時はさかのぼること、約80年前。

 

 建物疎開のために広島へ向かった玖波(くば)・小方(おがた)・大竹(おおたけ)の義勇隊のお話

※建物疎開については、【第55話】を参照。

 

 昭和19年に入り、太平洋戦争の戦況が悪化するなか、国民総動員のもと編成された国民義勇隊。

 昭和20年8月の初めに、玖波、小方、大竹の役場にそれぞれ、建物疎開の動員命令が出された。動員開始日となる6日は、広島市以外のまちから約1万人が建物疎開作業に動員されることとなっていた。

 命令受けた玖波、小方、大竹の人たちは作業服に身を固め、玖波隊105人は玖波駅から、小方隊は86人のうち26人が玖波駅、60人が大竹駅から、大竹隊は798人が2便に分かれて大竹駅から電車で広島へと向かった。

 各隊は己斐(こい)駅到着後、小方隊は土橋・十日市付近へ、玖波隊は小網町付近へ、大竹隊の先発隊は、天満町付近に到着し、作業に取り掛かろうとしていた。

 また、後発の大竹隊は、己斐駅から目的地の小網町に向かうため、己斐橋を渡って福島橋への向かっていた。そして、迎えた8時15分。原子爆弾の爆発により、町は一瞬のうちに焦土と化し、玖波隊、小方隊、大竹隊先発隊ともに爆心地に近かったため、多くの行方不明者、負傷者を出した。玖波隊と小方隊は大竹に帰ってきた人もいたが、すぐに亡くなっていき、全滅状態となった。大竹隊も先発隊の死者・負傷者が多く、80人を超える人が亡くなるなど、大きな被害を出した。

(地元の広報誌より)

 

作者の先祖はこの日(8月6日)はたまたま建物疎開に出ておらず、他の地区の学生の方々が建物疎開のために動員されたと何度か聞かされた事がある。それを聞くと、何か考えさせられるものがある。

このモニュメントにe=mc²とありますが、これは原爆のことです。

戦後、原爆という単語を使うことはタブーとされており、その代用としてe=mc²が使われていました。

このことは、【第49話】の時に観光客に説明しました。

to be continued...