怒りは、悲しみの変形だ。
人は傷ついた「あと」に怒るのではない。
これから訪れるであろう悲しい未来を先に検知し、
それ以上傷つかないために怒る。
SNSに溢れている暴言の多くも、同じ構造にある。
特に、陰湿で長く、理屈っぽい怒りほど、
書いた本人の中に複雑で深いトラウマが眠っている。
そして問題なのは、
そうして生まれた「化け物」に傷つけられた人もまた、
別の場所で誰かを傷つける側に回ってしまうことだ。
友達を、
パートナーを、
時には自分の子どもさえも、
無自覚に狂わせていく。
ここで大きな差を生むのが、
「温かい家庭」という基盤だ。
温かい家庭で育った人は、
どこかでその禍々しい違和感に気づき、
深く関わる前に距離を取ることができる。
気づかずに巻き込まれることもあるが、
心の中心――
核の部分まで壊されることは比較的少ない。
一方で、
心の核がすでに壊れてしまった人間は厄介だ。
何が壊れているのかを自覚できず、
自分が放つ毒に気づかないまま、
周囲を巻き込み続ける。
怒りは悪ではない。
それは、処理されなかった悲しみが
形を変えて表に現れているだけだ。
そして、その連鎖を断ち切れるかどうかは、
個人の努力以前に、
どんな土台の上で心が育ったかに大きく左右される。
核の壊れた人間に、
個人の内側だけで完結する救いは用意されていない。
では、
その「化け物」を救える人はいるのだろうか。
逆に言えば、
核にまでは届かず、
表層のダメージで踏みとどまれた人間だけが、
こうして悩み、考え、試行錯誤を続けることができる。
それは弱さではない。
まだ理性が機能している証拠だ。
ジキルとハイドの物語を知っているだろうか。
理性を重んじる医師ジキルが、
自分の中にある衝動や欲望を切り離そうとした結果、
それが「ハイド」という別人格として現れ、
やがて制御不能になっていく物語だ。
この物語は、
善と悪の戦いではない。
理性を持つ人間が、
自分の中にある衝動とどう折り合いをつけるか、
その失敗を描いた話だ。
人の中には、
理性と衝動、抑制と破壊が、
同時に存在している。
だからこそ、
理性があるうちは、
我々は自分の中のハイドを
制御し続ける責任がある。
打ち勝つとは、
消すことではない。
見ないふりをすることでもない。
自分の中にあるものを自覚し、
境界を引き、
他者を巻き込まない形で留め続けることだ。