標準化という非人間的システム 

最近読んだDark Horse「好きなことだけで生きる人」が成功する時代(トッド・ローズ、オギ・オーガス著)という本に、標準化された社会システムに関する次のような記述があります。

 

最初に我々は「働き方」を標準化し、次に「学び方」を標準化した。その後、標準化された職場と教育システムとを統合し、標準化された出世の道を樹立した。こうして、幼稚園の門を初めてくぐる日から定年退職の朝まで、我々が通過する道のりのすべて、つまり人間の一生の全てが標準化されてしまった。

 

この見解は現代社会の抱えている問題の本質を捉えていると思います。働き方の標準化とは、テイラーが提唱した科学的管理法のような考え方のことです。Wikipediaによると

 

科学的管理法は以下の3つの要素からなる。

  • 課業管理
  • 作業の標準化(作業の研究)
  • 作業管理のために最適な組織形態

課業管理

課業の概念が科学的管理法の中核を成している。その原理は、次の五つである。

課業の設定

諸条件と用具等の標準化

成功報酬

不成功減収

最高難易度の課業

 

作業の標準化

作業の標準化は時間研究と動作研究の2つからなる。

 

作業管理のために最適な組織形態

生産計画を現場から分離し、計画立案と管理の専任部署を作った

 

このような標準化の考え方は、ほとんど全ての企業で受け入れられ、実施されていると思われます。このような標準化は効率的だし、会社の利益率を上げるのに役立つでしょう。

 

しかし、標準化は労働者の個性を無視しています。労働者は、会社が決めたルールに従って、会社が決めた働き方に基づいて労働することを求められます。標準化とは、本質的に労働者個別の事情を無視あるいは軽視するものです。

 

学び方の標準化はさらに徹底されてたように感じます。同一のカリキュラムに従い、一律の教え方によって、全員同じペースで学ぶことを強いられます。ついていけない生徒は落伍者だとか、問題児だとか、あるいは障害を持っている、などと判断されます。

 

学びの場においても、児童生徒の個性の相違は考慮されず、いわば標準化されています。分数の計算が苦手な子供がいたとして、(例えばその子供が視覚に基づいて物事を考えるタイプーvisual thinkerーだとしたら)その子供に適した別の教え方をしよう、とは考えないのです。誰に対しても標準化された、同じカリキュラム、同じペースで進めることになっています。

 

そして、学校と会社は標準化の考え方で連結されています。

 

私のこれまでの人生を振り返ると、まさにこの標準化された出世への道を辿ってきたように感じます。私の通った中学高校は私立の6年間一貫教育という受験校だったのでなおさらです。学校の先生方は皆、「(偏差値の高い)有名大学に合格することが生徒の幸せに繋がる」と信じており、ことあるごとに、そう言われて育ちました。

 

私はこのような考え方に多少の疑問を感じつつも、そんなものだと思って、大学合格を目指して勉強しました。けれども、大学に合格した後のことなど全く考えていませんでした。幸いにして希望していた大学に合格しましたが、合格が目的だったので、大学で何を勉強するべきか、何を勉強したいのか、といった目的意識はありません。最小の労力で卒業だけ考えてたような気がします。全く情けない話ですが、私と似たような学生は結構多かったように思います。

 

学校と会社は標準化の考え方で連結されているので、会社は学生の学歴によって採用を判断します。もちろん学歴だけで決めるわけではありませんが、やはり重要視します。

 

社会が標準化されていることの問題点は何でしょうか?まず第一に、学校教育が標準化されていることで、その方式に馴染めない子供が人生の早い段階で社会システムから弾かれてしまいます。

また、有名大学の入学者数には定員があるので、入学を希望しても合格できない生徒が多数発生することになります。運よく会社に入っても、標準化された働き方に馴染めないとか、家庭の個別の事情が考慮されないとか、精神に異常を来すほど残業が多いとか、様々な(働き方の標準化による)弊害が生じます。

 

世間では、働き方改革とか、ダイバーシティとか、お題目を掲げて何とかこの問題に対処しようとしていますが、どれも対処療法のような気がします。問題の本質は、働き方を標準化していることにあるのです。ここを見直す必要があるのではないでしょうか。

 

冒頭紹介した「Dark Horse」では標準化されたシステムを変革すべきであり、現代ならば可能であると記載しています。最近、SDGsが叫ばれたり、働き方改革が盛んに言われているのも、現代が標準化から個性重視化へ変革しつつあるからでしょうか。

 

戦後、焼け野原から出発せざるを得なかった日本は、経済発展が、効率が何より重要でした。個人の個性などに配慮する余裕などなかったでしょう。個人別の細かい教育指導など、やりたくても人的資源や予算に制約があってできなかったはずです。

 

しかし、時代は変わりました。インターネットやスマホ、ChatGPTなどのテクノロジーのおかげで、かつては不可能だったことが、今や可能になりつつあります。今ならこれらのテクノロジーをうまく組み合わせることで、ある程度、個々人の個性に合わせた教育を提供できるのではないでしょうか。

 

企業に関しても同様です。IT技術を活用することで、かつてはできなかった働き方の多様化が、今なら出来るのではないでしょうか。

 

もし、我々がそのような時代の転換期にいるのなら、何よりも、まず我々自身の考え方を変革する必要があります。これまでの価値観を疑い、制度を疑い、過去にとらわれない生き方へ、過去ではなく未来を見つめた生き方へ、考え方や行動を変革する時期に来ているのかもしれませんね。