偽情報の発信に振り回されないためにとりえる手段(後段:若干AI考、SNS論とか) | jedipadawanのブログ

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人間は判断力の欠如によって散財し、
忍耐力の欠如によって散財し、
記憶力の欠如によって散財する
(アルマン・サラクルー・サンザイ)

何が正しい情報か最早分からない世の中、いかがお過ごしでしょうか。

 

「フェイクを見破れ!~真実を知るために絶対やっておきたい習慣5選」見たいなタイトルの方がキャッチーだと思われますが、真実などめったなことでは判明するなんて言ってはいけないし、絶対やっておくことなんかないと思うので、原題のままでいきますよっ。

 

すいません、この記事1万字以上あるので、AIに要約してもらいました。

AIの要約を読んで価値があると思われたら、最後までお付き合いいただければ幸いです。

以下、AI(Grok)要約の結論と補足。

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結論:筆者は、フェイク情報が蔓延する現代において、情報の真偽を見極めるには発信者の背景や意図を徹底的に検証することが重要だと主張。AIやSNSによるフェイクの増大が社会の分断を招く一方で、冷静な判断と事実の積み重ねにより、最終的にはファクトが勝利すると信じています。個人としては、心の余裕を持ち、コミュニティのバイアスに気づきながら、客観的な視点で情報を精査する姿勢が求められるとまとめています。


補足: 記事は、筆者の個人的な経験(インターネット文化やSNSの変遷)や哲学的考察を交えつつ、ユーモアや自虐的な表現で読みやすさを加えています。リンクされた過去記事(AIやSNSの影響、認知バイアスなど)も参照し、現代社会の情報環境の複雑さを多角的に分析しています。

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だいたい合ってますw

AIは優秀ですね。

では、本文です。


「フェイク」に惑わされない方法について、
筆者がチェックしていることを列挙してみます。というか、現時点の自分用のまとめ。
前提として、「論」や「説」自体ではなく発信者(個人・団体・組織)を疑います。
※不埒な人間の発信にコントロールされないための話なので、
 そうでない場合はもちろん「論」も「説」も「自分」も疑います。

・切り抜き記事・動画ではなく、必ず一時ソース上の発信を確認。状況と文脈も確認しておく。
・「言葉(発信・発言)」だけを信じるのは危険

(意図的に、思っても、考えてもいない事を、堂々と発信する場合があるため)
・関連として発信されて良いはずの情報をださない。
・発信者に不都合な内容は話さない。触れない。発信をしない。
・発信者の活動内容や行動履歴も合わせて考える
・発信者の利害関係(関係者の利益含む)を調べる

・発信者の交友関係、知人、取り巻き、支援者、支持者を調べる
・一定程度の活動の推移(経歴や所属組織やコミュニティの情報)を調べる
・オッカムの剃刀「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」

 に注意(無駄な検証はしない。取り敢えず留保。)
・ハンロンの剃刀「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」に注意。不毛。


○言葉関係
主語がでかい(日本では・世界では・男は・女は・人類史上...・東京は・地方は)
例外を許さない言葉を頻繁につかう(絶対・完全・全て・万能)
外国語・外来語・専門用語・隠語を「解説無く」多用する

(↑伝えたいという意志がない=煙に巻く意図。きつい表現をマイルドにする意図。)
「私」ではなく「我々」をつかう。場合に寄っては同調圧力の行使か責任回避となりうる。

(ex.「私の考えでは~」と「我々の考えでは~」の違い:使い分けが出来ているか)
強い言葉を使う。

(絶対に~すべき・~以外あり得ない・そんなことも知らねーのか・バカ・アホ・雑魚・○ね)
統計関係資料の恣意的な切り取り。でたらめな統計処理をしたエビデンス(と称する物)。

質問方法が恣意的なアンケート類。誰に聞いたかわからないアンケート。「%」だけ言って母数の情報がない。サンプル数が足りていない・少な過ぎる。統計のソースが怪しい。アンケートをした組織に主義主張や利害関係はないか。誘導的な選択肢。


○態度

「ごめんなさい」と言えない。

「知りませんでした」と言えない。
「教えてください」と言えない。
謝らない・間違いを認めない(言い訳をするか逆ギレをするか嘘をつく(最悪))

謝罪をしても、その謝罪が謝罪対象に向きあった結果のものとなっていない

(いきなり土下座も含む。経緯説明がなっていない。本当の第三者による調査ができない。)
責任をとらない(ぶっちゃけ責任がないと思っている)

人の話を聞かない・聞いていない・人の話を遮る
自分の話しかしない。

外面(そとづら)がいい(人によって評価が正反対な事例が「複数」でてくる)
個人の「人格」を否定してくる。(主張や意見に対しては反論しない・できない。)

レッテルを貼る。(偏見・思い込みを修正できない。)
直ぐに撤回する・意見がころころ変わる

(問題を精査してないため。または、主義主張がない場合は、ただのポピュリストの可能性。)

成功した話が多い(自慢話しかしない)。失敗談が少ない。しない。
批判・批評する対象の事案・人物などに対して、良い面には一切触れず、悪い面だけあげつらう
メリットしか言わない。デメリットにはほぼ触れない。顕著に都合の悪いことを隠す。
啓蒙的な態度(自分が正しいので、他人の意見を尊重しない)
対極或いは対立する意見・思想・考え方に関する、知識不足・知見不足・無関心、意図的な無視、専門外への軽率な言及。



○検証性や論理性、レトリック、その他
・ソースがない(論外)。ソースがあってもでたらめな記事・論文はいくらでもある事に注意。
  論文や記事の執筆者・著者、また、掲載サイト・主催者のチェックと、他の研究者・識者の

 意見・評価も場合に寄っては必要
・非科学的(科学をうたっても「波動」「共鳴」「活性」「電磁波」「即効」「天然」「自然」など

 界隈では有名な、危険ワードがある)
・非論理的(一見筋が通っているようにみえて「編集・校正された」記事や動画などでは納得し

 てしまうが、全体を見ると矛盾が見つかったり、以前の言動と矛盾することを「説明なく」

 言っていたりするなど)
・意図的に誤った例え話を持ち出し、議論や主張の本質をすり替える。ごまかす。煽る
・受け売りが多い。自分の中で消化されていない考え方や方策を安易に支持・取り入れる。

 (意見や反論があると答えられない。ポピュリスト。行き過ぎな是々非々)
・仮定の話が多い。仮定の話を根拠に推論を進める。
・「専門外の話」をする専門家・識者の意見は、あくまで「専門外の話」として聞く。

 また、専門分野の話でも、「専門家」や「大学教授」や「業界識者」内で、議論が全く正反

 対となる問題も存在する。歴史解釈、心理実験、法解釈、脳科学、健康科学...
・ある事案について正確な情報を発信している人が、別の事案について正確な情報を発信してい

 るとは限らない。「Aさん」が言っていることが「全て」正しいわけではない。
・主義主張が異なる人物(ぶっちゃけ嫌いな人間)・団体(ぶっちゃけ嫌いな集団)の発信で

 も、正しい情報を発信することはあり得るので、少なくとも無視はしない。
・反対に、主義主張が一緒な人物(まあ、好きな人物。信頼している人物)・団体(好きな企業

 とか信頼しているサークルとか)の発信でも、「正しい情報を発信するとは限らない」ので、

 「全肯定はしない。」

さて、

以下はAIやSNSが現実に無視できない影響を及ぼしていないかしら?って話を若干。(若干?)

ご存じの通り、生成AIが今後フェイクを量産します。
文章だけではなく、画像、音声、映像については、
ネット上で出回る様な基本的なコンテンツは、
一切合切がフェイク(偽生成物)の混じったものになります。なってます。

そう遠くない将来、大半の人間とって、
全てのコンテンツは「単体のコンテンツだけ」で「真偽」を「判断することは出来なくなる」と、そのように考えた方が良いでしょう。

権利者・作者・創造者の存在するような、
イラスト・漫画・アニメ・楽曲・映画のような創作物のなかに、
有名作者を語る偽作品(精巧なコラージュ作品なども含む)はもちろん、
※ドラレコの映像と称した偽映像
とか、
※国営放送のニュース映像と称した偽切り抜き映像
とか、
※学会・講演会を録画した映像と称する偽ビデオ映像
などの「偽生成物」が混じって、

それをソース(エビデンス:証拠)と言ってネット上に公開し、
特定の人物・団体を賞賛したり、価値を毀損したり、あるいは、
インプレ目当ての偽動画・偽画像で小銭を稼いだりすること、なんかが止まらなくなります。

 

ちょっと感心してしまったフェイクとして、

ビデオ通話で「顔」と「声」をリアルタイムで生成して、

有名人になりすました別人が通話の受け答えをする、という例が「既に」あります。
まあ出来るけど、それが詐欺の現場で簡単に利用出来ているのがなんともヤバい。

さらに厄介なことに、
最早見分けのつかない「ソース」と称するものが蔓延することで、
本来「ファクト」「事実」である情報を、
アレは精巧な「フェイク」「偽物」であると主張されてしまうことも同時に意味しており、区別がつかない以上、まあその可能性も否定できないよね、という事になりかねないわけです。
 

 

 

でも言及したとおり、
「今まで以上に「情報の精査」が求められる段階に突入してしまった」わけですが、
じゃあ、全く判別が出来ないのか?
と言うことに対しては最初に言ったとおり、「発信されたモノ」での判断は潔く諦める。
「発信者が誰(何)」で「どんな目的を持った情報か」ということで、判断する。
そうやって、なんとか見定めていくしかなさそうです。

 

じゃないと、前出ビデオ通話フェイクの「友人・知人・取引先バージョン」なんかされたら、

ちょっとやそっとじゃ、キャント・ゲット・ラブですよ。

有名人なりすましなら、「まさかね~」って分かるかもだけど、

 

自分と知人のSNSとかの情報引っ張ってきて、軽く教育されたカスタマイズAIを使って、

「私をよく知る、フェイク知人」を生成して、

だましの手口も、AIに生成させて、巧妙に詐欺や投資話や闇バイトに誘導するんでしょう?

とにかく、「金」が絡んだら、落ち着いて、物理接触か、物理電話で本人確認しましょう!

多分、それ以外、手の打ちようがない。
 

 

 

で、言及した、

・「人知を超える知性=意思を持つ」とは思えない。
 (AIが意思を持って人間をコントロールしようとはしない。
  但し、一定の制限下では、AI(AGI・ASI)は人間社会に影響を及ぼし得る。)
・人類(主語でかいw)は今に至るまで、制度に違いはあれど、人による統治しか受け入れて来なかった歴史がある(エビデンスはよw)。
 なので、AI(の判断、知性)に「全人類」が屈服するとは思えない。一部ならありかも。
・人工知能について考えてみるにつけ、
 人が「人が理解できない知性」をどう利用するのかにかかっている。
・(しかし)悪用に関してのルールを決めても進化は止められない。(悪用する者は一定数存在する)

とすると、少なくとも、「一般的な人間の社会生活」においては、
結局はAIがどんなに進化しても「人が使う道具」であり続ける。ということになる。
AIの成果物がどんなものであっても、その後ろには、生成した人の意図が隠れている事になるかと。
今のところ、私はそのように考えています。


現在、政治・経済・犯罪などの分野とか、「一般個人」から「国家」まで、
意図的に「フェイク」をしかけて、利益や権力や影響力を得ようと画策する人たちが出てきた。そもそも「虚偽の事実を信じさせること」は歴史上にいくらでも先例がある。

しかし、今、AIの出現によって、真贋の判定が複雑化しているのが一点。

もう一点は、

 

で、指摘した、

SNSの台頭によって、
・無識者(無知)であっても影響「力」を持つ可能性が出てきた。
ことであり、
「善悪真偽」関係なく、インフルエンサーによるインパクトのある投稿は拡散され影響力を持ってしまうことである。

AIとSNSを組み合わせることを「悪用」した場合どうなるか?
意図的にAIでエビデンスをねつ造しSNSで拡散された場合どのように対処するか。

これは、一見恐ろしいようにも見えるが、これについては恐れる必要は無い。
マスメディア、今で言う所の、オールドメディアが昨日まで担ってきた構造と同じであって、我々(笑)は既に経験済みであり、今、それが崩壊しつつあり、SNSに場所が移っただけだと、私は考えている。

まあ、個人勢なんかも加わってくるので、以前よりすこぶる厄介なことには間違いないが、本質的にはなんとかなる範囲だと、今のところはそのように考えている。


さて、「フェイク」の代表格のような「偽科学」「陰謀論」の様な考え方は、
大多数の人間にとっての主流の考え方にはなりにくい。
利用範囲が限定される。検証に堪えない。再現性に欠ける。継承が難しい。からです。

なので、

最終的に「フェイク」が過半数の支持を得て、「ファクト」圧倒することはないと考えられる。
一時的に「フェイク」に有用性が与えられ、支持されることは覚悟しないといけないが、

あくまで{{最終的に}}は「ファクト」が主流になるということ。

そこは人類(自分)を信じたい。

それでも、この文章を続けていることの問題点は何かというと、

一定数は必ず社会に存在する、
例えば「偽科学」「陰謀論」を信じてしまう側の人間を「意図的に狙って」

何らかの利権・利益を得ようと考える人間が出てきたという事である。
その人達は、一般的に良識的といわれる人間の反論は「気にしないし、考慮しない」。
意図的に反論を「無視」或いは「利用」して、一定数存在する「信じる人間」にだけ、
只管、自分に都合の良い「ファクト」と「フェイク」の情報を織り交ぜて提供をするわけです。

こういった経緯で構成された集団に対しては、
一般的な科学的知識や良識とか常識とかを持ち出して反論を試みても全く響かない。
コントロールしようと画策している人は、
実際問題として「フェイク」を承知で情報を流しており、反論は意図的に無視します。
支配下に置かれてしまった人は「フェイク」を「ファクト」だと信じて疑わないので、
良識側のあらゆる「反論・反証」を逆に「フェイク」として捉えるので、意味をなさない。

もちろん、「詐欺師」とか「陰謀論者」は昔からいます。
 

ヤバいのは、SNSを利用することで、個人や即席の集団や団体が、

自ら「偽科学情報」「陰謀論」をばらまく敷居が低くなり過ぎたことと、
昔は、物理的な接触の出来る範囲が集団形成の大凡の限界だったものが、
ほぼ全世界の人間に普及してしまったネット端末(スマホとPC)によって

 

<<< 釣れる人数が飛躍的に増えた! >>>
 

ということです。

釣れる人数の桁が変われば、得られる力や利益の大きさの桁が変わってくるわけです。

これまた厄介なことに、
世の中の理不尽な仕組みに疑問や不満を持ち、それをなんとかしたいと考える、
本来的に真面目な人ほど、釣られやすい。
自分が楽しければいい人に陰謀論を説いても、何それ、都市伝説?おもろいね!で終了。

そして、現状、景気や社会情勢に明るい展望が少ないこともあいまって、
社会がきわめて理不尽な状態である事が、ずっと公に喧伝され続けている状況で、

さらに、常にSNSの加速装置が働いている状態なので、
不満を持つ人間、なんとかしたいが如何ともし難い、と思っている人が増加している。

そこに、
にっちもさっちもいかない現状を全部ぶっ壊してくれる「ファンタジー」を提示されると、

どうしても憧れてしまい、頼ってしまいたくなります。

筆者も、抱える問題が多すぎて考えるのが面倒になったとき、
「オール・オア・ナッシング」「一か八か」見たいな思考の助けを借りたくなります。
でも、それは、「ナッシング」につながる破滅の道かもしれない考え方であって、
とても危険なのです。

苦しくても、辛くても、破滅しない方法を「考え続け」なければいけない。
自分でなんとか出来る部分は、他人任せ(他責)にすることなく、
自ら担わなければいけない。後悔しないためには、「自分の頭」で考え続けることです。

今は、そう考えてやっています。
 

「何で信じるの?」とか「なんのこっちゃ?」って思うのも理解できますが、
恐らく、「フェイク」を信じる人間を「0(零)」にはできません。
そういう方は一定数いらっしゃる。そして、どうも数が増えているように見える。
エビデンスが無くて申し訳ないが、世界各地でネットの活用による政治活動・政治運動により、新しい政治思想や新興の政治団体が台頭してきているのは証左の一つかと思う。

元に戻すと、
よく、正論で「偽科学」「陰謀論」を論破しようと試みているのを見かけますが、
そういったコミュニティに一度所属してしまうと、

そのコミュニティ内の方に一般的な話は通じなくなります。
コミュニティには強固な防御壁があるので、声が届きません。
コミュニティ内の独自ルールが壁の中でエコーチェンバー(自分の意見が周囲から肯定的に返ってくる)を起こしている状況なので、壁の外側の世界は全て敵と見なされるからです。


漫然と過ごしていると、こういった話に引っ張り込まれてしまう機会が増えてしまいます。

釣られた直後なら、抜け出すチャンスはあるかもしれませんが...ほんとに気をつけたい。
大きなお世話ですが、明日は我が身と考えたことが全くない方、

常識から外れられず真面目な方ほど、ちょっと気をつけた方が良いかもしれないリスクです。

 

以前から一定数いたこういった「フェイク」を旨とする主張は、
数が少なくて力が無かったので(局所的には大きな影響を受ける事があったでしょう)、

社会全体に不安を起こすまでには至っていませんでした。

 

民主主義制度を旨とするコミュニティで「先進国」とカタログされているような地域では、

比較的、現状、非常にポピュリズム(大衆迎合)的傾向となっています。つまり、
受けの良い言説がSNS等で拡散されることで支持を得られることがわかってしまった。

そうなれば、その手段として、そこに「フェイク」を混ぜる事が増えていきます。

この先、どんどんそういった言説の数が増えてしまうと、

社会の分断や混乱の度合いが、どこかで無視できない程大きくなると考えられます。

そう遠くない。目の前だ。既にそうなっている。実感している方も多いかと思います。

 

インフルエンサーとそのファンネル(取り巻き)の中でも声の大きい輩が、

SNSで吠えているだけ。という部分は大いにあるとは思いますが、

連日、そういった言説を聞かされると「アレ?どっち?」って、なる可能性も否定できません。

 

筆者のプロフィールでご紹介(させていただいています)が、

筆者は、いにしえの時代からコンピュータとつきあってきまして、

掲示板上の罵詈雑言合戦の観賞、釣り(目立つことが目的の嘘。手の込んだ美しい「釣り」もあったなぁ..)、グロ(テスク)画像・精神攻撃系画像(蓮コラ←調べてはいけません)・ブラクラ(ブラウザクラッシャー)を「ソースチェッカー」などのツールで調べて回避したり出来なかったり、びっくりGIFの観賞、不謹慎ゲーム、チェーンメール(不幸の手紙)等々、それなりに場数を踏んできましたが、そんな経験を持ってしても、

昨今のSNS上の誹謗中傷合戦をうっかり追っかけてしまったりすると、

少なからず、精神にダメージが入ります。

閉鎖された空間内(掲示板とか)の出来事なら域内での諍いで済んで、まだ良かったのですが、

やはり、飛躍的に参加者が増えたSNS上で「わーわー」なっていると、

これ、ほんとうに社会全体大丈夫か?って、言いしれぬ不安におそわれます。

「SNS断ち」「スマホ断ち」「ネット断ち」をしたくなるのも当然です。


「フェイク」がまん延していても、そのうち「ファクト」が戻ってくるでしょ。


と、泰然としていたいものです。

 

直球の反論は、反論の対象にエネルギーを与えてしまう事もあります。

躍起になって反論するのではなく、淡々と事実を積み重ねていくこと。

相手と同じ土俵にたってはいけません。反撃の材料にされます。

現在のオールドメディアを見れば、わかるかと思いますが、

「オールドメディア」を牽引していた世代は、好調な新しいメディアに嫉妬をしているため、

新興メディアを下に見ないと、矜持を保てなくなっています。

とはいえ、オールドメディアの持つ取材力は個人や即席集団にはない強力な武器です。

今こそ、その力を発揮すべき時です。真っ向反論するのも大切ですが「ファクト」を積み上げる

本来の作業に立ち返ってもらいたいと、衷心より願っています。

最終的に「積み上がった事実」をみれば、通常の感覚であれば「ファクト」か「フェイク」かの「判断がつく」のだと、そう、考えています。

 

ただし、ここは、強調しておきますが、

あくまで、「自分の中で一定の根拠のある判断がつく」ということです。

 

矛盾したこと言いますが、

自分の直接関与した事でない限り、

「ファクト」「フェイク」の判定は「厳密には不可能」です。

真実に相当する根拠が「かなり」「結構」「まあまあ」「それなりに」ある、とか、ない、とか、そういうレベルの話です。また、その根拠によって、なにがしかの判定を下すためには、

一定程度の範囲の知識や知見、経験、思考力なんかも必要になり、

それがない場合は、広範囲の人には受け入れられ難い「判断」と見なされます。

 

ちなみに、支配をする方のお立場の場合は、

エコーチェンバーを増幅させる為に、狭い視野となるような、少ない、または、偏った情報が

非常に有効です。また、自分の頭で考えさせてはいけません。答えは与えてあげるのです...

 

もどして、

言葉の流れや便宜上やむを得ずのケースは別として、

「真実」について断定をする人には注意した方がよいかと思われます。

「私は、知らないと言うことを、知っている。」という姿勢でしょうか。

「私は宇宙の全てを知っている!」なんて言われてもね...

知・智に対して謙虚であるほど、断定する表現は使いづらくなります。

世の中で「絶対」と言い切れるのは「人の死」くらいですが、それすらも、

(生死の定義や形態は別として)絶対ではない可能性も、ない事はないかもしれない。

 

なんか「スルー」耐性が低い人が増えて来ているような気がして、不安。

参加者が増えたからだろうか?社会全体になんか余裕がない感じもする。

とは言うものの、今後、筆者に余裕がなくなったら、

ここで、フェイクをまき散らすかもしれませんw

その時はスルーしていただければ幸いです。

 

とどのつまり、

フェイクに騙されないための一番の防衛策は、

躍起になって何でもかんでも疑ってかかってフェイクを見破る・論破することではなく、

自身の心に一定程度の余裕を残しておくこと、なのかもしれません。

思考にネガティブな影響を与えないように、しっかり体調管理をすることも大事。

 

あと、もう一個、今の時点の私の考えでは、

様々な分断・ディスコミュニケーションの原因の一つである「認知バイアスの歪み」は、

所属しているコミュニティに要因があったりもする、と考えています。

 

エコーチェンバーはなにも、偏った集団だけではなく、もれなく筆者やこれを読んでいるあなた

の所属している集団にも存在します。例えば、筆者が「良識的」と思っている集団にむけて、

「良識的」なことを言うと、筆者には肯定的な反応が返ってくるわけです。

この場合に、認知バイアスの歪み、偏見・予断をなくすためには、居心地の良い特定の集団・コミュニティに「だけ」所属していては、手厳しい反応は期待できません。自分の主張や意見があるならば、複数の異なる見解のコミュニティで発表し、その反応を「試す」行為と、返ってきた反応を、改めて、自分の中で咀嚼・再解釈・客観視する態度が重要になる。

 

これを意識することは、もしかしたら不幸を招く可能性もあります。

複数のコミュニティの掛け持ちにより、自分を見失う・本当の自分がどれか分からなくなる・八方美人だと感じる、ということが起こるかもしれません。でもそれは、錯覚だと考えています。

「本当の自分」など存在しないからです。相対的な外側からの反応を使って、便宜上、自分の位置はこの辺かな?と確認する。そういった相対的な評価でしか理解できない。だから、多少の「ぶれ」は想定済み、としておかないと、必要以上のループに捕らわれてしまいます。

また、誰にも相談せず、「試さず」、自分一人で考え続けているなら外側の反応自体が使えないじゃないか。ということに関してですが、それは、「完全な一人」ではものが考えられない、と言えるかと思います。ものを考える時に、何らかの外側から与えられた、判断基準・価値観を利用せざるを得ないからです。

 

実は、これは結構厄介で、個人が自分の中で、何事かを判断する為に仮定せざるを得ない、

世界・常識・価値観は、第三者の誰にも踏み込めない・反論できない・触れられない領域です。

なので、変化することが非常に困難な「不変のバイアス」のまま、自分の中に居座り続けたりします。ここにとらわれてしまった場合、「インポスター症候群」(成功を自分の手柄と考えられない。詳しくはWEBで)になったり、誰の言うことも聞かない独善・独裁者になったりする要因にもなりかねませんし、その状態から抜け出すことが、非常に、非常に困難になります。

自分にも他者にも介入できない「不変で仮想の世界」が作られてしまうからです。

 

というわけで、判断に迷った時は、迷わず、第三者の意見も聞いてみる。反応を見る。また、

自分が所属しているコミュニティが持っている「特徴的なバイアス」または、肯定的に返ってくるだろう反応については、意識的に確認する癖を付けておくこと、が必要になるのかと考えています。そこに、違和感があった場合は、今のコミュニティ(地域・集団・会社・交友関係・家庭)から、距離を取る、抜け出す、別のコミュニティを掛け持ちする、移ってみる、ことで、

自分の中で、表面化、言語化、客体化できる、かもしれない。

 

自分で自分を評価・判断しているその元の価値観や常識が、所属しているコミュニティにあるのだとすれば、「別のコミュニティに所属すれば、価値観や常識が変わる」と言うことです。

とはいえ、

都会の絵の具に染まってしまった彼(木綿のハンカチーフ)は戻って来なくなる。

東京には空が無い(智恵子抄)といって、戻って行く(戻りたいと願う)。方がいる。

これは、所属したコミュニティが自分に取って、居心地がよいかどうかでも決まる事を示唆します。なので、先程言ったことの解像度を上げるとすれば、

「別のコミュニティに所属することで、価値観や常識が変わる可能性がある。」

これは、当たり前かもしれませんが、

「自分が変わらなければ変わらない」

と考えている方にとっては、方法論として有効な可能性があります。

「問題を抱えて困っているあなた」自身は変わる必要はなく、

「問題のあるコミュニティ(場所・環境)を、居心地のよいコミュニティに変えてみる」

ことで、「あなたが心地よくなる」可能性は見えてはこないでしょうか。

「あなたが何か問題を抱えて困っているならば、居心地の良いコミュニティを探す」

という事になりましょうか。

一応、どういう集団が「心地よく」感じるかは、少し検討が必要かもしれません。

場合によっては、犯罪集団があなたにとって心地の良い場所である可能性もあります。持続可能性を考えた場合、犯罪集団に所属し続けるのはリスクです。そういった検討は必要かと。

いずれにしても、くれぐれも「フェイク」を騙(かたる)る集団やコミュニティに取り込まれてしまわないように、このブログ冒頭のチェックも利用してみていただけたら、幸いです。

 

筆者がここで言っていることは、筆者に比較的近しいコミュニティに所属している方には部分的に理解されかもしれませんが、そうでない方には、何を言っているのか理解できない可能性が高い。これは、分断とかではなく仕方のないことです。

かつては筆者も、人類に共通する普遍的な法則を見つけたい哲学の徒、を目指してきましたが、

普遍的な法則は無理ですよw

じゃあ、何ができるか?

出来ることは、ものの見方の解像度を上げること。です。

多面的にものを観察して、いくつかの仮説を立てること。それなりの根拠を集めること。

 

矛盾を承知で「この世に「断言」出来ることなんて「絶対にない」!」と、信じてやっていく。

そうすれば、あらゆるものを疑う事が出来ます。ものを考える出発点だと思ってます。

筆者なりに、いろいろ調べて、考えてきたものを、(大量の文字でw)発言・発表することで、

その考え方を誰かに知ってもらうことで、何らかのお役に立てたなら嬉しいです。

 

最後に、一応日本は民主主義なので、

なんとか51%以上80%位は話の通じる人間がいる社会を維持し続けて欲しい、

というお話しだったんですけれども、お付き合いいただきありがとうございます。

 

意見なんか合わなくても全然構わないので「話の通じる人」...いなくならないよね?