これは、自分のブログを一度でも読んだことのある人のためにあえて書くにいたる

◯ 自分の視点 自分の瞑想世界の捉え方

 知ってのとおり自分は自己紹介でもスピリチュアルは文に現すと膨大な数をしめ膨大な思想形態が星の数ほどあることは読者は知っていることとする
その上でよくよくありがちな 「あっ またこのパターンか?」 というくだらない言葉による精神的確執を極力避けるためあげたい項目が次のことだ
自分は、どこぞの誰かに「認定」されなければ精神的なことに関してのことは発言権はない といったような考えは一切ないということを言っておく

 自分のスタイルは、過去たくさん読んできた本や その本に関してわかる範囲で実践した修行 また人生経験を元に書いているまでのこと
今まで時分が接してきたたくさんの団体や知識、また精神修養でためになると思ったたくさんの本 また実際瞑想や修行を通して感じた気付きや人生におけるその反映
それらを通して自分でまとめあげた内容であり いかなる団体のものとも違うことを申しあげておきます。

 上をよく読んで頂いたうえで 簡単にいえば 本の知識や団体からえた知識 人から聞いた見聞などは 参考にはするが絶対とはせず瞑想世界の実践に使うまでです またそういった1個人の権利に基づいた見解であることを申し上げておきます。簡単にいえば 良いと思えるものは、どんどん吸収して瞑想世界を探検するというのが自分の基本スタイルです
なぜそうするようになったかは、以前からブログで挙げている通り他人から学べるものは学んだし

 団体などから得れるものは吸収したし もう人や団体に頼る年齢ではないからです。
後はこれを読んでください 政治・スピリチャル以外のことを考える自分でいたい
自分はこのアメブロを通して活動したい中核は、世間の意外な盲点の指摘である
それをスピリチュアル、政治、個人日記、社会問題、グルメ 様々な観点で指摘していくというのが目的である!



◯ 悟りの解釈を巡る問題

                「悟り」「解脱」

 自分は、悟りと解脱はある種全然違うものだと認識している 悟りとは理解認識して囚われからの開放ということで 文で解釈するなら「悟り」の中にも理解し固執していた思考から離脱してよりマクロ的視野でものを捉えるという意味あいがある
 また解脱という単語の中にも2種の意味あいが存在している 物事の本質を知り以前の解釈から離れよりマクロ的視点にたつというニュアンス(つまり上に似ている)と
もう一つが 内観の中で体感的に感覚的に、自分を構成している感覚概念を自然の事象の中に溶け込ませ、事象の表面上に浮き出ている我を消滅させるという意味である
さらにもちろんこれらが成されたとしても肉体が消滅するわけでもなく、また以前のようにこの世で活動はできるもので、スーパーマンにでもなるといったようなことはないとみている
 また一旦上のような悟りや解脱が成されたとしてもこの欲界で活動すればおのずと通常の意識は欲人に戻ることはあたりまえで どこまでも人の内面のソフトウェアの話しであることをいっておく。

超能力に関しては一切話すつもりはないので もしこれに関する内容はチャクラの項を参考ください

古代原始仏教では女性が僧になることは許されていなかった、それは何も性的なことではなく思考アルゴリズムの問題だと現代では表現することができる


           「思索哲学的瞑想」 と 「タントリズム系の瞑想」

「思索哲学的瞑想」
 ここでさらによくよく発生するのは、思索系の悟りと 体感タントリズム系の悟りについての混同である
ちょっと冗談をいうと よく田舎の電子部品の工場では「混入!混入」とおばさんが騒ぎたてたりするが 冗談はさておいて、この点を不思議に思い 1度も悩まないやつはおそらく瞑想世界を真剣に考えていないのだろうと思われる。
 自分の場合 思索系つまり精神現象も含め、現象世界の本質的哲学視点をより深く認識しようとする思索系の瞑想とは、禅とかラージャ・ヨーガに代表される
「自分とは何であるか?」という前提をもとに、この現象世界や自分の内面を内観していくことだととらえている。
 もちろんそこには、すいも甘いも辛いも全て含めての人生上の体験や教訓 また気付きなども否応なしに解読しより深くこの世と自分のあり方を問うことになるであろうことは予測される。その場合にもちろん とりかかりは禅にみられる数息観やまたラージャ・ヨーガでマントラを唱えたり、密教では5智の教えをしたり月輪観をしたりと・・・
 とりかかりとその後、何が展開されるかは、人それぞれの部分もあるだろう
ただ大方これら自分がいうところの1つは、「思索哲学系」 といえると解釈するのである
もっと大胆に極端な言い回しをするなら この思索系というのは何も瞑想や宗教などやらなくても 人生真面目に生きていればおのずとわかる人生論的悟りに比較的近いと
自分は思うのは、例えば会社というものを経営すれば誰でも人間学的総合的な視点が開かれると思うし、男子たる者どんな人も50にもなれば
我が人生いかなるものか? という世界や宇宙と自分の存在の関わりが明瞭にみえてくるものである
そういった認識力の主体がこの「思索哲学的瞑想」の役割だと考えられるのである もちろんこの「思索哲学的瞑想」も最終目標は、一旦 悟りと言われる自分を超越した状態を経験して また何気ない日々の平凡な日常に新たな視点で戻り菩薩として暮らしていくことにあると思うが これらの形態は、悟りや気付きに視点をおいていると言う点である
それは自分がここであげなくても 禅問答にみられる視点は、気付きや悟りである 最終的にはそれはタントリズムとも合致するのだがそれはあくまで最終段階である
また「悟り」という段階では おそらく次にあげるタントリズム系とはまず関係無しと捉えておいて良いと思われる 超厳密にはそんなことないのであるが・・・
悟りという視点だけをみれば そもそも瞑想やヨガなど補助的なものでしかなく あらゆる聖者がいっているように複雑な人間社会でもまれる方が早い場合もある
といえるだろう

「タントリズム系の瞑想」
 これはクンダリニー・ヨーガに代表される瞑想や気功に分類される瞑想法を示している 自分は過去徹底して自分で思うところのクンダリニー・ヨーガを研究し自己流でやりまくり行き着くとこまでいってしまい過去において大変な苦労をした。今はこれで得たものは極力つかわないように瞑想している つまり経験上 これは個人的には、あまりお勧めしない 非常に危険だと認識している やっている間はわからないのである。また気功はどういったものか?というのは自分がここで語らなくても 今どきネットにはたくさんの情報があるためここでは割愛する
つまるところ超極論を言えば タントリズムの世界は基本的には、内観のエネルギー的世界だと認識している(厳密にはそうはいえない)


<まとめ>
つまり自分がいいたいのは、この上の2者を混同して捉えてもらっては困るということである これは自分の見聞だがおそらくこの2者をものの見事に1点の曇りなく調和して 捉えられるのは真言密教だと思っている だからといって自分が真言密教のどこかの宗派に属しているのではないのであしからず
ここで自分がいいたいのは、この2者をごちゃまぜに考えるステップは自分は遠い昔卒業しているといいたいまでである
一見 自分のブログは極端な表現を使っているが この辺りのことへの認識はあるのでどうかご理解して頂きたいと思う次第である


◯ 1を聞いて10を知る男性思考が基本

 例えば 自分は政治論評のブログで過去チャンネル桜の討論で聞いた 「 現在において 共産主義者=グローバリスト 」 を挙げて このようなことがわからないものに政治を語る資格は無い!といった
 この共産主義者=グローバリストというのは、馬渕大使をはじめチャンネル桜にでてくる ほとんどの保守の重鎮はみんな知っていることである
このようなことを冷静に解析できるのは、やはりなんといっても男性に多い それはそもそも脳の思考アルゴリズムがそのような解析に向いているのである
ここで大事なのは、男性と女性の脳の思考アルゴリズムが分析できないような者は 同じく瞑想世界も論じる資格はないのである!
 真言密教でいうところの五智に妙観察智という智があるが やはり物事の立体的本質構造を瞬時に理解し その違いを明確に推察できる力は男性が得意である
よって世界で名高い哲学者は ほとんど男である また悟りをひたいたとされる人もほとんどが男である
これはもって生まれた宿命で男は絶えず全体的視野を視点に物事を秩序立て解析する能力が優れ 女は五智でいうところの大円境地や平等性智に優れている
つまり これも形であり 到底言葉で表現できるものではない
 ただ自分は、個人的自我の社会人として また男として ブログを1を聞いて10を知る男性に向け書いている 基本そうだということだ
1を聞いて10を知る見聞をもちながら女を堕落させている現代の男にメスを活をいれたいのである。これらの文の本質を理解できる男性にとくに申し上げたいのは、自分は金さえあれば「男子の尊厳復興を目指す会」なるものを立ち上げ活動したいくらいである。これらの文が”深く”理解認識できる男性は、女に徹底して哲学をおしえよ!といわねばならない
女が社会の主導相にはびこりはじめたら日本は終わりである。日本男児はこの点も目覚めなければいけない どこまでも形の違いを認識しなければならないと思う次第だ


◯ チャクラについて

 チャクラは人により発達過程がまばらであり 最終的には一概にどれがどうということはできない
ウパニシャッド哲学やヴェーダ並びにヨーガ世界において その精神修養には必ずチャクラなる霊的中枢が出現してくるが これの説明はそんな簡単にできるものではないと自分は考える
自分はかつて1つ1つのチャクラを瞑想世界で徹底して研究観察したが、最終的には、単純な言葉で明確に規定できるものでないことを理解するにいたった
よって自分は精神論を語る時は 極力占いとチャクラの話しは避けて説明するが やはりどうしてもヨーガの見識がある人には 人間の性質を簡単に説明できることも有りこのチャクラの視点を説明に使ってしまうことがある しかしここで注意しないといけないのは チャクラの活動は、もって生まれたその人の個性とも密接に関係しているし
発達の仕方も非常にまばらで これをやったら正解というものなど 存在しない この霊的中枢なるものは書いて文字の如く瞑想が進み自分でチャクラを共振させることは可能であるがそれが良い結果をもたらすとは決して言えないのである またこれら霊的中枢はバランスを間違えるととんでもないことに至る可能性さえある
さらにさまざまな要因で自分は、瞑想修行においてチャクラは、均等がとれる範囲で自分に足りないと思えるチャクラをほんのちょっと快活にしてやるぐらいが丁度良いと考えている
またどこまでも人それぞれで このチャクラの働き具合をあまり霊的向上やレベルと結びつけないほうがいいと思うまでだ 果たしてこれらチャクラというものは、非常に相対的である
まして人間性の道徳心向上とはなんの関係も無いことはどの本にも書いてあることである


◯ IT社会について

 IT社会になり もはや数えきれないほどのHP並びにブログやSNSなどが存在している しかし日本のネットユーザーを考える時ブログやSNSやで活動する人はどれくらいだろうか?
ここに1つ誰でも感じる問題がある。これら自分を現す仮の名称でいくらでもブログやSNSを使うことができるということは 下手すればこれらの仮想世界で出会う人がリアル世界のご近所さん
であったり また以前違うSNSで会話をした人であったりすることも考えられることになる。
 まぁほとんどはそのような場合メッセージで確認すれば済むことであるが・・・
 でも場合により 思い込みが激しい人で ブログなどで発現していることが過去のネット上の人物と重なって疑いはじめ やがて何かの単語や語句で、他のブログやSNSあるいはバーチャル空間上でかつて知人であったまさにその人と決定的に思い込んでしまうことがあるようだ。
 この点に関して自分は、自分もどちらかと言えば疑い深い性格ということもあり 多少はその気持ちはわかるが ものには限度といものをわきまえていない人もいるようだ
こういった思い込みの激しい人との会話は 過去ネット上で何度か経験している 最初から決めつけている場合がほとんどである。
 政治系のSNSでもこういったことが多いのは誰でも知っているだろう そもそも政治とはレッテル貼りという側面は未だにあることだ
 しかし自分は、例え疑い深い性格でも 人が言うことは漏らさず聞くことにしている、ほとんどの場合が誤解でありわかってみるとくだらない勘違いが多い
つまりこういった仮想世界だからこそ 人が話したことはとりあえず ちゃんと聞く!という姿勢が重要なのである 人が話したことを一切無視して固定イメージでどこまでも疑うのは小学生と同じで大人がやることではない。
 またこれだけ多くの人がブログを書いているのである 似たような内容や似たような語句はでてきてあたりまえである 自分はいつもそのことをわきまえ人のブログを読んでいる
いずれにしても思い込みの激しさとは いずれ老人ボケに現れさらに輪をかけて周りを巻き込むことは目にみえている 社会悪とさえいえるものだ。
思い込みの激しい人は、その自分の思い込みの激しい部分が何に起因しているか?それこそ瞑想世界で追求するのがいいだろう

◯ 仮想世界の師匠と弟子

 自分は そんなつもりは全くないのだが ネット上の知人からネット上で精神世界の弟子にしてくれと3回言われたことがある
この場合 本来全く意味のないことだとその都度思うのであるが 多少でも自分が力になれればと思いその都度ネット上で受けたことがある
 しかしいつも思うのは あまりにもレベルが低くて話しにならない 特に言語でとらえた情報をイメージ的に処理し、真意は何をいっているのか?という部分である 
当然ながら今まで自分が教えようとした真意を理解できた人は一人もいない
リアル世界でも!だ かつで知人にいたが自分のいっていることが難しくて理解できないと逃げいていった
 そればかりではない 瞑想とかヨガとかいう以前の問題でまず一人の社会人として 脳が完全に弱っているのである 全員そうである
そもそも 仮想世界で精神世界の弟子にしてくれというのが そもそも判断力を問われるとこである
 例えば昔、ドコモのimodeが流行りはじめたころよくあったことだが、友達でも恋人でも メールのやりとりが逆に破綻をもたらした! というようなことが認識できるかどうかである
文字の世界は 表情やタイミングまた声のトーンまたその他もろもろの様相や感触が伝わらないために 文だけがダイレクトに決定事項であるかのように響いてしまうのである
このようなことを 徹底的にいつも意識できる人のみがこのネットという仮想世界の師匠と弟子として成立するかもしれないと思うから 今までは受けてきた
でも今の日本人の意識や脳は、かなり弱っているとわかる次第だ
 この「仮想世界の師匠と弟子」など書くつもりもないし 弟子をとるなどという気も全く無いに等しい そんなことは全く考えていないにも関わらす 過去3度もネット上の「精神世界の師匠になってくれ」と言われ 3回ともほとんど何も伝えられずに終わった悲しい経験がある
以後同じようなことを言われないとも限らないと思い これを書いたまでである


 以上は自分が現在ネット上で精神世界を語る上でわかって頂きたい内容だ もちろんこれだけではなくまだあるが一応ポイントとなる点をあげておくとする