在日韓国人のイ・ジョングンさんについてのビデオを視聴した。太平洋戦争中は韓国併合をしており、韓国は日本の植民地となっており、韓国人は日本に連れてこられて強制労働させられただけでなく、不当な差別を受けていた。その例として、挙げられる事の多い韓国人だ。

幼少期にはしっこをかけられたりしたらしい。廿日市市に住んでいたりと、廿日市市に縁がある人でもある。

日本人の犠牲者の事は当然だけれども、このような差別を受けて日本で亡くなった方々もたくさんいらっしゃり、その延長線上に今の私達がいるということは決して忘れてはならないと思う。

そして、8月6日が近づいて来た。作者は、小学生の頃から忠霊塔(戦没者の慰霊碑)の中にある婆ちゃんの兄弟の次兄の名前を見ていた。その次兄が硫黄島で戦死した事はよく聞かされていた。その時はへー。。。としか思えなかった。社会人になってこうして平和をより意識するようになり、当時の言葉で言うと「お国のために(硫黄島で)戦ってくださった」今の言葉で言えば、戦没者の一人。顔すら見たことが無いはずのその人の事を思い出して、忠霊塔(戦没者の慰霊碑)に供えようと頑張って折り鶴を作り続けている。(他にも色々と目的はある)作り続けた結果、今では母さんから「折り鶴ロボット」と呼ばれるようになった。

 

 

 

 

 

【以下、祖母の戦争体験記】

 

 次兄も召集され、硫黄島に行っていました。硫黄島は大東亜戦争(太平洋戦争)の中でも一番の激戦地でした。長姉が心優しい人でしたから毎週雑誌をマレーシアに送っておりました。私が通学途中に郵便局があり、よく届けたものです。現地に届いたかどうかは定かではありません。昭和20年6月頃、硫黄島からの戦死広報が届きました。新聞等で玉砕(全面降伏)とは知っておりました。母にも覚悟は出来ていたのでしょうか、土間で白木の箱を受け取りました。中には、紙切れ一枚で当然のことながら何も入っておりませんでした。気丈にふるまっておりました。その時の心情を思いますと、母は強しという感じでした。

 終戦8カ月くらいたった時でしょうか、兄が南方から帰って来ました。佐世保に着いたそうです。その時は戦友(鳥取の方)が広島は大きく被害を受けている様だから、家が無いようであれば一緒に鳥取に行こうと宮島口に着いた時に我が町が有り、安堵したそうです。その方とはずっと親交が続いておりました。兄が亡くなるまで鳥取からも車で時折見えておりました。(戦友で素晴らしいなと思っていました)硫黄島で戦死した兄のことも気がかりでした。南海の孤島のため、個人ではどうすることも出来ず、戦後50年余り過ぎた頃に硫黄島協会がある事を知り、墓参りすることができました輸送機です。1250㎞ひたすら海の上のフライトでした。上空にさしかかった時、あれが硫黄島ですという案内で、小さな島でした。宮島の6分の1位でしょうか?お兄さん帰ろうと心の中で叫びました。上陸してみると正に硫黄島。至る所に硫黄が

出ており息苦しさを覚えました。一番に水が無いこと辛かったでしょう。戦前は千人あまりが生活し南海の楽園だった様です。戦中は近くの父島・母島に移住した様です。それはそれは紺碧の海でした。私共が戦後50年余り過ぎてからの墓参りでしたが、海岸沿いには沢山の船の残骸があり、いかに激戦であったか………。戦死者2万人余りの御霊に哀悼の誠は捧げました。その時もなお、遺骨収集が続いておりました。私共は年を重ねておりましたので、お断りしました。硫黄島墓参りには日本国の計らいで埼玉県の航空自衛隊の入間基地からでした。大変親切でした。感謝です。

to be continued...

※韓国人の話と祖母の戦争体験記を入れてみました。ガイドの話に戻ります。