沢田研二 

憎みきれないろくでなし

 

ジュリー(沢田研二)が1977年末に「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞を受賞した後、その熱狂の中でリリースされた次のシングルは「憎みきれないろくでなし」(1977年9月5日発売)だった。

 

製作陣は、作詞:阿久悠、作曲:大野克夫、編曲:船山基紀が継続して担当したが、音楽的には 「勝手にしやがれ」よりも攻めた内容だった。

キャッチーな歌詞や帽子を投げるパフォーマンスは封印して、今度は、ロック色の強いブルージーな雰囲気を大切にした楽曲となった。

さらに、キャラクター的には、「勝手にしやがれ」がやせ我慢する男の美学を描いていたのに対し、今回は不道徳でニヒルな男という、いわゆる「ろくでなし」のダンディズムを追求した路線となった。

 

以下のようにディテールは違っているものの、全体としては、気障(きざ)な大人んお男の物語りという路線は続いていたと言える。

 

  • 「勝手にしやがれ」のパナマ帽とスリーピース・スーツという正統派な装いから一転、「憎みきれないろくでなし」では、皮ジャンやラフなスタイル、あるいは軍服をモチーフにしたような衣装など、よりアウトローでワイルドなイメージとなった。
  • 「勝手にしやがれ」は、帽子を投げる以外は静かなアクションが多かったが、より攻撃的で色気のあるパフォーマンスへと進化しており、この後のヒット曲でも継承されることになった。

一言にすれば、「勝手にしやがれ」の特大ヒットという重圧を、単なる二番煎じではなく、より尖ったカッコよさで跳ね返した、非常に攻めたシングルだったと言える。

 

 

 

沢田研二 

勝手にしやがれ アナザー・ストーリー

 

「勝手にしやがれ」という楽曲で、阿久悠が沢田研二さに投影した世界観は、映画「カサブランカ」(1942年)の主人公・リック(ハンフリー・ボガード)を体現したハードボイルドの様式美と深く繋がっている。

阿久悠は意識的に、ハリウッド黄金期の映画的なエッセンスを歌謡曲に持ち込んだ。以下、深掘りしてみたい。

 

「カサブランカ」の結末で、リックは愛するイルザを夫と共に飛行機に乗せて逃がしてしまう。心では引き止めたくても、彼はレジスタンスの大義と彼女の幸せのために、クールな顔をして別れを告げる。これは、去りゆく女を追わない美学だ。

 「勝手にしやがれ」の場合も、女が出て行くのを本当は引き止めたいほど苦しいはずなのに、無理して「あばよ」と突き放して背を向けている。 この愛よりも自分の痩せ我慢というスタイルを優先する姿勢は、まさにボガート的だと言える。

 

リックは自分の酒場で、常に一歩引いたところから客やかつての恋人を見つめ、孤独を酒で紛らわせる。 「勝手にしやがれ」の歌詞にある「ひとりきり寝そべって、ワンマンショーを演じる」という表現も、自分を俯瞰的に見ている演劇的な孤独だ。彼らは自分の人生という舞台の主役でありながら、同時にその悲劇を冷めた目で見ている観客でもある。その自己完結した孤独の美しさが共通している。

 

ハンフリー・ボガートは、戦時中の混乱の中でも自分の倫理観を曲げない不機嫌なハードボイルドを演じた。 阿久悠もまた、1970年代後半の少し浮足立ったナンパな世の中に対し、時代に逆らって自分のスタイルを変えない男の矜持をジュリーに託したのではないだろうか。「勝手にしやがら」という態度は、相手に対してだけでなく、世界や時代に対するアンチテーゼとしての個の自分を守るためのものだ。たとえ傷ついたとしても俺は俺のやり方を通すという個の宣言でもある。

 

結論を言えば、阿久悠は、当時の日本の若者たちにハンフリー・ボガードのようなハリウッド映画の古典的なかっこよさを沢田研二という最高の素材を使って現代版にアップデートして提示したのだと言える。

そして、当時の若者たちは、その楽曲に古臭さを感じず、誰にも頼らず一人で夜を越せる男のカッコよさを見出したに違いない。

 

 

沢田研二 

勝手にしやがれ

 

1977年1月21日に発売された「さよならをいう気もない」は、ジュリーのカッコいい大人の男路線の序章に過ぎなかった。ファンの盛り上がりの余韻が残る絶妙のタイミングで、同年5月21日に「勝手にしやがれ」がリリースされた。

 

阿久悠は、この曲を作詞した時40歳だった。彼よりも二世代下のジュリーのファンには、「バーボンのボトルを抱く」とか「ワンマンショーで」という古臭いフレーズは、どう映ったのだろうか?

ファンの若者たちにとって、この歌詞で描かれた世界は、自分たちが未だ手にしていない所謂「大人の世界」だった。阿久悠は、敢えて日常性を廃して映画のワンシーンのような劇的な世界を構築することで、若者たちの「自分もこういう風にしてみたい」という背伸び願望を刺激したのではないだろうか?

 

かくして阿久悠の意図は、ずばり的中し、この楽曲は大ヒットを記録し、あれよあれよという間に年末に日本レコード大賞を獲得するまでに至った。

今回は、「危険なふたり」の時のように、五木ひろしがライバルとして登場して来ることは無かった。

 

なお、この楽曲については、ブログでは書き足りないので、note に以下記事を掲載している。

 

 

 

沢田研二 

さよならを言う気もない

 

「コバルトの季節の中で」の次にリリースされたシングルは、1977年1月21日に発売された「さよならをいう気もない」だった。

1976年は、ポップ路線や叙情的な自作曲を出して今後のジュリーの方向性を模索していたが、年が明けて再びハードでロック風の歌謡曲へと舵を切った。

 

阿久悠が「立ちどまるな ふりむくな」以来、ちょうど1年ぶりにシングル作詞に復帰し、それに合わせて大野克夫が作曲に、そして、若手編曲家の船山基紀を起用した。

 

「さよならをいう気もない」は、非常にエッジの効いたギターサウンドが印象的なナンバーで、沢田は、当時のロックスター(デビッド・ボウイなど)のようなタイトな衣装に身を包み、鋭い目つきで歌うスタイルを披露した。これは、この後続く、「男の美学」路線のプロローグとも言える一曲となった。

 

阿久悠が「さよならをいう気もない」で作詞に復帰したのは、阿久個人の強い希望というよりは、製作陣(チーム・ジュリー)の沢田研二を再び歌謡界の絶対的な頂点に押し上げ、レコード大賞を奪取する(「危険なふたり」は五木ひろしの「夜空」に大賞をさらわれたという苦い経緯がある)という戦略的は判断がベースにあった。

 

1976年に発表した「ウィンクでさよなら」や「コバルトの季節の中で」により、ジュリーの普段着で等身大の魅力を模索したものの、制作陣(特に渡辺音楽出版の木崎賢治)は、1977年を迎えるにあたり、ジュリーを再び圧倒的な非日常を演じるスターに戻すべきだと考えた。そして、その物語を書けるのは、阿久悠しかいないという結論に至った。

 

阿久悠自身も、この時期は一種の危機感を抱いていた。ニューミュージックの台頭により、従来の歌謡曲スタイルが揺らぎ始めていたからだ。1975年のレコード大賞、布施明の「シクラメンのかほり」は、銀行員とシンガーソングライターの二足の草鞋を履く小椋佳が書いたものだった。 阿久は、職業作家のプライドを持って、沢田研二という最高の素材を使ってニューミュージックには真似できない、徹底的に作り込まれた虚構の世界を再構築しようと考えた。これは、彼の一種のリベンジだった。

 

蛇足となるが、「さよならをいう気もない」は、実は「ハイヒールのかかとが折れて」という歌詞からも分かる通り女性の視点で書かれており、新しい試みをしようという阿久悠の意気込みが感じられる。

 

沢田研二 

コバルトの季節の中で

 

「ウィンクでさよなら」の次にリリースされたシングルは、1976年9月10日に発売された「コバルトの季節の中で」だ。

この曲は、小谷夏(こたになつ)という無名の人が作詞をしているし、また、作曲を沢田研二自身がしていることで異色な作品となっている。

どうしてそうなったのか、という点について解説したい。

 

まず、沢田研二自らが作曲した経緯ついて...

 

1970年代前半、沢田は来日公演していたアダモと接点があった。 当時の日本の歌謡界では、歌手はプロの作家から提供された曲を歌うものという分業制が当たり前だったが、アダモの自分で詞を書き、曲を書き、それを自ら歌うというスタイルで世界的なスターになったことに、沢田は大きな衝撃を受けた。そして、直ぐにギターの練習を始めたと言う。自分の言葉とメロディで表現したいと思ったからだった。

沢田は、1972年頃から本格的に作曲を始め、1974年の「恋は邪魔もの」で初めてシングルA面として自作曲が採用された。その後、アルバム曲などで積極的に自作曲を発表し、メロディメーカーとしての腕を磨いていき、「ウィンクでさよなら」で新進の荒井由実(ユーミン)が採用された直後、漸く自作を世に問うタイミングが来たのだった。

 

沢田は、自分で作ったメロディに、自分を一番よく知っている人の言葉を乗せたいと考えた。 そこで白羽の矢が立ったのが、ドラマ「悪魔のようなあいつ」の演出で現場で常に言葉のプロとして接していた久世光彦だった。

久世は沢田研二という表現者の美しさや孤独を誰よりも深く理解していた。沢田にとっても、久世さんは自分の役者としての魅力を引き出してくれた恩人で、絶対的な信頼を置くクリエイターだった。謂わば、相思相愛の関係だった。

 

久世さんは当時TBSの社員であり、副業として作詞家活動を堂々と行うことが難しかったため、小谷夏(こたに なつ)というペンネームを使用したのだった。

 

「ウィンクでさよなら」の軽やかさから一転、本人の作曲によるメロウな楽曲へと繋がるこの流れは、当時のジュリーがアイドルの枠を超え、アーティストとして表現の幅を広げていた時期であることを象徴している。

 

沢田研二 

ウィンクでさよなら

 

「時の過ぎゆくままに」(1975年8月)、そして「立ちどまるな ふりむくな」(1976年1月)と立て続けにジュリーのシングル曲を阿久悠・大野克夫コンビが作詞・作曲したので、その路線で行くのかと思ったら、そうでは無かった。

 

製作陣(渡辺プロダクションとポリドール・レコード)は、4曲目の「死んでもいい」のマンネリズムによる大失敗を繰り返さないよう、最新の注意を払っていた。「時の過ぎゆくままに」の退廃的で重厚な「陰」のイメージを一旦払拭しなければならない。そこで、「ウィンクでさよなら」では、敢えて作家をチェンジした。

 

なんと、作詞家として新進のユーミン(荒井由実)を迎え入れた。(作曲は、加瀬邦彦。)

彼女を抜擢したのは、渡辺音楽出版のディレクター・木崎賢治だと言われている。彼は、歌謡曲の枠組みに新しい感性を持ち込むのを得意としていた。

ユーミンに作詞を依頼するアイデアには、プロデューサーの加瀬邦彦とポリドール・レコードのディレクター・島田雄三も大賛成だった。

阿久悠のような歌謡曲の王道も悪くはないが、少し道を外してもっと軽やかで現代的な、等身大の青年像をジュリーに投影したいと木崎は考えた。現代っ子のモダンさ、日本製の洋楽の感性を持つ存在として、荒井由実は適任だった。

 

ブログのお休み中ですが、トランプ大統領が「ろくでなし」と発言したので、書くことにしました。

シャンソンの「ろくでなし」は、" le mauvais garçon " ですが...

 

 

トランプ大統領の発言、英語の原文は...

"Open The Fucking Strait, You Bastards"

クソ海峡を開けろ、ろくでなしどもめ

 

こんな下品な発言をする人が大国の大統領だとは、信じられません。

 

最近、ブログを書いてばかりで、note のエディット・ピアフの伝記をさぼっておりました。

新年度に入ったこともあり、暫く note の執筆に集中するため、ブログをお休みさせていただきます。

 

沢田研二 

立ちどまるな ふりむくな

 

「時の過ぎゆくままに」(1975年8月)が余りにも売れたので、沢田研二の次の「立ちどまるな ふりむくな」(1976年1月)も続けて阿久悠・大野克夫コンビが作詞・作曲することになった。

前作の「静」のイメージとは対照的な、非常に泥臭く力強いロック歌謡となった。ファンの間では、隠れた名曲扱いになっているが、チャート的には前作ほどヒットしなかった。

 

ここで、思い出さなければならないのは、「時の過ぎゆくままに」の前作「巴里にひとり」までは、シングル曲の不動のメイン作詞家は、安井かずみだったことだ。彼女は、アルバムでは作詞で参加していたものの、シングルについては阿久悠に作家の座を奪われてしまい、その後完全復帰することは残念ながら無かった。

安井かずみにとってジュリーは、自分の美意識を投影し、共に日本の貴公子を創り上げた最高傑作と言っても過言ではない存在だった。そこへ阿久悠という全く異質な感性を持つ怪物が現れてジュリーの色を塗り替えてしまったのだから、心中穏やかではなかったのではないかと推察する。

 

砂の城 Les châteaux de sable 

ミレイユ・マチュー Mireille Mathieu

 

この歌は、1974年にマリオ・クラヴェル(Mario Clavell)が作曲し、ピエール・アンドレ・ドゥ―セ(Pierre-André Dousset)が作詞し、ミレイユ・マチューが歌った。

 

ミレイユ・マチューは、1970年代に日本でのツアーを数多く行っていた。この歌は、1978年に三浦徳子が日本語歌詞を付けて、三木たかしが歌謡曲風に編曲しミレイユ本人が日本語カヴァーでリリースされている。

日本語で歌うことは、当時高視聴率だった日本のテレビ番組に出演するための必須条件だったと言える。

 

この歌は、夏の終わりに浜辺に作った砂の城が崩れ去って消えゆくという、日本人の情緒にも共通したシーンがテーマであり、選曲としてはベストであったと思われる。