「人は予測せずにはいられない」分断・不寛容・バッシング・不確実性の誤認~からの、卒業♪ | jedipadawanのブログ

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人間は判断力の欠如によって散財し、
忍耐力の欠如によって散財し、
記憶力の欠如によって散財する
(アルマン・サラクルー・サンザイ)

えー、恐ろしい勢いで精力的にDTM作品(カバーだらけ)を量産していたおかげで
ブログの更新が半年程空いてしまいました。

全世界的に、しかも、そこかしこのコミュニティで、
分断(不寛容)が目立っていますが、
そこいら辺の絡まった糸の絡まり具合の解像度を上げる(※1)べく、
いろいろ、この間も考えつづけていましたので少し自分用にまとめてみました。(まとまってはいない)


まず、いきなりでかい主語からいきますが、
人間の行動原理を読み解くキーワードとして、
個人的に最近クローズアップしているのは、

「人は予測せずにはいられない」

というモデル。

ここから、いろいろな方向へ展開する事で、
だいぶ、人が起こすいろいろな事象への解像度が高くなりました。

例えば、
「行動や思想が首尾一貫している人物」が尊ばれるのは、
それが、他人から見て行動を予測しやすいからである。
とします。

本来的にコントロール不能な「他者」は「自分」にとっては困った存在であり、
コントロールは出来なくとも、対処が必要な場合はままあり、
そんな時は「他者」の行動・思考がある程度予測できることが重要です。(※2)

「予測に従って、将来の行動を決められる」

からです。
また、そこに「道徳的」や「倫理的」であること、
などは必要な要素ではなく、たとえ「不道徳な人」であろうと、
行動の予測がしやすい人ならば、「安心出来る他者」といえましょう。

繰り返すと、
他者に対して不道徳なりに行動に首尾一貫性が認められれば、
少なくとも、自分にとっては「安心出来る他者」となる。
ということ。

非常によろしくない例えになる恐れがありますが、

不祥事を起こした有名人に対して、
「あいつならやりかねない」と思っている場合と、
「あの人がやるなんて」と思っている場合とでは、
同じような不祥事を起こした場合でも、
事後のその人物への風当たりは、
一般的には、前者には寛容で後者には不寛容になります。

それは、
不祥事を起こした人物に対する自分の
「予測が当たった」事の安堵(感情=苦笑)
と、
「予測が外れた」事の不安(感情=たとえば怒り)
ということに、なるのではないかと思われます。

そして、もし「予測が外れた」場合、
不安感を払拭するためには、
「何故、予測が外れたのか」の理由を必要とします。

今後、同じ間違いをしないように、
不祥事発覚後に集められた新たな情報によって、
あらたな他者の出現に対して分析し行動を予測できるように備えるためです。

そこに、正当性あるいは筋の通った理由があれば納得し安堵し、
いつまでも予測不能な情報しか出てこない場合は、
不安が払拭されないまま、勝手に理由を考察したりしつつ、モヤモヤする(怒りが収まらない)わけです。

さて、
サマセット・モームのエッセイ『サミング・アップ』に、
「人間を観察して私が最も感銘を受けたのは、首尾一貫性の欠如していることである」
と書いてある、という話を以前も話しましたが、
私は賛同する立場です。

人は、人生の中で様々な経験を経て、変節を繰り返す生き物(※3)です。

で、この「他者の首尾一貫性の欠如」について「達観」した場合、
直接自分に影響のない場合においては、
「他者」が何をしでかしたとしても、自分には関係ないよね。
で、済む話になると思われ、大体の方は、それで済んでいる。

はずだったのです。

かつては、
マジョリティ(力のあるもの)の意見が圧倒した場合、
マイノリティ(力のないもの)の意見は圧殺されていて、

良い悪いは別として、
世論において「予測が外れた」場合の説明は、
マジョリティの「一方的な」意見を「疑うことなく採用」することで納得して安心する事ができた...のだけれども、

(力のないもの)だったはずのマイノリティが、
(力のあるもの)に変わりうる事態が起こった。

SNSでの発信ですね。


『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリが、

「無知はそれほど危険ではありません。あなたがそれを力と組み合わせるならば、これは有毒な混合物です」(※5)

とTIMES誌で言った様ですが、

まさにそのようなこと、
つまり、無識者(無知)であっても影響「力」を持つ可能性が出てきた。
さらに厄介なことに、肩書き上は有識者と呼ばれる人の中にも(無知)が「混ざっている」事が判明しつつある。
さらにさらに厄介なことに、そこに「生成AI(AGI)」も参戦する事態となっている。

AIが何を考えているかなんて、それこそ予測不能な分けですから不安は増大するわけです


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「私も何も知らないし、何もわからない。
しかし、何でも知っていると思い込んでいる人より、
自分は何も知らないし、わからないということを知っている」
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謙虚に情報と向き合うことの大切さが、今、身に沁みる


『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』(※6)の著者ナシーム・ニコラス・タレブは、

人間は、「予測不可能な出来事(ブラック・スワン(※7))」を「過小に評価する傾向」があり、
それを「予測可能なものと誤認する」ということを論じているらしい。


私なりに調べた中で、合点がいったところは、投資というか私の場合主にギャンブルにおいてだが、
実際、まあまあの期間、ギャンブルとして競馬と向き合ってきた経験上の自分の学びとつきあわせて、
以下の内容に共感をおぼえた。


・成功した時のプラス面が失敗のコストを「莫大に」上回るなら、
 やる価値があり、そこに利益を上げられる「回数」は関係なく「結果の度合い」こそが重要。

・ベッターにとって最も大切なのは破産のリスクを避けること。

・起きる確率が(非常に)低い事を「予測」することは、あまり生産的・効率的とは言えない。
 とはいえ、その事象が起きた時の「影響」はある程度予測がつくので、そこは準備しておけばある程度対処が可能。
 つまり、確率(これはわからない)よりも、影響(これはわかるかもしれない)のほうに焦点をあて思考する。

・物事には大量の「たまたま(偶然や異常値)」があるのに、人はそれを「たまたま」とは思わない

・過去は確定し、未来は予測できない。なので、人はおおにして、
 確定した過去の事実のみをもって考察し、この振り返りの中で、実際の物事を歪める傾向がある。
 この、過去を「理解」しているという「錯覚」は、未来を「予測」する能力に対する「自信過剰」を「助長」する。

まとめると、

・未知なものは未知なまま扱い、その未知なものがどのような影響を及ぼし得るかということに従って判断する

ということ。


「人は予測せずにはいられない」

これは、避けられないのだと思う。

しかしながら、
「偶然・異常値」の確率を計算して、それが途方もない確率であることを知り、
結果、これは「奇跡」だと考えたり、あるいは逆に、
必然の結果に対して「偶然・異常値」だと取り違えたりする。

こういうことは、考え方のシフトで避けられるのではないか。

ということである。

例として上がっている、

「0と1がランダムに10の100万乗個並んだ数列には、
 0が連続して100万個並んでいる個所が、少なくとも10か所は存在するはずだ。」

ということを意識できているか、いつでも自問しないといけない。
そうでないと、
「ランダム(や偶然)」に意味を見出し、「ランダム(や偶然)」から、
むりくり必然を導き出してしまう誤謬を犯す。


さて、本題に戻りたいw

投資やギャンブルの話は興味深いとはいえ、
私にとっての本題は、

「人は予測せずにはいられない」

というモデルを利用して、
「自分」への解像度と「他者」への解像度を上げることにある。

今、自分が取る行動を決定するのは、思考と予測に基づいて行われる。

「喉が渇いたから、水分をとりたい。

水道水やミネラルウォーターは安上がりだが、そもそも論として味のしない水が飲めない。
何なら昼は油そばだったから、すっきりした感じの飲み物で、ついでに、
体重が気になるので脂肪がつきにくいと宣伝している飲料を飲みたいところだが、
ポイ活しているのでポイントのつく、あのドラッグストアに行って買って飲もう。
午前中に依頼された取引先への資料の送付は、取り敢えず、水分を取ってからでいいか。」

のような、思考と予測の連続体みたいなわけだが、
人によっては、

「え、水飲めない人が存在するの?」

「いや、取引先への返事が最優先だろ」とか、
「特保の飲み物なんて、不当に高い割に当てにならない」とか、
「ポイ活の為に振り回されて残念だね」とか、
いくつかの引っかかりポイントがある(※8)かと思う。


それは、人の多様性であって、人生で獲得してきた価値観であるから、
それが、自分を縛るものでないのであれば、肯定できうる価値観であると思う。
しかしながら、獲得してきた価値観の中に、
「ランダムや偶然や異常値」による「無知や錯覚」から生まれたものが紛れてはいないだろうか。
ということ。

少し逸れるが、
白と黒の間に「様々なグレー」がある事を「認めたくない」というバイアスがあるように思う。

「中庸」という「過不足なく、偏りなく、調和がとれている状態」をさす言葉があるが、
これは決して、「真ん中」を指す言葉ではない。
よく、年収の「平均値」という指標があるが、あれに違和感をおぼえるのと同根であって、
外れ値の影響を受けにくい「中央値」で示された方が、より現実的ではある。
「中庸」という言葉が必要なのは、
物事を考える場合、「中庸」である事を人に求めるのが非常に困難であるからこそ、
であって、そういう事情であるならば、
「様々なグレー」がある事を「認めたくない」というバイアスこそが、人にとっては一般的なのかもしれない。


翻って、
・未知なるものは未知なまま扱い、その未知なものがどのような影響を及ぼし得るかということに従って判断する

とした場合、
「未知なるものは未知なまま扱う」という事の困難さは想像に難くない。
「未知なるもの」を既知として扱いたい。予測したい。対処したい。白黒付けたい、グレーはいやだ。

その衝動を抑えることは難しい。

が、考え方を変えれば、
「エポケー(※10)」(判断停止)しとけっ!、て話で片付けてよくって、重要なのは、

「その未知なものがどのような影響を及ぼし得るかということに従って判断する」
ことの方に重点を置く方が、なんぼかマシという事に、あらためて気づいたりするわけです。


もう少しだけ具体的にすると、

「ネガティブな考えしか思い浮かばず、常に不安にさいなまれる」場合、
その思いつく限りのBADな考えの中に、

・「未知なるもの」ぶっちゃけ「=他人」だったり、
・「たまたま(低確率な事象)」だったり、
が、紛れ込んでいる場合は、
・「他者(未知なるもの)」が、自分に、どんなよろしくない仕方で介入してくるかの予測
・「事象(偶然)」が、どんな風に自分に襲ってくるかの予測
をする事は、一時中断して、

「そいつ」や「災難」が、
「私にどのような影響を及ぼすか?ということに従って考えて、判断する」
という事によって、「ネガティブな考え方」は、実はプラス方向に転じることができる可能性を秘めている。
ということになるのじゃあないかなぁ、と思いました。



いつも通りの長文・乱筆となりましたが、
ブログとしてアウトプットしておきたかったことは、
たまたま、親だったり、一番近くにいた影響力の強い「他人」が”ブラック・スワン”の人間だったりした場合、
「その経験に基づいて形成された”他人像”が普通ではない」ということに自ら気づくことが、
過去を「理解」しているという「錯覚」に陥りやすく、
そのことで実際の物事を歪める傾向がある「人」にとっては、

大変困難なことだということです。

 

そして、ブラックスワン的他人像を持つ人と、そうでない人との間に、

ディスコミュニケーションが生まれ、不寛容や分断の要因の一部を形成する。

 

自分への、あるいは、他者への解像度を上げていくことで、

これを少しでも、減らしていけないものか?
 

そして、もう一つ、このエントリーを書いた動機の一つとしては、
もし、この考察が誰かに届くのであれば、なにかしらヒントになったら、

なんてことを思ったりもするわけです。

 

が、まあ、いうて、この一連の長文は自分のためのもので、
自分自身として、人を信用できなかったり、他人に期待をしなかったり、
自分のやりたいことを優先してしまったりすることの、自分の冷たい性格を何とかしたい。
他者を理解することで変えてみたい。
という、考えでずっと人生をやってきていて、ここに書き綴るに至っているわけです。
年を経ると、褒められたり、励まされたりがなくなっていくので、

どうもそれが少し堪えてきているようで、
要するに、「大丈夫だよ」って誰かに言ってもらいたいだけなんですわよ。
DTMで曲を量産して動画を短期間に大量に投稿していたのは、再生回数が増えることで、

自分を安堵させるため。ちょっと疲れているからなんでしょうか。

まあ、自分自身で好きなように曲の製作から動画の製作までして、

全世界に(恥ずかしげもなくw)公開することができることや、その技術が少しずつ上がっているのを実感できることが、単に、楽しいというのも、もちろんあります。

最後に、
非常に参考になったというか、私の中で転機の一つとなったポッドキャストを紹介します。
こちら、

いつも自分を罰する自我や、自分を責める他者に苛まれている方にとって、

あるいは、どう接しても、何と声をかけても本心を決して表にだしてくれない方が身近にいらっしゃって、そのことに戸惑いを持っている方にとって、

「人や自分に対する解像度を上げる」ということに関して、気づきの多い内容の番組だと思っています。

※TBSラジオのPodcast番組
「となりの雑談」
https://www.tbsradio.jp/kikimimi/

桜林直子さんとジェーン・スーさん、
他者に対する非常に繊細かつ突っ込んだ洞察力をお持ちになるお二人ですが、
真逆と思われる立場のそれぞれの視点から、
人の心のありようや態度を、このお二人の雑談だからこそ俯瞰できるような作りになっていて、

また、音声番組ならではというか、時間を使って丁寧に紐解いていく感じがしていて、
私にとっては、非常に説得力がありました。
気になったら、聴いてみてはいかがかなぁと思い、唐突ながらご紹介させていただきました。

 

でわ。


--------
※1:
絡まった糸を解きほぐそうなんてことは、少なくとも「考えるだけ」にしておきたいものです
絡まったものは当人同士でしか解けない

他者が関わる事象である以上、不確定要素が多すぎて、労多くして益は少ないと考えています
なので、自分にできることは、とにかく自ら絡まりにいかないこと


※2:
他者をコントロールできると信じている人もいますが、それは除外とします
私は、他者を完全にコントロール出来ない以上、信じるには至らないという考え方です

※3:
以前は、「人生を通して筋が通っている」事は美徳と考えていましたが、
「人生哲学の様なもの」が洟垂れの頃から固まっているなんて、
特殊な経験を踏みぬいてしまった、ほんの一握りの人間に限られると思ったときに、
一般的には、変節を繰り返しながら徐々に(※4)形作られる方が自然だと考えるようになりました

※4:
残念ながら、徐々にではなく「不揃いの階段状」に、とあるきっかけのあとで、
ぐんとステップが上がる(下がる)のだと思います

※5
https://time.com/4672373/yuval-noah-harari-homo-deus-interview/

※6:
未読ですが、一時期、金融業界で有名になったらしいです

※7:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%B3%E7%90%86%E8%AB%96

 

※8:
油そばは正義

※9:
とはいえ、「平均値」の方も「推移」を見る上では必要な指標ではある

※10:
厳密には、「事象を客観的に捉える」という本来の目的とは違うんですけど
「エポケー」って語感がキャッチーで好きなので...