「フォーガットン」 | 尋常ならぬ娘のオタクな映画日記

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  ~jeanpaul-cinemaの映画と伊藤英明をこよなく愛するブログ~

maeuri3    「フォーガットン」





この映画、一言で言うならば、


“見掛け倒しの映画”


といえるだろう。


私がこの映画の存在を知ったのは、

テレビ東京系で日曜深夜0:00~放送されている「SHOWBIZ COUNTDOWN」である。

この番組で紹介されている時は、なんて面白そうなんだ!!と身震いするほど、公開が待ちきれないという興奮に襲われた。

なぜなら、その映像には“非現実的”要素が一切含まれていなかったからであろう。


しかし、日本での公開を間近に控え、劇場予告や、TVCMを目にするようになり、

何だか嫌な予感がした。


予告を観て、一目瞭然。

この映画の、犯人は、現実的なものではない


あの、人間がはるか彼方へ飛ばされている予告を観て、

人間が犯人だと思う人は、おそらくいないだろう。。。

その時点で、観たいと思っていた情熱は、一気に65%くらい減少してしまった。


しかし、ジュリアン・ムーア主演ということと、“ある程度質の高そうな雰囲気”から、一応観ないわけには。。。と思い、観にいった。


結果、やはり“見掛け倒し”であり、“ある程度質の高そうな雰囲気”というのは、本当に雰囲気止まりであった。


評論で、母と子の愛情物語として観ると、満足できるという話も出ていたが、

母と子の愛情物語として、その絆の深さに納得することは出来ても、一つの映画として満足することはできない


ジュリアン・ムーア演じるテリーは、14ヶ月前に飛行機事故で息子サムを亡くしている。

その心の傷が癒えぬまま、日々、息子の思い出に浸っていた。

そんなある日、家族3人で写っていたはずの写真から息子の姿が消え、アルバムの写真が全て消え、ビデオテープの映像も消えていることに気づく。

夫ジムに問いただすも、夫はもともと子どもなんていなかったという。

そんな中、息子と友達だった女の子ローレンの父親アッシュに会う。

しかし、彼もまた、自分には子どもなんていないという。

自分には絶対に息子がいた。鮮明に息子との思い出を覚えている彼女は、アッシュに娘がいたことを思い出させるのだが。。。

それから彼らの戦いは始まる。


といったようなあらすじ。


まず、この映画、

全体的に浅い、というか、薄っぺらい感じが拭い去れない


というのは、やはり、非現実的な要素を取り入れてしまったからであろう。


表現したかったテーマと、それを表現するにあたって起用した表現方法が、かみ合っていない


作り手は、表現方法を間違ったといえる。


“母と子の愛情の深さ”をテーマとして描きたかったのならば、もっと別の方法を選ぶべきだったのではないだろうか。


また、“非現実的なもの”を重要なキャストとして取り入れたかったのならば、

そっちの色に、より重点を置いた作品に仕上げたほうが、よっぽどスリルがあって面白かったのではないだろうか。


“母と子の絆”というテーマははっきりしているも、後者の中途半端な要素が、中途半端に描かれ、介入していることによって、全てが台無しになっているように思う。


犯人は、“非現実的なもの”ということは、すでに周知なので言えるが、それ以上は詳しく言えないけれど、

この正体の描き方が、実に、中途半端である。

そいつが何者なのか。大まかにはわかる。しかし、はっきりはわからない。

そして、そいつの目的も、また中途半端なのである。


だから、薄いなぁ。と思ってしまう出来になってしまっている。


上に、この作品をもっと良くするにはと、2つの方法をあげた。

母と子の絆がテーマならば、違う方法で表現すればよかったのでは?

“非現実的な要素”に重点を置いた作品にすればよかったのでは?


しかし、それでは、この作品、全く別のものになってしまう


では、どうしたらよかったのか?

このテーマ、この設定で、もっと良くする方法


それは、中途半端にしないこと。


ただ、その単純なミスが、せっかくのこの作品を、批判の嵐へと導いてしまった


この作品、上映時間が92分と、非常に短いものになっている。

どうして、そこまで焦って終わらせなければいけなかったのか?

あと30分、“非現実的なもの”に対して時間を使い、丁寧に描いてあげれば、

ラスト、もう少し、厚みの出たストーリーになったのではないかと、心残りでならない