江戸摩呂日記 ~メディア千本ノック~ -4ページ目

新司法試験が招く悲惨な人々



東京新聞 2006年(平成18年)811日(金曜日) 5面 社説

「ロースクール 曲がり角の法学教育」


 新司法試験になってから最初の合格者がこの9月に出るらしい。実は、今回の合格者、合格率約50%という広い門をくぐれた幸運な人たちや。しかし、法科大学院の修了者が年々増えてくる今後は、合格率がどんどん下がってくることが確定してて、高い金と時間を使って法科大学院を出ても弁護士になれんかったゆー悲惨な人が少なからず出てくる。それについて触れた東京新聞の社説をとりあげたい。


「法科大学院、いわゆるロースクール第一期生の新司法試験合格者が九月に決まる。法学既習者として二年の短期コースを終えた受験者は二千人余、合格者は一千人前後とみられるので合格率ほぼ50%となる。

旧試験の3、4%とは段違いとはいえ、三年コースの修了者がどっと受験する来年は30%程度に下がりそうという。

(中略)

水準に達した人に法曹資格を与える制度を前提にした米国式ロースクールを、法曹資格認定に定員枠のある日本へ単純に導入したことに疑問はあった。だがそれ以上に、法科大学院の雨後のたけのこのような乱立にこそ無理があった。

(中略)

三年コースの結果が出る来年以降は相当数の法科大学院が淘汰されよう。幻想を振りまいた末に学生を幻滅させることがこれ以上ないより、経営側は早期に決断すべきだ。」


 東京新聞は、学生確保のため無節操にロースクールを設立した私立大学を非難したいようやが、責任は大学にあるわけではないと思う。ロースクール制度に立脚する新司法試験制度を創った法務省や司法修習を行う最高裁判所にも問題があるんやないやろか。

そもそも、司法制度改革で水準に達した人に法曹資格を与える米国式ロースクール制度を導入したのは、弁護士の数を増やして国民と司法の距離を縮め、まろたちの生活やビジネスの質を上げることが目的やったはずや。それなのに、新司法試験合格者の数を1千人前後に抑えてるゆーことがおかしいんやないか。一定水準以上を確保するとゆーなら、新司法試験で一定の点数に達したものみんなに法曹資格が与えられるゆーのが筋なはずや。司法制度改革の趣旨に反して、従来の定員制の司法試験の枠組みと司法修習制度を残した背景には、法曹の質の確保以上の思惑がありそうや。

合格者を1千人だけ出すんやなくて、せめて3~5千人くらいに増やすか、新司法試験で一定水準以上の得点者をみんな合格させて、かわいそうな人が増えんようにするべきやないやろか。


胡散臭い安倍ちゃんの『再チャレンジ』支援政策!?

東京新聞 2006年(平成18年)88日(火曜日) 特報

「『再チャレンジ』考 安倍氏乗り気 世間は…」

今日は、次期総理候補一番手の安倍晋三官房大臣が掲げる格差是正政策、「再チャレンジ」支援政策の上滑り感を指摘した東京新聞の記事をとりあげたい。

「九月の自民党総裁選に向け、頭一つ抜け出た感のある安倍晋三官房長官。その安倍氏が今春から掲げているのが『再チャレンジ』支援政策だ。小泉改革で顕在化した格差を固定させない政策だという。とはいえ、世間ではシラけたまなざしも。『“負け組”を生んだ構造は放置したまま』『この先もまだ走れっていうこと?』といった嘆き節も聞こえてくるのだが-。

(中略)

私は再挑戦しっぱなし

白髪の紳士然とした男性は『私も再チャレンジしっぱなし。もう六十七歳だから』と穏やかに話す。求人票には『年齢、性別問わず』と書いてあっても、実際には年齢がネックで面接すらままならないという。

『再チャレンジ』への感想は『理想ですね』と苦笑い。その一項目にある『七十歳まで働ける企業を。最終的に定年制のない社会を目指す』の記述には、思わず吹き出してしまった。

 あらためて、この『再チャレンジ』政策とは何なのか。安倍氏が『多様な機会が与えられ、何度でも再チャレンジが可能となる仕組みをつくる』と、各省庁の局長級を集めて『再チャレンジ推進会議』を設置したのが、ことし三月。中間報告直後の六月には、自民党の中堅・若手議員が『支援議員連盟』を立ち上げた。

中間報告は『働き方の複線化』『学び方の複線化』などを柱に、公務員の中途採用推進など新卒一括採用システムの見直しやパート労働者への社会保険適用、経営者への資金調達支援などをうたっている。

具体的目標は(1)二〇一〇年までにフリーターをピーク時(〇三年、二百十七万人)の八割にする(2)一五年までに女性の労働力人口を二十五万人増-などだ。」

 「働き方の複線化」「学び方の複線化」など前向きな標語と数値目標を掲げた「再チャレンジ」支援政策は耳障りがええ。しかし、記事にある老紳士がもらした苦笑が現実の厳しさと、この再チャレンジ支援政策の胡散臭さを物語ってる。なぜならば、「再チャレンジ」支援政策には、標語・目標数値と現実の間を埋める具体的な施策がないからや。新卒一括採用システムの見直しやパート労働者への社会保険適用、経営者への資金調達支援ゆーたって、それが直接的に高齢者雇用につながるわけではない。新卒一括採用システム見直しを実現するためのもう一段階ブレイクダウンした施策や、もっと大胆な施策が必要や。

 ホンマに再チャレンジを支援するゆーならば、お手軽な政策を組み合わせるだけやなくて、安倍ちゃんがにおわせとる憲法改正 に「年齢による差別の禁止」とゆー具体的な条項を盛り込むとか、「日本でもオランダ型のワークシェアリング をやる」とゆーてみせたらどうや。

 具体的な施策がない今の「再チャレンジ」支援政策は、安倍ちゃんが総理・総裁になるためにつくった構造改革批判逃れの絵空事にすぎんで。

東大卒キャリア官僚の減少を憂うるべきか?

週刊文春 2006年(平成18年)810日号

「霞ヶ関を東大生が見限る日」

今年は、農水省にキャリア官僚として東大生が入らんかったとゆーことで、メディアがちょっと騒いどる。統計を見てみると、農水省だけやなくて、中央省庁のキャリア官僚から東大出身者が顕著に減っているらしい。週刊文春の記事では、次のようにゆーとる。

 「『各省庁とも東大出身のキャリアの採用者が減っているし、入ってきても骨のある奴が減った。この“人材不足”は組織を支えていく上で今後問題になるかもしれない』

 東大法学部卒のある中央省庁幹部がそう嘆く。大蔵省(現財務省)や通産省(現経済産業省)、外務省など、中央省庁トップの事務次官はもとより、キャリア官僚は東大法学部出身者によって占められるというがこの国の常識。

 (中略)

 ところが最近、東大法学部の学生が中央官庁にいかなくなったという。

 (中略)

 これまで国家公務員Ⅰ種試験(国Ⅰ)採用、つまり中央省庁にキャリアとして就職した学生の一五%前後が東大法学部によって占められてきた。それが、この十五年間だんだん減少し、ついに今年は七・六%と半減してしまっているのがわかる。キャリアの採用数自体も減る傾向にあるが、それでも各省庁でピーク時の約半分しか東大法学部卒がいない。」

 90年代後半に続発した中央省庁の不祥事、超多忙かつ薄給とゆー待遇、外資系企業のブランド向上などが東大生のキャリア官僚離れの原因として挙げられとる。文春の記事はデータやインタビューを中心に主観を含めず冷静に書いとるようやが、「優秀で志ある若者が役人を目指さなくなった」ことを憂いてるよーなニュアンスを若干ながらまろは感じた。

 東大卒のキャリア官僚が減ったこと自体、そー憂うることではないやろ。役所も普通の会社並になったとゆーことや。国を担うのは役人だけではないんやし、逆に、ブランドやエリート志望を動機にしてくるしょーもない奴が減ってええんやないか。

仮に役人がダメになったとしても、それを民間がしっかり監視してカバーできるのが、普通の近代民主主義国家のはずや。日本がそーやないとゆーのならば、事情は違ってくるけどな・・・


弁護士のモラル低下、裁判での敗訴を招いているんとちゃうか?

日経新聞 2006(平成18)年724日(月曜日)インタビュー領空侵犯から

三宅伸吾「弁護過誤訴訟のすすめ」

 政治家、医師などと並んでセンセイと呼ばれる弁護士さん。合格率3%に満たない超難関の司法試験を突破した「法の番人」は、人権問題題から華々しい企業の合併・買収(M&A)戦略を練る頭脳プレーヤーとして各界で活躍している。そんな彼らの仕事ぶりの評価について”待った”を掛けた人がいる。生命倫理など医療分野の政策提言を行うシンクタンク科学技術文明研究所所長の米本昌平はんや。医療界に医療ミスがあるように、裁判でも落ちこぼれ弁護士やインチキ弁護士による弁護ミスがあるとゆー。この弁護過誤によって損害が生じた場合、弁護士を訴える訴訟をタブー視していては法のモラルが保たれない、と警鐘を鳴らしている。

 米本さんは、問題意識の出発点に弁護士に不可欠な職業倫理をあげている。

「弁護士は社会正義の実現という使命を担っています。だからこそ、救命・延命を目標とする医師や、魂のアドバイザーである聖職者などとともに特別の権限が与えられ、高い職業倫理が求められてきました。」

 弁護士のモラルの低下について米本さんの嘆きは続く。

「医療の世界では、医師のミスで患者が死亡したりする医療過誤事件が社会問題になっています。(中略)最近では、これを防ごうと医師同士の相互監視も働きつつあります」

と指摘するが、弁護士界の現状は目を覆うばかりだとゆー。

「弁護士が弁護活動で何らかのミスをして裁判で負けても、弁護士はその責任を裁判官のせいにして『(一審の裁判官には問題があったから)二審で頑張りましょう』です。どうも弁護士同士ではお互いのサービス内容の批判をしないようです。医療過誤裁判があるのだから、弁護過誤裁判がもっとあってもいいのではないでしょうか。米国では医療過誤と弁護過誤を使い分けていますが、日本で過誤と言えば医療過誤です。」

 見落としてはいけないのが、米本さんがモラルの低下の原因を行き過ぎた商業主義としたところだ。医療界は医療ミスの社会問題化というガイアツで、病院側に医師の手術件数などの情報公開を進め、患者側にも信頼できる医師と医療方針を求めてセカンドオピニオンをとる自衛策にも理解が得られつつあるように思う。それに比べて弁護士界では、問題があることすら表面化していない。例えば、万引の冤罪(えんざい)事件の弁護をある法律事務所に頼んだが、負けてしまった。その弁護士が過去に手掛けた裁判をよく調べたら、専門は離婚問題だと分かった・・・という具合や。総合病院で眼科の診察を受けたかった患者が、眼科医と偽った皮膚科医から診察を受けたため症状が悪化してしまったという、とんでもない話といえる。

 モラルの欠けた商業主義でもう一点。ライブドアや村上ファンド事件では経営者の犯罪が問われているが、いずれの会社にも監査役として弁護士がいたことも指摘したい。すべての経営陣の犯罪を見破ることは不可能だが、きな臭さを感じたら法的な問題点がないかどうか徹底的に調べ上げ、時に修正させるのが弁護士の存在意義やろう。法律事務所は法律の駆け込み寺だからこそ、弁護士は法律の番人に恥じない仕事をしてもらうのが筋や。

問われるのは「市場の質」でなくて、「銀行の質」や! ―みずほFGによるJAL株の販売の意味―

週刊ダイヤモンド 2006年(平成18年)729日号 プリズム

辻広雅文「市場の質」

経営危機の日本航空による最大2000億円の公募増資は失敗に終わったようや。6月の株主総会では何もいわんといきなりの巨額増資を図ったんやから、既存の株主はんからすれば騙まし討ちにあったようなもんや。結局1400億円しか資金が集まらんかったんも、その辺のJALのやらしさを懸念されたとゆー要素もあったんやろう。それにしても、株主はんに社債償還の金を借りて急場をしのごうとゆーJALの性根は卑しい。しかし、それ以上に卑しいのは、JALのメインバンク、みずほフィナンシャルグループや。その理由は下記のとおり。

 「経営危機の日本航空が最大二〇〇〇億円の公募増資を行う。みずほフィナンシャルグループをはじめ、大手金融機関は傘下銀行が巨額融資をしているにもかかわらず、同様の傘下証券会社が引き受け、販売する。銀行、証券間のファイアーウォールの存在をもって利益相反規定に触れない法的根拠とするのだろう。だが、この半年間の経済事件が提起したのは、法に触れなければいいのか、という問いである。ナショナルフラッグを救うためという目的は、手段を正当化しない。銀行の債権を放棄あるいは資本に転換してから引き受けるのが、筋であろう。」

 経営不振で潰れるかもしれん不良貸出先を、その企業の新株を売りさばくことによってなんとかもたそうゆー魂胆や。あるいは、引用文の前段で筆者の辻広はんがゆーたように、不良貸出先への融資を市場から回収しようゆー利益相反行為かもしれん。しかも、リスクを自分で負わずに(1円の追加融資もせんと)株主(市場)に負わそうゆーことや。ついでに売却の際の手数料もぎょうさんとっとるんやないんか。

国民の税金を貸してもろうて何とか存続し、ゼロ金利のうまみを吸って莫大な利益をあげてきた他力本願主義が転じて、とうとう融資先のリスクまで放り投げよった銀行のやり方には、あきれるしかない。引用文のタイトルは「市場の質」や。こないな銀行の利益相反行為を許してる金融マーケットの質も問われて然るべきかもしれんが、どっちかとゆーと「銀行の質」が重く問われるべきや。やってることは、堀江や村上よりエゲツないんやからな。


移転価格税制の適用急増の裏には国税庁のノルマ主義がある!?

読売新聞 2006年(平成18年)726日(水曜日) 11面 なるほど!経済

「税の海外流出防止 移転価格税制 相次ぐ巨額追徴 企業『異議あり』」

最近、国税庁と大手多国籍企業との間に緊張が走っとるらしい。なんでも移転価格税制ゆーのに引っかかって少ないところでも20億円以上、多いところでは570億円も追徴課税されるゆーことや。

移転価格税制ゆーのは、国内の企業が、商品を通常の取引価格より低い価格で海外の関連会社(子会社など)に輸出することで国内の所得を減らして、国内における納税額を減らすのを避ける仕組みを指す。図であらわすとこーや。

まー、いきなり大金を請求される企業にとってヒ~ヒ~言いたいくらい大変な話やし、その裏側には、国税庁のノルマ主義があると聞いたので、今日はこの話をとりあげたい。

とりあえず、移転価格税制にからんで、具体的には、次のような話になっとるらしい。

「この移転価格税制の適用が急増している。最近では武田薬品が6月、過去6年間の通常取引価格との差額分に当たる1223億円を申告漏れとされ、追徴税額は約570億円に上った。米医薬品会社と50%ずつ出資している米国の合弁会社に輸出している治療薬などについて、大阪国税局が『(輸出価格)通常より安く設定し、所得を海外に移転した』と認定したからだ。ソニーと子会社のソニー・コンピュータエンタテインメントも計約744億円の申告漏れ(追徴税額約279億円)を税務当局から指摘された。三菱商事と三井物産も49~50億円の申告漏れを指摘され、22億~25億円を追徴課税された。05事務年度(2005年7月~06年6月)の同税制に基づく申告漏れ総額は、過去最高だった04事務年度の2168億円を上回る見通しだ。」

この背景には、企業のグローバル化による社内取引の複雑化や「世界各国の税金の分捕り合戦」があるとされとる。企業側は、当局が算定基準の不明確さ利用して税金をとれるところからとっていると反発しとる。きっちりした事例等も事前に示さずにいきなり違反やから金よこせゆーのは言いがかりやし、2国間の租税条約を締結している国においても政府間協議が物別れに終わって、二重課税が発生しているケースも出始めている。いちゃもんつけられた日本企業にしてみたら、汗水たらして世界中でビジネスを展開している中、後ろから銃弾が飛んできて、振り向いてみたら、撃っていたのは日本政府だった、みたいな話しや。

最近の新聞報道は、少しは企業側の言い分も報道するようにはなってきたが、依然国税当局の垂れ流し報道が多いところは相変わらずやな。

「侘び寂び萌え」国家へ

日本経済新聞 2006年(平成18年)727日(木曜日) 夕刊

編集委員 柴崎信三「日本再発見 藤岡和賀夫さんに聞く 侘び寂び萌え次代へ」

ファッションや生活雑貨への「和モノ」の進出、「Always 『三丁目の夕日』」、アキバブームなど、まろたちの身の回りで、日本の伝統文化や独自の生活様式が見直されつつある風潮がある。そんな世相について語った、旧国鉄の観光キャンペーンやった「DISCOVER JAPAN」「いい日旅立ち」「モーレツからビューティフルへ」などのキャンペーンを手がけた広告プロデューサー、藤岡和賀夫はんの話を今日はとりあげたい。

藤岡はんは、国内外で評価されている日本人やその作品の共通項として「侘び寂び萌え」を挙げて、それをこー説明してる。

「『和太鼓などは海外で大変な人気で、一気に飛びついてくる感覚がある。ファッションの三宅一生や川久保玲は西欧ブランドを超えた評価を得た。建築家の安藤忠雄やアニメの宮崎駿だって、どちらかといえば海外からの評価が先んじて世界が共有する文化になった。オタクにだって伝統的に日本が育ててきた繊細で塾生した美感覚が生きているのでから〈侘び 寂び 萌え〉はグローバルな価値と結びつく要素を持っていますよ』」

 長い不況も何とか一段落、小泉の長期政権も9月で終了し、日本も次のモードにいこーとしとる。ここで、次の数年間、日本はどーゆー価値観や考え方にのっとって世界の荒波を渡っていくのかが問われようとしとるところやと思う。石油をはじめとした資源の逼迫、イスラム対西欧社会の対決の先鋭化、大国中国の台頭とギクシャクする東アジア諸国との関係、ずんずん進むアメリカとの一体化など、経済・防衛・文化に大きく影響する問題がぎょうさんある中で、日本と日本人は自分を見失わずにサバイバルせなあかん。そんな中で「侘び寂び萌え」とゆー伝統的かつグローバルに通用しとる価値を掲げて、それにそったモノや文化を創ってく国になるゆーのは悪い選択やないと思う。安倍晋三が本でゆー「美しい国」なんぞよりは、よっぽど保守本流の考え方やし、おもろい国になると思う。


身につまされる「ワーキングプア(働く貧困層)」

NHKスペシャル 2006年(平成18年)723日(日曜日)2100~ O.A.

「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」


江戸摩呂はテレビ批評もやったるで。その第一弾として、働いているのに生活保護水準ギリギリの生活を迫られている人たちの実情を紹介したNスペをとりあげたい。番組を見て、まろは恐怖と涙にくれたんやが、内容をNHKのHPにある解説から引用するとこんな感じや。

「働いても働いても豊かになれない。どんなに頑張っても報われない

今、日本では、『ワーキングプア』と呼ばれる働く貧困層が急激に拡大している。ワーキングプアとは、働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない人たちだ。生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1。400万世帯とも、それ以上とも言われている。

景気が回復したと言われる今、都会では住所不定無職の若者が急増。大学や高校を卒業してもなかなか定職に就けず、日雇いの仕事で命をつないでいる。正社員は狭き門で、今や3人に1人が非正規雇用で働いている。子供を抱える低所得世帯では、食べていくのが精一杯で、子どもの教育や将来に暗い影を落としている。

一方、地域経済全体が落ち込んでいる地方では、収入が少なくて税金を払えない人たちが急増。基幹産業の農業は厳しい価格競争に晒され、離農する人が後を絶たない。集落の存続すら危ぶまれている。高齢者世帯には、医療費や介護保険料の負担増が、さらに追い打ちをかけている。

憲法25条が保障する『人間らしく生きる最低限の権利』。それすら脅かされるワーキングプアの深刻な実態。番組では、都会や地方で生まれているワーキングプアの厳しい現実を見つめ、私たちがこれから目指す社会のあり方を模索する。」

以上の典型的な事例として、短期・単純労働しか仕事がなくて面接先に通う電車賃もない30過ぎの青年ホームレスの兄ちゃん、病気の妻を抱え年収が24万円しかない秋田角館の洋服屋の爺さん、7~8人の大家族いちご農家やが年収240万円くらいのおっさん、リストラ後に深夜のガソリンスタンドバイトを3件かけもって小学生の子供2人の面倒を一人でみているおっさん(妻は病死)、親に捨てられて施設で育ち自分も日々捨ててある雑誌を売って生活している兄ちゃん、がとりあげられとった。

中でもまろが泣けてきたのが、ガソリンスタンドかけもちバイトのおっさんや。年収は200万円代で生活はギリギリ。しかし、自分も大卒とゆーこともあって子供のことを思うと大学にいかせてやりたい。上の子供も塾へ行きたいとゆーてるが、今の自分の経済力では子供を塾に行かせるだけの力はない。子供にたいして申し訳ないし情けないとゆーて涙ぐむシーンにまろも心痛んだ。

ワーキングプアの人たちをどうするかという問題は、倫理的・心情的にはなんとかせなあかんと思うが、実際、今までみたいに国が金銭的に助けていくゆーのは難しくなってきたんで、本当に難しい。しかし、番組で関西学院大学の村尾教授 がゆーてたように、せめて公立の小学校・中学校・高校をしっかりしたモンにするとか、国や個人による奨学金制度の充実を図ったりして、ワーキングプアが世代を超えて引き継がれることにならんようにはすべきやと思う。

まろも結構ギリギリのラインにおるんで、身につまされる問題や。



ラクダに乗りたいんなら、鳥取砂丘で乗れや

朝日新聞(夕刊) 2006年(平成18年)719日(水曜日) 窓 論説委員室から

定森大治「ラクダに乗っているときか」

このあいだメンフィスで、プレスリーグラスをかけて、プレスリーナンバーを「熱唱」した我らが小泉首相。また、やってくれた。

「イスラエルによるレバノン攻撃が拡大している。いま、出張でアラブ首長国連邦(UAE)に来ているが、当地の新聞は新たな戦争が始まったかのように連日、大きな見出しで報じている。

そんなところに、なんとものんびりした写真に出くわした。中東歴訪でヨルダンを訪れた小泉首相が、世界遺産のぺトラ遺跡を見学したときのものだ。

サングラスをかけた首相がラクダにまたがったり、赤白の市松模様のアラブずきんをかぶったりしてはしゃいでいる。

近隣国の住民たちが戦火の下で逃げまどい、国際社会の外交が問われている最中である。わが首相ののんきな姿には強い違和感を抱かざるを得なかった」

小泉首相、やっぱりわかってない。コミュニケーションは、言語によるものと、そうでないものとがあって、姿かたちや立ち居振る舞いも、時として言語以上に雄弁にメッセージを発するのだということが、わかっていない。

百歩譲って、ブッシュ大統領とともにグレースハウスに行って、プレスリーに浸るの図を「見せる」のは、ブッシュ大統領との親密な仲、ひいては日米関係の良好さが、写真に投影されるという効果がある限り、まだ理解できる。

しかし、中東外交という重要なミッションをもった貴重な外遊の期間中、イスラエルのとなりのヨルダンで、それも至近のレバノンにイスラエルが攻勢を加えている真っ最中に、観光モードに入ってはいけない。「おいおい。よりによってこの時期に、中東地域の首脳との会談とラクダにのって世界遺産観光を満喫することが、このコイズミとかいう日本の首相には、同じレベルの問題なのかよ」と、彼の地の人々に受取られてしまうような振る舞いをしてはあかんやろ。


新聞紙上の1枚の写真が伝えるメッセージは、百万言にも匹敵する。このことを、今回、小泉首相は、実にマズイ形で立証してくれたのである。

「写真を見て、みんなで噴き出した」と地元記者に失笑されたり、「中東理解の低さや紛争調停力の無さが、見事に象徴された写真だった」とイラク人の学者さんにコメントされても、返す言葉がない。日本外交のトップの軽率さ、思慮の足りなさを、成り代わってお詫びしたい気分や。

小泉首相にゆーておく。外交は相手がどう認識するかが勝負なのだから、わが国外交のトップとして、軽率な振る舞いは慎むがよい。まちがっても、こりゃ物見遊山じゃないかと誤解されたり、真剣さを疑われるような姿を見せてはいけない。

どうしてもラクダに乗りたいときには、鳥取砂丘に行ってくれ。そこまでは、海外のメディアは追いかけてはこんやろ。また、どうしてもヨルダンの世界遺産が見たければ、議員引退後、一民間人として行ってくれ。もちろん、自腹でや。 


サイコパスと化す会社たち

朝日新聞 2006年(平成18年)623日(金曜日)

三者三論「村上ファンド・会社・市場」

北朝鮮のミサイル発射で、村上ファンド問題も少し沈静化しているかに見えるが、これから8月にかけてオリックスの宮内立件も検察の視野に入ったと噂されている。

この種の話題で決まって論じられているのが、「会社は誰のものか」や。多くのメディアは、この議題に対し、政界、経済界、有識者等を集め、果てしない議論を続けている。今日はまろも、この果てしない議論に参加しようと思う。

三者三論「村上ファンド・会社・市場」では、スタンフォード大学名誉教授の青木昌彦氏、東京大学助教授の佐藤俊樹氏が、「会社は誰のものか」について、意見を述べている。

 青木氏の認識は、以下のとおり。

「『会社とは何か、どうあるべきか』(中略)2つの考え方をめぐって延々と論争が続いてきた。1つは、会社は株主のものだから、経営者はその代理人として行動すべきだという考え。もう1つは株主だけでなく、従業員や地域コミュニティーなど様々なステークホルダー(利害関係人)から信託を受けた機関という考え方だ。(中略)日本でも昨年来、企業乗っ取りや、ファンドの役割をめぐって論争が起きている。(中略)技術や価値観が多様で複雑化した時代になると、企業の競争力にとって、建物・土地や機械などの「物的資産」より、目に見えない資産の方が一層重要な役割を果たす。」

一方、佐藤俊樹氏の認識は、以下のとおり。


「会社とは、本来誰の所有物でもない。株主のものでも、従業員のものでも、経営幹部のものでもない。誰の所有物でもないから法人なのであって、誰かのモノなら法人ではない。『米国では会社は株主のもの』といわれるが、米国の会社制度でも19世紀後半、株主の有限責任制を認める代わりに、株主のモノでなくした。だから、会社が大事故を起こしても、株主に賠償責任はない。(中略)バブル崩壊後、労働組合の力が低下し、金融機関も不良債権の処理に追われ、経営幹部への監視機能が弱まった。言わば経営幹部が『自分たちのモノ』にし始めていた。そこに、村上氏が『モノ言う株主』として登場した。ちょうど、『日本型経営』に自信喪失して、ムラみたいな会社にも疑問を感じていた。だから、共感をもって受け入れられた。でも、それは『会社は株主のモノ』だということではない。私達の生活は会社に支えられている。『この会社なら』と安心して、商品やサービスが買える。勤め先や投資先にもできる。おかしな会社を延命させる必要はないが、快適な生活にはまともな会社が続くことが欠かせない。」

 昨年末より、一部の映画館で上映されている、「ザ・コーポレーション」 というカナダの映画がある。普段よく目にする大企業が、営利を追求する余りに環境破壊や非人道的な行動をする姿を、ドキュメンタリー形式で綴った映画や。「ザ・コーポレーション」では、不祥事を起こす企業のことをサイコパスであると定義している。サイコパスとは、精神病質者のことであり、①極端に自己中心的である、②慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が無い、③冷淡で共感が無い、④自分の行動に責任が取れない、という特徴があるらしい。そのサイコパス企業の例として、2つの事例を紹介しようと思う。

まずは、ロイヤル・ダッチ・シェルの公害問題である。ロイヤル・ダッチ・シェルは、ナイジェリアで、エクソン・モービル、シェブロン、アジップといった国際的な石油メジャー企業と合弁事業を行っている。そこでは、環境汚染や劣悪な労働環境問題が発生していると共に、経済的還元が著しく少なく、地元では「搾取」の被害意識が根強い実情について述べとる。

もう1つは、インターフェイス社の環境への取組みである。世界最大のカーペット製造販売会社であるインターフェイス社のCEOレイ・アンダーソンは、自社製品が資源を搾取し、地球を痛めていたとは気づかないまま21年間事業を展開してきた。しかし1994年、環境保護主義が市民権を得てからは、社内に対策委員会を設け、世界中から委員を呼び寄せた。彼はポール・ホーケンの著作「サステナビリティ革命」の“誕生の死”という言葉に出会い、ウィルソンの“種の絶滅”という言葉と共に、今までの自分が侵略者であったことに気づく。具体的には、企業は、限りある自然から抽出・消費することで原料を得、人と地球との命綱を脅かしてきたというのだ。しかし、その原料は再生可能なものを何度も利用し、“持続”可能な道を探るべきだと彼は言っており、企業の社会的責任について検討を行っている。

以上の意見を踏まえ、「会社はだれのモノか」という点について、まろはどの様に考えているかをいいたい。

経済学的には、会社の存在理由は利潤の最大化であり、その利潤は最終的には株主に帰属する。但し、経済学的理論のみで「会社は株主のものである」との結論を出すには余りに性急やと思う。仮に、「会社は株主のものである」なら、利益を享受するだけではなく、それ相応のリスクを負う責任があるのではないか。しかし、株主責任は、出資額の範囲内で責任をとればよい有限責任であり、そのリスクは極めて限定的や。また、会社は、人に人格があるように法人格という独立した「人格」を形成しなければあかんはずや。ところが、現実は、「ザ・コーポレーション」が指摘するように、企業は資本主義を追求しすぎて、極端に自己中心的で、冷淡で自分の行動に責任が取れないサイコパスになっとる。法人格とは、法律上の権利と義務を有す主体と定義づけられている。ならば、法人格を有す会社は、人格を有する人と同様、社会との協調性を保ちつつ、責任のある行動をとるべきやないんか。