 

※ 本文中可能包含与一般解释不同的独特解释。

 

自己的解释 杜牧《江南春》

 

在读者眼里留下生动的场景,具体地名却不出现。以"千里"一词开头,这首诗的描述对象是广大无边的土地集合体。时间也一样。不仅唱着今年的春天,去年前年的春风都打着酒铺的旗子。终于南朝时代的春天也在雾雨里浮现出来。
花开鸟鸣,有人们品酒。欢快柔和的唱法,却唤起哀愁,让人感到春光所及的范围有限。南朝人皈依倡导无常的佛法,希望自己的王朝永续下去,一定知道这种愿望是不会实现的。春天不支持任何专有名词,只是每年回来。
杜牧活在晚唐时期。长安之光为全国带来和平的时代已经过去,节度使自立争斗的时代不久开始。从后世看来的话,染上阴影的南朝春风就是唐代末期的春风。
超越五感捕捉到的光景和时代,杜牧企图描出普遍的春天,反映人们愿望永远。即使捕捉到了春天的本质,它也只是一首诗而已。时代的变化一方面拒绝人们的愿望,一方面这么美丽。
如果没有禁止刮风雨滴的方法,在眼前的春天感受生命的幸福是一个直率的选择吗?

 

(この記事では、Gundula VogelによるPixabayからの画像を使用しています)