恋のやまい Maladie D'amour

ミッシェル・サルドゥー Michel Sardou

 

ミッシェル・サルドゥーの Maladie D'amour(恋のやまい)は、沢田研二が「愛の出帆」というタイトルで歌っていて、竜真知子が作詞している。

 

この歌自体は、素晴らしいので否定はしないが、ミッシェル・サルドゥーの元歌を知っている私としては、いささか残念な気がする。

 

原詞では、こう歌っている。

 

恋の病は子供の頃から人々に蔓延し、それは老いるまで続く。人々に歌を唄わせ、世界に広がって行く。

その病いに障害悩ませられることもあるし、それで、女性は泣き叫ぶ。でも、もっと酷い状態になるのは、病いが治った後だ。

その病いは、女の子が学校のクラスで急に感染することも、街で通りかかった知らない男に一目惚れすることもある。

 

恋を流行病(はやりやまい)のように捉えるのが洒落ていて、その発想からこのシャンソンはできたと言っても過言ではないことだろう。

恋愛する人が少ないと言われる現代日本でも、恋の病いが流行らないかなぁと思ったりする。

 

小さな靴屋さん Le petit cordonnier

フランシス・ルマルク Françis Lemarque

フランシス・ルマルクは、反戦歌を含めいろんな種類のシャンソンを書いているが、この歌は、お伽噺のような雰囲気を持っている珍しい楽曲だ。

 

日本語の「小さな靴屋さん」というタイトルは、誤解を与えるので良くない。決して店舗の規模が小さい靴屋を言っているわけではない。靴屋さん(靴作り職人)が小柄だったというのが正しい。

この「小柄」というところがこのシャンソンのミソだ。

 

彼は、ダンスパーティーで踊ろうと思い、自分のために靴を作った。

ところが店に来た美しい女性がその靴を気に入り、買いたいと言い出す。彼女はどうして男の靴を買いたいなんて思うのか?

それは、この靴屋は小柄なので、足も小さく、女性でも履ける小さい靴を作ったからだ。

 

小柄な靴屋は、その美しい女性に購入を諦めさせようと、「この靴を履くと僕と踊りたくなりますよ。」と方便を使うのだが、彼女は強引に靴を買ってしまう。

ところが、その靴を履いた途端、靴に導かれるように急にダンスを踊り始め、踊りをやめられない。ついには、「靴屋さん、一緒に踊りましょう」というまるでお伽噺のような展開になる。

フランシス・ルマルクは、この素敵な可愛らしいシャンソンをアンデルセンの童話にヒントを得て書いた。

 

私のジゴロ  C'est mon gigolo

リュシエンヌ・ドリール 

 

リュシエンヌ・ドリールの全盛期は、1950年代と呼ばれている。このシャンソンは、そんな時期に歌われた。

 

日本で「ジゴロ」という言葉が広く認知されたのは、昭和50年代と言われているが、フランスではもっと以前から使われていた。それ以前の日本では、ヒモやつばめ、男妾などと呼ばれていた。

マイナスのイメージが強い呼び名だが、このシャンソンでは、自活する女が自分に依存してくれる男を見つけた意味で積極的に愛する姿が描かれている。

しかも、この歌の主人公は、絵画のモデルをしていて商売では自分の裸を見せるが、好きな男には見せたことが無かった、そんな私にもようやく春が来て男ができた、という歌詞になっている。

1950年辺りから、女性の社会参加が盛んになり、男性に依存する女性像が少しずつ変わってきたことがこのシャンソンの背景にあるように思われる。

ともあれ、理屈抜きに可愛い歌なので、ネガティヴに捉えず、楽しんでいただければ幸いだ。

 

人の気も知らないで           Tu ne sais pas aimer

ダミア Damia

 

このシャンソンは、1931年のフランス映画 "Sola" で主演したダミアが挿入歌として歌ったものだ。

 

この映画のダミアの役どころは、シンガポールのカフェ・コンセールで歌っている落ちぶれた嘗ての大歌手だ。

若い男と恋に落ちるが、彼は愛し方を知らない。自分が思ったように愛してくれない。だから、「人の気も知らないで」という日本語の題名が付けられた。

 

この映画は戦前の日本で公開され、シャンソンも日本語歌詞が付けられて淡谷のり子が1938年に歌っている。

つまり、太平洋戦争を挟んで長く歌われた名曲と言える。

戦後、ダミアが来日した時も、もちろん歌われた。

 

ピエール・バルーの「サ・ヴァ、サ・ヴィアン」(2006年求龍堂)を読み始めた。その冒頭で、私が日頃行っているシャンソンの解説を肯定する文章を書いてくれているので、皆さまに紹介したい。

 

 

私は学者ではないので、自分の感じたことを詩で表すことしかできない。自分がどうやって歌を作っているのかも説明できないのだ。すべては歌の中にあり、解説などするものではないし、必要もないと思っている。

ところが外国の人に聴いてもらう時、翻訳によってフランス語の言葉や音楽性や韻や遊びの部分が失われてしまう。では、その喪失を補うものは何かと考えてみるのだが、私にできることは、歌を作った背景、私という人間を作ってくれた出会いや友情…… そんな話を語ることだけだ。

 

まさに私がこのライナーノーツで書いていることを肯定してくれているので、大変心強かった。

日本語歌詞のシャンソンを聴く人たちは、翻訳によってフランス語のニュアンスや韻、音楽との一体感、そしてエスプリやジョークの部分がほとんど伝わらないが、その歌ができた背景や作詞者・作曲者・歌手の心情などを知ることで、かなり理解は深まると思う。

そう信じてこれからもブログやライヴで解説を続けたいと思っている。

 

ジュテーム・モア・ノン・プリュ 

アナザー・ストーリー

 

セルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)は、音楽の前に美術を目指していた。サルヴァドール・ダリ(Salvador Dali)に弟子入りして、絵画を学んだ。

 

美術へのチャレンジが頓挫した後も、ゲンズブールのダリへの敬愛の念は変わらないままだった。

評伝によれば...

 

Quelques années auparavant, Gainsbourg avait déjà fait sienne une célèbre formule du peintre interrogé sur son rapport avec Pablo Picasso : « Picasso est espagnol, moi aussi ! Picasso est un génie, moi aussi ! Picasso est communiste, moi non plus ! ». 

 

何年か経って、ゲンズブールは、その画家(ダリ)の有名な絵を所蔵していて、彼にパブロ・ピカソとの関係について尋ねた。

答えは、「ピカソは、スペイン人だ、僕もだ。ピカソは天才だ、僕もだ。ピカソは共産主義者だ、でも僕は違う。」だった。

 

「ピカソは共産主義者だ、でも僕は違う。」の部分は、フランス語では、« Picasso est communiste, moi non plus ! » となるが、これはどこかで聞いた台詞だ。

そう、« Je t'aime... moi non plus ! » は、このダリの発言から引用したと言われている。

 

この事実がわかると、ゲンズブールがいかにダリをリスペクトしていたかが理解できる気がする。

 

出典; equinox magazine

 

 

 

 

 

 

 

ジュテーム・モワ・ノン・プリュ           Je t’aime... moi non plus 

セルジュ・ゲンズブール                  Serge Gainsbourg

セルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)は、1966年にブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)に、「想像できる限りの一番美しい愛のシャンソンを作って。」とお願いされます。

 

それで、彼は、Je t'aime... moi non plus Bonnie and Clyde の2曲を作りました。一晩で創作したと言われています。

Je t'aime... moi non plus は、伴奏をロンドンで、歌はパリでそれぞれ録音され、直ぐにラジオ(Europe1)でかけられたのですが、セックス中の会話を描くようなその歌詞にブリジットの旦那さんが激怒し、裁判所に差し止めの訴訟を起こします。それで、ラジオ放送はその1回限りとなり、レコードもリリースされませんでした。

 

「ドイツ人(ブリジットの旦那さん)は、洒落がわからないから。」と揶揄するフランス人もいますが、B.B.の夫がフランス人だったとしても、

 

tu va et tu viens entre mes reins

私の股の間をあなたは行ったり来たりする

et je te rejoins

私はあなたと再びひとつに結ばれる

 

なんてデュエットされたもんじゃぁ、誰だって訴訟を起こすのではないでしょうか?

 

名作を反故にされたセルジュは、収まりがつきません。

ブリジットと別れた後で映画で出逢ったジェーン・バーキン(Jane Birkin)にお願いして、全く同じ歌詞・曲で1969年に今度はリリースまで漕ぎつけました。

最初は洒落のわからない旦那さんに阻まれましたが(笑)、二度目では英国人モデルは快く承諾したわけです。これがフランス人の女優、例えばカトリーヌ・ドヌーヴだったら、ブリジット・バルドーの後釜みたいな扱いにはプライドが許さなかっただろうと思います。若い駆け出しの英国人娘・ジェーンだったから、上手く説得できたのだと思います。

 

特筆すべきなのは、セルジュは、この録音に際して、音程を1オクターブ上げていることです。高音が魅力のジェーンに合わせたのかもしれませんが、案外、別れたブリジットに対して、「お前に合わせて低いキーにしていたけど、本当はこうして高いキーの歌だったんだぞ。」と言いたかったのかもしれません。

ともかく、オクターブを上げたことにより、若い娘とオジサンがセックスしているようなエロティックな印象をリスナーに与えることになり、一部の国での放送禁止処分に繋がったのは、確かです。

 

古いパリの岸辺に

リュシエンヌ・ドリール 

 

このシャンソンは、1939年にリュシエンヌ・ドリールによって創唱(création)された。

Ralph Erwin が作った曲は、暗くもなく陽気でもなく、聴く人をセーヌの河岸に誘うような趣がある。

 

Louis Poterat の書いた歌詞は、以下の内容になる。

 

今日は日曜日だからどこか郊外にでも行こうかと思うけれど、やはり、私たち(恋人たち)が初めてデートした古いパリに残って、セーヌの岸辺を散歩するのがシンプルで心地よいのではないか。

 

古いパリとは、どのあたりを言うのか? それは、サンルイ島とその対岸(セーヌ右岸)の Quai des Célestins あたりを言っているのではないかと私は想像する。

パリで最も古いのはシテ島だが、ノートルダム大聖堂は、あまりにもモニュメンタルで、観光客も多く恋人たちが散策する場所としては相応しくないように思われる。

 

アニーとボンボン Les Sucettes

フランス・ギャル France Gall

 

この歌のタイトルは、フランス語で Les Sucettes だが、商品名で言えばチュッパチャップスのような棒付きのキャンディ(ボンボンと呼ばれる)のことである。

 

アニーという娘がそのボンボンを買って食べるという無邪気な可愛い歌というのが一つ目の表面上の意味だ。当時の若くてキュートなフランス・ギャルにピッタリなシャンソンと思えてしまう。

 

ところが、一つ忘れてはいけないのが、作詞したのがセルジュ・ゲンズブールだということだ。彼は一筋縄ではいかない。

この歌には、二つ目の隠された意味があって、このアニーがおしゃぶりする行為は、男性性器へのオーラル・セックス(フェラチオ)を彷彿させようとするものなのだ。「おしゃぶり大好き娘」なんて、エロ動画のタイトルになりそうで、かなり猥褻に聞こえてしまう。

 

フランス・ギャルは、歌っている時は、その裏の意味を知らなくて、後で知って非常に傷つき、二度とこの楽曲を唄うことはなかったと言う。

 

燃えるカリフォルニア La Californie

ジュリアン・クレール Julien Clerc

 

ジュリアン・クレールのレコード・デビューは1968年5月で、その頃彼はソルボンヌ大学の学生だった。ちょうど、あの五月革命が始まり、否応なしに彼は騒乱に巻き込まれることとなった。

それでも、その年(1968年)の秋には、彼はアダモの前座で歌い、翌年(1969年)にはオランピア劇場でジルベール・ベコーの前座となった。

あの、伝説と呼ばれるオランピアのミスター・ダイナマイト(ベコー)の前座歌手というのが当時どれだけ栄誉だったかは、私たちの想像を超えている。ジュリアン・クレールは、一躍名を成すことになった。

 

このシャンソン「燃えるカリフォルニア」は、ちょうどその年(1969年)の作品で、全米ツアーもしていないのにどうしてカリフォルニアをテーマにしたのか?とずっと不思議に思っていたが、最近思い当たることがあった。

 

実は、そのオランピア出演時に、大富豪のベルトラン・カステリと女性プロデューサーのアニー・ファルグーが楽屋を訪ねて来て、米国ミュージカルの「ヘアー」に主演で出ないかとの誘いがあったのだ。彼は、フランスでの公演については固辞したものの、ロンドン公演には出演している。

 

この「ヘアー」のことがあって、カリフォルニアをテーマに楽曲を書いたのではないかと想像している。

 

日本では、このシャンソンは、永田文夫が訳詞を書いて紹介したが、残念ながら私は日本語詞で歌われている場面に出くわしたことがない。