昨日、今日と良い天気が続いている。朝から、小春日和のような暖かさである。12月も下旬というのに、なんとも長閑なことである。数日ぶりに犬を散歩に連れて行く。立派な構えの家の前を通りかかると、そこの主人らしき人が、大きいな松の枝を屋敷うちに運び込む姿を見かけた。おそらく、門松用の松の枝ではないか、と思う。あの大きさなら随分立派な松飾りが出来ることだろうと思う。新年の準備が少しずつ進んでいるのだろう。
昨日は、犬も新年の準備ということで、散髪に行ってきた。2時間ほどして帰ってくると、ひどく上品な姿にカットしてあって、性格の悪さがすっかり覆い隠されたような有様であった。クリスマスバージョンのネッカチーフが首に結んであって、ちょっと「じゃりんこチエ」に出てくる、猫のようにも見えた。
甥っ子が、「舞子haaan」というDVDを借りてきた。評判の高かった映画ではなかったかと思うけれど、実際に見てみたら最悪に近いもので、途中で見るのをやめた。面白くしてやろうという意図が盛大に空回りしている風で、あざとい映画、という印象。現在売れっ子の某若手脚本家の作品ということだけれど。若い子は、こんな風なものを面白がるのかもしれないけれど。ただ、甥っ子も途中であきれ果てたふうであったから、そうでもないかもしれない。植木等が、最後に出た映画ということらしいが、それがこれではちょっと気の毒であった。
復刊版『俳句研究』の内容はどんなものなのか、興味があったのだけれど、某ブログ容によると、投稿中心の雑誌という。「投稿中心」と言っても、具体的にどのようなものになるのか、わからない。読者の自由な投稿を編集部で厳選して掲載、なんてことはあり得ないだろうから。別のブログによると、『俳句研究』とは違う別雑誌を石井編集長は考えているということもあるらしいし、そちらの方がそんな体裁になるのだろうか、などとも思ってみたりしている。きっと、色々な戦略を考えておられることなのだろう。最初のブログの方では、復刊『俳句研究』が高柳重信元編集長の名を汚すことがないようにと強い口調で提言していたけれど、高柳重信までは遡らないまでも、趣味的だったり、迎合的だったりするものとは一線を画してもらって、「研究」と言うその名前に相応しい俳句総合誌として停滞気味の俳壇に活を入れる一契機となり、牽引車となってくれることを願っている。
最初の某ブログについては、ちょっと読んでみると、俳句の国際化を強力に進めておられる中心的人物が運営しておられるようだ。俳句の前衛を自認し、今後の俳句は無季自由律という形でしか世界に通用しない、という事を主張しておられるようだ。たとえば、英語俳句だったら3行の短詩という形が定型だそうで、「五七五」の定型とそのリズムも「季語」も「切れ」も生かされないだろうから、無季自由律という形で俳句との整合性を図るほかないのかな、などとも思う。個人的には、無季自由律の俳句を否定するつもりはないし、俳句という大きな枠の中に有季定型俳句もあれば、無季自由律の俳句も含まれると考えている。その図式の中に、さらに無季自由律俳句が英語俳句なども含んでいるという形で全体の見取り図を作るのなら、英語俳句というものも(別に言語として英語だけに限定しないけれど)俳句の中に位置づけできるのか、などと思ったりもする。
さらに、ふと思ったのだけれど、英語川柳なんてものはありえないのだろうか。日本語以外の言語で、川柳(senryu、とか)を作っている人とか、団体などは世界にないのだろうか。英語俳句が、世界に定着するのなら、英語川柳だって十分存留しえるとおもうのだけれど。余計なことか。