『鼎座』第9号のデータを印刷所に渡す。今週末には、ゲラ刷りが出来るとのこと。4月から、随分間が空いてしまったことだ。出来れば、第10号は今年中に出したいものと思う。すでに、歌仙は巻き終えているので、その点からも早く出したいと思う。
朝夕が涼しくなっている。日中は、日が射すところでは暑さを感じるけれど、日陰は結構涼しくて気持ちよい。ようやく、夏が過ぎたことを実感する。暑さにやられて、随分しんどい今年の夏だった。元々、夏という季節は嫌いではなかったのだが、今年のように歯止め知らずの暑さの中では、その季節を味わう余裕すら失われてしまう。やっと夏が終わって、ほっとするという感覚は、少々残念な思いを伴うものだった。朝、涼しいものだから、少し長めのコースを歩いて職場に通っている。横を川が流れるコースで、普段歩いている道より10分ほどよけいに時間がかかるのだが、それでも8時前には職場に着けるので、そちらの方を歩く。水の流れは、心を自然と鎮めてくれるもののようだ。少し速歩で、しかし水面を視野の一角に留めつつ、歩く。水の流離などと言うことを、考えたりしながら歩く。どれほど汚濁されようとも、ついには大きな循環の中で、大気に放散され、太陽の光を宙に反射する水の本体の姿、など思ってみたりする。数日前、夕空に見事な虹がかかり、翌朝の朝刊で写真とともに掲載されたことがあったけれど、そんな事も影響していたのだろうか。通勤途上では、いつもそんな風に取り留めないことを考えながら歩いているのだが、今日などはその典型的な状態だったのかもしれない。歩道から足を踏み外したり、自転車にブチあたったり、街路樹の枝に首を引っかけたりしないようにしなければ、と思う。
『尾崎放哉全句集』所載の「新資料作品」の中から、『層雲』の「京都俳談会」「大阪俳談会」の記事を読む。『層雲』掲載作品の合評会、というところであろうか。無季自由律俳句が、どのような観点から評価されているのか、そんな点について関心を抱きつつ、読む。思った以上に、随分繊細な鑑賞が為されている。あるいは、繊細な鑑賞が前提にされないと、相互に作品を理解することが困難なのではないか、という気すらちょっとする。詩作品に対する鑑賞という印象が、こちらとしては強い。言葉や独特のリズムについて、直接的にはわかりにくいのだけれど、放哉や他の会員のやりとりを読み、最後に付された井泉水の寸感を読むと、何となく感じるものはあるのだ。
昨夜も、眠いので8時くらいに寝室に引っ込んで、古今亭志ん生の落語をちょっとだけ聞こうと思って横になったら、そのまま寝入ってしまった。目を覚ましたら12時過ぎで、今更何かをするわけにもいかず、と思って、そのまま本格的に寝ることにする。その後は、1時間毎くらいに目を覚ましながらも、5時過ぎまで寝る。奇妙な夢を次々と見るけれど、起床時は随分すっきり状態であった。6時前に、朝風呂に入ったりして、完全に目を覚ます。