本日、午後帰郷の予定。朝晴れていた空は、いまではもう厚い
雲に覆われている。
簡単に部屋の片づけをして、大掃除代わりとする。
『翔臨』第60号を読む。樋口由紀子氏の竹中宏論に異議を唱える形で、妹尾健氏の「草田男的なるもの」という評論が掲載されてあった。樋口氏の「複眼で明朗な世界観を持つ、オプティミストの容貌、それが竹中宏の俳句ではないか」という点について、昭和三十年代の竹中氏を知る同氏にとっては、どうしても「複眼で明朗でオプティミストといった評語は出てこない」とし、むしろ「俳句形式に対して達意であればあるほど孤立していく芸術家という印象」があり、「竹中俳句に対して安易な姿勢を持つのは禁物」とする。「孤立」という点については、巻末の「且翔且臨」の中で、竹中氏が表現の根底に「孤独」をおき、俳句表現も含め表現行為の動機もこの「孤独」に突き動かされるところにあり、その作に対する読者の共感も、作者自身の「孤独という事実を解除することはない」という認識に繋がるものがあるようには思う。雑駁な感想であるが、樋口氏と妹尾氏の両論を読み、妹尾氏が竹中氏の原点的部分に焦点を
当てつつ、論を展開しているのに対し、樋口氏はその営みの結果の現在に焦点を据えて論評しているように思われる。俳句形式に対して達意の作家である竹中氏が、その俳句形式となれ合う事なく、俳句形式のさらなる可能性を様々に追求しつつ、その孤独な営みの中で一貫して自己の姿勢を変えることなく、持続して(自己の)俳句世界を追究してきたその作家としての厳格さと強靱さに対して(言い換えると「孤立」の姿勢を保持し続けてきたその強い作家精神に対し)、その姿勢を保持し続けてきたその背後に、俳句形式に対する強い拘りとぎりぎりの地点での深い信頼が支えとして存在し、それが竹中俳句に「オプティミスト(苦痛はあっても絶望はしていない、という意味での)の容貌」をもたらす、としているのではないか、などと考えてしまう。両氏の意に反する勝手な読みと言うことになりそうだけれど、随分刺激的な内容の論評であった。
午後の電車で、帰郷。お土産に京都の美味しい漬け物をたくさん買って帰る。車中では、金聖響『ベートーヴェンの交響曲』を読む。指揮者としてみた九つの交響曲について、ちょっとマニアックな部分も含めたエッセイ。最初と最後に玉木正之氏との対談が掲載される。冬枯れの車窓を時折眺めつつ、読み続ける。面白い。ミューズで2度指揮をしていただいたけれど、若くて格好いい指揮者という表面的な印象の背後に、音楽に対する深い理解の姿を今回見ることが出来て良かったと思う。
土曜日。甥っ子は朝5時起きで、1番の特急で大阪へレッスンを受けに行く。家族皆が目を覚ます。