17(金) 00:53:20.46ID:N+LQPWE6
今日から三日間は、SHOGO HAMADAチャリティ3DAYSですヨ(=^◇^=)
浜田省吾が中心となって設立した団体”J.S. Foundation”に
ぜひぜひぜひ強力に協力していただければ…
浜田省吾本人も感慨深いものが押し寄せるのではないかな???
と思う次第でありますヨ(=^◇^=)
http://www.js-foundation.com/
1990(平成二)年11月17日(土) 駒澤大学記念講堂
1988(昭和63)年11月18日(金) MZA有明 ※同年、東京臨海副都心に
1988(昭和63)年11月19日(土) MZA有明 に誕生したイベント施設だが…
http://fansite405x3.web.fc2.com/live901117.htm
http://www5f.biglobe.ne.jp/~roadscraps/tokubetu.html
http://www.flashandshadow.com/shogo/discography/pr/pr71.html
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14135849134
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q108554170
http://www.geocities.jp/maharajastory/26mza.html
■https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/musicjm/1509808187/l50
363 :NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 08:24:13.87 ID:AlV5/Jx8
チャリティーライブなんてね。
24時間テレビの24時間マラソンランナーに支払われるギャラが1000万が相場だからね。
欽ちゃんの最高が2000らしいし。
あんなのチャリティーではない。
ミュージシャンがノーギャラで演奏するわけがない。
経費人件費を差し引いての寄付さ。
364 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 08:31:47.22 ID:0Feg9o9K
>>363
以前から経費引いた残りを寄付だってちゃんと言ってるじゃない
何をいまさら
365 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 08:31:56.43 ID:nO9sJES0
>>363
それでいいやん。
366 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 08:51:16.10 ID:AlV5/Jx8
>>365
公表しないであたかも無料で走ってると思わせてるのが悪どいってこと。
おれは親の周りに聞いてもらったら、全員、タダで走ってると思って立ってさ。
ノーギャラとは言ってないっていう理屈だろうが、こういうのが悪質。
その経費ってのに決まりはない。
つまり省吾のギャラを収益の70%を経費にしても違法ではないということ。
厳密には、、、募金は20%は経費にしていいという法律がある。
募金はビジネスなのさ。ただJSFは経費すらとってないがね。
そして募金団体の理事は天下り。もう腐ってるよ。システムが。
377 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 11:02:40.50 ID:UoGf6q0b
>>366
省吾やミュージシャンはノーギャラじゃないのかな?
そんな日本ユニセフや24時間TVみたいなことはしてないと思うけどなあ。
まあもしそうだったとしてもせぬ膳よりもする偽善とも言うし
結果として困ってる人にちゃんとそれなりの寄付されてるなら
偽善の効果てことで考えてもいいんじゃね?
378 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 11:15:54.56 ID:UoGf6q0b
>>366
まあそうは言ってもチャリティ特別販売と称して
ふる~い売れ残りのグッズを在庫処分するのはどうかとは
おれも疑問に感じるところではあるけどね。
ま、でもそれも含めて許容範囲と思う事にしようよ。
要は困ってる人達がそれで潤ったかどうかなんだからさ。
379 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 11:27:19.14 ID:JJv7lDPt
JSFは収支報告も公開してるしね
381 : NO MUSIC NO NAME
2016/12/17(土) 11:42:16.33 ID:UoGf6q0b
日本ユニセフや24時間テレビの場合は
なんの対価もなしで自分の善意をまるっと寄付するわけだから
その丸々の善意で儲ける奴がいるってことには腹立つだろうけど
省吾のチャリティの場合はライブ楽しかったなあとか
以前買えなかったグッズ手に入れて嬉しいとかってゆう
自分が支払った金額分の対価を受け取っちゃうしね俺たちは。
厳密にゆうなら俺たちが支払ったお金は寄付でもないし
善意でもなんでもなくてただ自分の楽しみや趣味や所有なんてゆう
生存にはなんの関係もない欲求を満たすために使っただけのお金だからね。
それをチャリティコンサートに支払った俺の善意で
主催者は不当に設けている!なんて言い出す人間のほうが
どっちかってゆうと偽善者だと俺は思うけどね。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1481647464/
一昨日から三日間はボランティアの日!三日目(最終日)ですヨ(=^◇^=)
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ ROADandSKY vol.014 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛W.K.MONOLOGUE
‡1985(昭和60)年11月19日(火)くもり 昼12時半に羽田に集合。メンバーも次々に大きなバックを抱えてあらわれる。15時頃会場の富山市公会堂に到着。古いホールで天候のせいもあって薄暗い楽屋。メンバーも一緒だ。ヒューイルイスのコンサートの争奪戦が、あみだで行われている。町支は風邪気味の様子で、いつもの元気がない。人間の熱気か或いは暖房のせいかコンサート本番中は、館内がとても乾燥していた。ステージで、機材の片付けに走り回っているスタッフ達の間を縫って用意された車に乗り込む。金沢まで一時間弱の道程の間に、今日のコンサートの内容について話し合う。ホテルでシャワーを浴びた後、高橋と遅い食事に出かける。サイレント・ナイト。(FMレコパル編集部からのアンケートより)。ある雑誌の記事で、"日本ではチャリティに参加するミュージシャンは良いミュージシャン、そうでない人は悪いミュージシャンといった見方がある。"というようなことが書かれていたが、その逆でむしろ日本では、"参加しないミュージシャンは考えが深く、参加している人は何も考えていない楽観主義者"といったような考え方があるような気がする。そんな中で"Sun City"における"我々には政治を動かすことは出来ないかもしれないけれど少なくとも南アフリカ共和国では演奏しないぞ!"という歌詞はとても共感できた。素直に素晴らしいと言いたい。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ ROAD&SKY vol.032 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛I MYSELF SAW IT
‡1988(昭和63)年11月19日(土)はれ 昨日と違っていい天気になった。事務所の新川に迎えにきてもらい湾岸道路でMZAへ。昨日は強力に寒くてその上雨まで降ったので来てくれた人達にはちょっと可哀想だったけれど…。こんなスペースの会場でやったことも最近ないので昨日は今ひとつ雰囲気をつかみきれなかった様な感じもしたので、今日は自分なりにその辺りを意識してやってみた。昨日より近づいた感じはあったと思う。そういえば、開場前に山下達郎君がいきなり現われる。隣のスタジオに来たついでにのぞいてみたとのこと。結局そのままアンコール最後まで観ていってくれた。昨日はNOBODYの相沢さんも来てくれたし…。そして今日は招待していた留学生の連中が終わってからあいさつに訪れる。ロック・コンサートは初めてという人が多かったけれど、楽しんでくれたみたいで良かった。二日間とりあえず無事に終わり、ちょっと疲れてグッタリだったけれど、水谷公生さん達と恵比寿へ食事に行く。もっとも途中で寝たくなって先に帰ってしまったのだけれども…。明日からは一週間ばかしのオフ。
①https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber014.html
②https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber032.html
┏━━━━━━━━━━━┓
┃ 浜田省吾vs佐野元春 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
2016(平成28)年03月25日(金)
今から35年ほど前に豪華な組み合わせのジョイントライブが、大学の講堂でひっそりと行われました。その時の模様を覚えている範囲でお伝えしようと思います。
++++++++++++++++++++++++++++++++
今では考えられないというか、おそらく実現は不可能であろうという組み合わせのコンサートが、
‡1981(昭和56)年11月19日(木)に国立市の一橋大学兼松講堂で行われた。当時のチラシ(フライヤーという呼び方はまだ無かった)には「浜田省吾&Fuse(Theが抜けているところはご愛嬌)vs佐野元春&&The Heartland」」と書かれていた。チケット代金は前売り¥2,000、当日¥2,300という、今では考えられないような値段であった。浜田省吾も佐野元春もまだブレイクする前の時代。浜田省吾はアルバム「愛の世代の前に」をこの年の9月に発表、佐野元春は2ndアルバム「ハートビートを2月に発表した頃だった。両者とも注目度は上がって来ていたが、まだ時代が彼らに追いついて来ていなかった。浜田省吾と佐野元春という音楽性は違えど、ある意味近しいジャンルのミュージシャン同士、しかもレコード会社もCBSソニー(当時)とEPICソニーという、同じソニーであってライバルのような存在。当人同士はそんなことはなかったのかもしれないが、当日は何だか異様なピリピリムード。そんな状況の中でのライブが始まった。ぼくは佐野さんもバンドのハートランドのメンバーもよく知っていたので、扉一枚で仕切られた隣り合ったお互いの控え室を行き来したりして、ハートランドの伊藤銀次さんやキーボードの西本明くんと談笑したりしていたが、双方のスタッフの間では緊張感が漂っていた(ように感じた)。そんな何とも言えない雰囲気の中でのライブは始まった。まずは佐野元春のステージから。一曲目の「ハートランドのテーマ」から始まった佐野元春のステージは、非常にアグレッシブで素晴らしかった。赤いストラトキャスターを持っている姿がすごく格好良くて、ちょっとエルビス・コステロにも似ていて、スタイリッシュでエネルギッシュだった。ぼくも客席や舞台袖で観戦していたのだが、次に出番が控えているのも忘れるほど、佐野さんのステージに熱中した。ぼくは佐野さんがこの年にリリースした二枚のシングル「SOMEDAY」と「ダウンタウン・ボーイ」を買って持っていて、とてもお気に入りのナンバーだったので、二曲ともやってくれたらいいな、と期待しながら観ていた。たしか二曲とも披露してくれたと記憶している。そして何分かの休憩を挟んで浜田省吾のステージ。割れんばかりの省吾コールの中、浜田省吾&The Fuseが登場すると客席が一気にスパークした。佐野さんのステージで熱を帯びていた観客のボルテージは最高潮に達した。翌年<11982(昭和57)年>に日本武道館でのコンサートが決まっていたこともあって、非常にテンションの高いエンジン全開のパフォーマンスを展開した。お互い一時間ぐらいの持ち時間だったと思うが、佐野さんも浜田さんも渾身の素晴らしいライブだった。残念なことに両者が共演するシーンはなかったが、とにもかくにもピリピリムードのジョイントライブは無事に終了。浜田さんのステージをずっと舞台袖で観戦していた佐野さんの姿が印象的だった。またこの二人のジョイントライブやってくれないかなぁ。くれないだろうなぁ(笑)
写真◆コンサート告知のフライヤー。
写真◆兼松講堂(Wikipediaより)
http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/vs.html
ON THE ROAD SPECIAL“留学生支援コンサート”
1988(昭和63)年11月19日もうひとつの(土)曜日
東京サウンドコロシアムMZA有明
01.MONEY
02.MAINSTREET
03.DADDY'S TOWN
04.DANCE
05.遠くへ
06.AMERICA
07.I DON'T LIKE "FRIDAY" (戦士の週末)
08.WHAT'S THE MATTER,BABY?
09.BREATHLESS LOVE
10.もうひとつの土曜日
11.愛しい人へ
12.A NEW STYLE WAR
13.明日なき世代
14.八月の歌
15.BIG BOY BLUES
16.RISING SUN (風の勲章)
17.DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)
18.J.BOY
19.BLOOD LINE (フェンスの向こうの星条旗)
(ENCORE)
1.RIVER OF TEARS
2.土曜の夜と日曜の朝
3.ラストショー
4.HELLO ROCK & ROLL CITY
https://youtu.be/Pk05YWS2nc4?list=PLmQIzKRWaBRXJzIaiExN_opUVkYYT_sSv
http://sunnysday.eco.to/shogo/road/1980/19881119.html
http://www.js-foundation.com/message.html
1988(昭和63)年12月発行 会報第32号【I MYSELF SAW IT】
‡1988(昭和63)年11月19日(土)はれ
昨日と違っていい天気になった。
事務所の新川に迎えにきてもらい湾岸道路でMZAへ。
昨日は強力に寒くてその上雨まで降ったので来てくれた人達にはちょっと可哀想だったけれど…。
こんなスペースの会場でやったことも最近ないので昨日は今ひとつ雰囲気をつかみきれなかった様な感じもしたので、
今日は自分なりにその辺りを意識してやってみた。
昨日より近づいた感じはあったと思う。
そういえば、開場前に山下達郎君がいきなり現われる。
隣のスタジオに来たついでにのぞいてみたとのこと。
結局そのままアンコール最後まで観ていってくれた。
昨日はNOBODYの相沢さんも来てくれたし…。
そして今日は招待していた留学生の連中が終わってからあいさつに訪れる。
ロック・コンサートは初めてという人が多かったけれど、楽しんでくれたみたいで良かった。
二日間とりあえず無事に終わり、ちょっと疲れてグッタリだったけれど、
水谷公生さん達と恵比寿へ食事に行く。もっとも途中で寝たくなって先に帰ってしまったのだけれども…。
明日からは一週間ばかしのオフ。
http://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber032.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
https://www.amazon.co.jp/dp/B01FF31HM6
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ Shogo Hamada November charity ③days ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃後半戦 日程
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
074 1988(昭和63)年11月18日(金) 東京サウンドコロシアムMZA 一日目
‡075 1988(昭和63)年11月19日(土) 東京サウンドコロシアムMZA 二日目
http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃1988(昭和63)年 3月17日(木) 宮崎市民会館
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年 2月 7日(火) 大阪城ホール
┌─――――――――――――┐
|1988(昭和63)年 3月10日(木)|ロード&スカイ会員限定ゲネプロ 千葉県市川市文化会館
|1988(昭和63)年 8月20日(土)|「A PLACE IN THE SUN」静岡県浜名湖半“渚園”
|1988(昭和63)年11月18日(金)|MZA有明“留学生支援コンサート”
‡|1988(昭和63)年11月19日(土)|MZA有明“留学生支援コンサート”
└─――――――――――――┘
http://ja.wikipedia.org/wiki/FATHER'S_SON
http://ameblo.jp/bar-flashandshadow/entry-10712546578.html
Message from 浜田省吾
J.S.Foundationを設立する以前は、Road&Skyを通じてコンサートの収益やレコードの印税を単独で単発的に寄付していたのですが、いつか基金を設立して継続的な活動にしたいと思っていました。1995年、ある出来事をきっかけに佐藤佐江子さんに出会い、 彼女の経験と情熱と行動力を知り、基金に対する想いを相談しました。そして、彼女を中心に同志が集まり、1999年2月にJ.S.Foundationが発足しました。「社会のために何か出来ないだろうか?でも、個人で一体何が出来るのだろう?」そう思っているのは私だけではないと感じます。個々に存在している小さな善意がひとつになり、少しでも大きな力となって社会に貢献できればと思います。
http://www.js-foundation.com/message.html
1988.11.19映像◆https://youtu.be/Pk05YWS2nc4
映像◆HELLO ROCK&ROLL CITY 浜田省吾http://video.fc2.com/content/201103270nMVdUxP
┏━━━━━━━━━━━┓
┃ 浜田省吾 #07 因島 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
2016(平成28)年03月24日(木)
ぼくは浜田省吾さんのツアーで全国津々浦々を廻りましたが、その中でも何カ所か印象に残っている場所があります。今回はそんな場所の一つ、因島でのコンサートのことを思い出してみます。
++++++++++++++++++++++++++++++++
1979(昭和54)年11月08日(木)から、関西学院大学での学園祭出演を皮切りに始まった、浜田省吾の関西~中国ツアーは、
1979(昭和54)年11月11日(日) 福山大学学園祭
1979(昭和54)年11月13日(火) 因島市民会館
1979(昭和54)年11月15日(木) 萩市民会館
1979(昭和54)年11月16日(金) 三次文化会館
1979(昭和54)年11月18日(日) 山口大学学園祭
‡1979(昭和54)年11月19日(月) 高梁市民会館と廻る、約二週間の日程のツアーだった。
1979(昭和54)年11月11日(日)に広島の福山大学での学園祭を終えたぼく達は、
1979(昭和54)年11月12日(月)に三原から船で因島に入った。因島は現在は尾道市に属しているが、当時は因島市として独立していた。島に着いてすぐにぼく達は、二階建ての簡素な作りの旅館に連れて行かれた。旅館というよりも、まるでどこかの会社の保養所みたいだな、とぼくは思った。明日のコンサートまでオフなので、浜田さんとバンドのメンバーは二組に別れて休日を過ごすことにした。ドラムの俊ちゃんとギターの町支くんは、どこからか二千円の竿を買って来て、釣りに行くと張り切っている。ぼくとキーボードのいっぺいちゃん、ベースのブンちゃん、そして浜田さんの四人はレンタカーを借りて島を一周することにした。さっそく小さな車を借りて来て、ブンちゃんの運転で島をドライブした。走り出してすぐに大きな造船所が見えて来た。因島は当時、造船の島と呼ばれていて日立の巨大な造船所があった。その時も一隻の船を造っている最中で、ぼく達はその大きさに息を呑んだ。造船所を見たり車の中で音楽を聴いたりして、はしゃいでいたぼく達四人だったが、四方を海に囲まれた小さな島なので、そんなに時間を要することなく島を一周してしまった。それでもぼく達は美しい景色を堪能することが出来て満足だった。釣りチームの二人は、今夜の夕食のおかずを釣ってくると豪語して出かけて行ったが、釣果はゼロであった。釣れたての魚を期待していたぼく達は大いにガッカリした。明けて
1979(昭和54)年11月13日(火)、因島市民会館でのコンサートの日になった。会場の因島市民会館は約千人ほどのキャパの小さな会館で、どこか懐かしい雰囲気のする建物だった。こんな小さな島でコンサートをやって、果たしてお客さんは来てくれるのか心配していたぼく達だったが、コンサートが始まってみたら客席はほぼ満杯で、ぼく達は胸を撫で下ろした。コンサートが始まってステージから客席を見渡すと、おそらく今日来た大半の方が、初めて浜田さんのコンサートを観るのではないかと思われるようなムードが、何となく全体に漂っていた。そして大音量でのコンサートにちょっと戸惑っている風でもあった。この日のセットリストは以下の通り。
01.ひとりぼっちのハイウェイ
02.愛を眠らせて
03.朝のシルエット
04.いつかもうすぐ
05.いつわりの日々
06.恋の西武新宿線
07.愛のかけひき
08.涙あふれて
09.片思い
10.幻想庭園
11.風を感じて
12.今夜はごきげん
アンコール
13.さよならの前に
14.ミッドナイト・ブルートレイン オープニングの「ひとりぼっちのハイウェイ」の前には、オーバーチャーのようなちょっとした長めのイントロが付いていた。「朝のシルエット」は町支、岡島、板倉の三声によるアカペラのコーラスから始まるアレンジだった。エンディングの「今夜はごきげん」アンコールの「さよならの前」は、レコードになったアレンジとは、かなり違う感じのアレンジで演奏していた。 浜田さんもぼく達バンドも、いつもとはちょっと違う雰囲気に最初は緊張したが、終わってみればいつものように盛り上がったコンサートになった。コンサート終了後、地元の方々も交えての打ち上げが行われた。中には村上水軍の末裔の方もいらしていて、とても興味深い話を聞くことが出来た。海の幸を堪能したぼく達は、すっかりいい気分になって、満天の夜空を眺めながら歩いて旅館まで帰った。
写真◆1979(昭和54)年頃。ヒゲを生やしていた。
http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/7.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
┏━━━━━━━━━━━━┓
┃『ON THE ROAD "FILMS"』┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
1989(平成元)年05月21日(日) 初リリース
2000(平成12)年07月05日(水) 再リリース
2005(平成17)年08月31日(水) 再再リリース
1988(昭和63)年05月15日(日) ①ON THE ROAD '88 at 国立代々木オリンピックプール
1988(昭和63)年08月20日(土) ②A PLACE IN THE SUN '88 at 渚園
‡1988(昭和63)年11月19日(土) ③有明MZA
1989(平成元)年01月28日(土) ④名古屋レインボーホール
01.Opening: THEME OF FATHER'S SON
02.A PLACE IN THE SUN ②
03.路地裏の少年 ②
04.終りなき疾走 ②
05.いつかもうすぐ
06.AMERICA ①
07.HELLO ROCK&ROLL CITY ③
08.Tour Scraps ON THE ROAD '82~'86 までのFILMS
09.MONEY ④
10.DANCE ④
11.片想い ④
12.Medley:明日なき世代~八月の歌~BIG BOY BLUES ④
13.こんな夜はI MISS YOU (Video Clip) ※Studio Live
14.愛のかけひき ②
15.丘の上の愛 ②
16.J.BOY ②
17.DARKNESS IN THE HEART ②
18.ON THE ROAD ④
19.Closing: THEME OF SAKURA
https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_%22FILMS%22
No.⑥ 路地裏の少年 1988.8.20 渚園http://video.fc2.com/content/201103316AuXX63r
映像◆HELLO ROCK&ROLL CITY 浜田省吾http://video.fc2.com/content/201103270nMVdUxP
映像◆浜田省吾『路地裏の少年 (ON THE ROAD "FILMS")』https://youtu.be/yeFEzyYoq0A
2012(平成24)年09月28日(金) YouTube公開
2019(令和元)年05月21日(金) 10,161,086回視聴
映像◆浜田省吾『MONEY (ON THE ROAD "FILMS")』https://youtu.be/AAUtTn26Aig
2013(平成25)年04月24日(水) YouTube公開
2019(令和元)年05月21日(金) 1,063,235回視聴
映像◆浜田省吾『片想い (ON THE ROAD "FILMS")』https://youtu.be/F7CfahQmWhg
2013(平成25)年04月24日(水) YouTube公開
2019(令和元)年05月21日(金) 15,553,521回視聴
映像◆浜田省吾『J.Boy (ON THE ROAD "FILMS")』https://youtu.be/VTZBsaxNNEY
2013(平成25)年04月24日(水) YouTube公開
2019(令和元)年05月21日(金) 1,412,471回視聴
『ON THE ROAD "FILMS" 』SHOGO HAMADA 浜田省吾 ON THE ROAD'86&渚園+a
㊤↑映像◆◆https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRXJzIaiExN_opUVkYYT_sSv
┏━━━━━┓
┃♪17才♪┃
┗━━━━━┛
1971(平成元)年06月01日(木) 南 沙織シングルリリース
1989(平成元)年05月25日(木) 森高千里シングルリリース
1989(平成元)年11月10日(金) 森高千里 PVリリース
‡2008(平成20)年11月19日(水) 銀杏BOYZシングルリリース
http://ja.wikipedia.org/wiki/17%E6%89%8D_(%E6%A3%AE%E9%AB%98%E5%8D%83%E9%87%8C%E3%81%AE%E6%9B%B2)
南映像◆https://youtu.be/N6Cp5xflmuk
森映像◆https://youtu.be/2tCHx6Tjztk
8月25日デビュー!ピンク・レディーはテレビ黄金期が生んだ “はじめての味覚”
2022(令和四)年8月25日(木) 06:00『Re:minder』配信
1977(昭和52)年12月05日(月) ピンク・レディーのベストアルバム「ベスト・ヒット・アルバム」がリリースされた日
■ピンク・レディーがデビュー! キャッチフレーズは“はじめての味覚(あじ)”
♪ペッパー警部 邪魔をしないで
ペッパー警部 私たちこれからいいところ♪
抜群のハーモニーとリズム感を持つミイとケイがピンク・レディーとしてデビューしたのは
1976(昭和51)年8月25日(水)のこと。キャッチフレーズの “はじめての味覚(あじ)” には「誰もやっていないことをしよう」というスタッフの想いが込められていた。事実、デビュー曲の「ペッパー警部」は歌謡曲としては斬新なブラスロック調のソウルフルなサウンド。大胆なミニスカートや、ディスコダンスをベースにした振り付けにも十分なインパクトがあった。
1976(昭和51)年9月6日(月)付けのオリコンで99位に初登場した「ペッパー警部」は翌週100位圏外に落ちたのち78位に再浮上。以後、着実にランクを上げ、10月25日付で48位と初めて左ページ(1~50位)に入る。
1976(昭和51)年10月14日(木)の新宿音楽祭からプロジェクトに参加したデザイナーの野口よう子(当時は “野口庸子”)は「ミニで光り物がついているものを」という事務所からの注文を受けてスパンコールを多用した衣装を制作。デビュー時はテニスウェア風のシンプルなミニスカートだったが、ここからキラキラした華やかなステージ衣装がピンク・レディーのトレードマークとなる。同音楽祭で銀賞を受賞した2人は
1976(昭和51)年11月16日(火)の日本歌謡大賞で新人賞7組の一角に食い込み、
‡1976(昭和51)年11月19日(金)の日本レコード大賞でも新人賞5組に選ばれる。上昇気流に乗った「ペッパー警部」は
1976(昭和51)年11月29日(月)付けのオリコンで初のトップ10入り(8位)、翌年
1977(昭和52)年1月17日(月)付けではセカンドシングル「S・O・S」との2曲同時トップ10入りも達成する。
■ 第7回日本歌謡大賞新人賞受賞者
朝田のぼる / 白いスカーフ(40位)
角川博 / 嘘でもいいの(38位)
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ(9位)※放送音楽新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか(31位)※放送音楽新人賞受賞
ピンク・レディー / ペッパー警部(29位)
三木聖子 / まちぶせ(47位)
吉田真梨 / 水色の星(39位)
▼第18回日本レコード大賞新人賞受賞者
芦川よしみ / 雪ごもり(100位圏外)
角川博 / 嘘でもいいの
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ ※最優秀新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか
ピンク・レディー / ペッパー警部
(注)カッコ内は出場時点でのオリコン最高位
筆者は当時小学生だったが、この秋から冬にかけての空気の変化は今でもよく憶えている。まず新しもの好きの男子が「ペッパー警部」の股開きステップを面白おかしく真似して笑いをとり、やがて女子が休み時間のたびにミイとケイのパートを決めて、お互いの振りをチェックしながら歌い始めたのだ。それまでも教室でヒデキやキャンディーズの振り付けの一部を真似することはあった。が、あちこちでペアになった2人がフルで歌い踊る、そんな光景は“はじめて”だった。
■吹き荒れたピンク・タイフーン、大スターになったポイントとは?■年が明けた1977年、ピンク・タイフーンはさらに吹き荒れた。
1977(昭和52)年2月14日付けオリコンで「S・O・S」が初の1位を獲得すると、3月には単月で35本のテレビ番組に出演。瞬く間に時代の寵児となった2人は「邪魔をしないで」「私たち これからいいところ」とばかり、歌謡界の記録を次々と塗り替えていく。以下、オリコンでの快進撃ぶりを振り返ろう。
1977年9月:天地真理を抜いてシングル4作連続1位(最終的には9作)
1977年11月:天地真理・小柳ルミ子を抜いて通算24週目のシングル1位を獲得(最終的には63週)
1978年2月:史上初のシングル2作連続ミリオン(最終的には5作)
1978年12月:史上初のシングル年間トップ3を独占
1979年4月:史上初のシングルセールス1000万枚突破
■「スター誕生!」でスカウトの札を上げた相馬一比古と飯田久彦の情熱■ピンク・レディーがここまでの大スターになれたのはなぜか。筆者は5つのキーポイントがあったからだと考えている。まずは『スター誕生!』(日本テレビ系)でミイとケイにスカウトの札を挙げた2人の人物の情熱である。その2人とは、所属事務所・T&Cミュージック(スカウト時点では“アクト・ワン・エンタープライズ”)の制作プロデューサーだった相馬一比古と、所属レコード会社・ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクターだった飯田久彦――。相馬は芸映でいしだあゆみ、西城秀樹、浅田美代子らを手がけた敏腕マネージャーで、スカウト直後の面談で「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と、いきなり大きな夢を語ったという。一方の飯田は60年代に「ルイジアナ・ママ」などのカバーポップスでヒットを飛ばした元歌手で、1972年にディレクターに転身。このときは「ザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたい」との想いで札を挙げる。ビクター社内では同じ決戦大会に出場していた清水由貴子を推す声が圧倒的だったが、それを抑え込んでのスカウトだった。洋楽志向で、歌って踊れるエンターテイナーを自分の手で育てたいという男たちに見込まれたからこそピンク・レディーは誕生したというわけだ。
■阿久悠、都倉俊一、土居甫、野口よう子… 終結した気鋭のクリエイターたち■第2のポイントは進取の気性に富んだ気鋭のクリエイターたちが集結したこと。メンバーは作詞家の阿久悠、作曲家・編曲家の都倉俊一、振付師の土居甫、ファッションデザイナーの野口よう子だ。企画の中心となった阿久は山本リンダ、フィンガー5に次ぐ“絵空事路線”を設定。先にタイトルとコンセプトを決め、それをもとに都倉が作ったメロディに詞をはめていく手法で多くの楽曲が制作されていく。阿久・都倉のアクトクコンビが生み出した“3分間のアニメーション”の世界観を振り付けと衣装でさらに増幅したのが土居と野口であった。
■ミイとケイの向上心■第3のポイントはミイとケイのポテンシャルと向上心だ。2人はもともと地元静岡のヤマハで2年以上、ソウルフルな曲をミニスカートにブーツ姿で踊りながら歌っていた実力派。『スタ誕』でフォーク調の「部屋を出て下さい」を歌ったのは、その方が純朴に見られて、合格する可能性が高まるだろうという計算の上でのことだった。それゆえ一時はフォークデュオとして売り出される可能性もあったが、程なくして「ペッパー警部」とB面の「乾杯お嬢さん」が完成。いずれもダンサブルな楽曲で、2人が望む路線でデビューすることが決定する。当時は一部で「こんな風に変えられちゃって可哀想」と見る向きもあったが、本人たちはノリノリ。『スタ誕』合格からわずか半年後にデビューすることができたのは、彼女たちにそういう曲を歌いこなせる素養があったからに他ならない。またアイドルとしては遅めの18歳でのデビューというのも結果的にはよかった。高校卒業を間近に控えた『スタ誕』出場まで、進学も就職も決まっていなかった2人は「もう後がない」状態。ラストチャンスでようやくプロになれたことが「歌い続けていくためにはどんなことも乗り越えていく」という強い想いに結びつく。睡眠1~2時間の殺人的なスケジュールに追われながら全米進出を果たすまでに成長したのは、あくなき向上心があったからに違いない。さらにもう1つ、18歳でのデビューは、阿久が仕組んだ「カラリとしたお色気路線」を体現するにもちょうどいい年齢だった。
■新興事務所が可能にした慣例にとらわれない冒険■第4のポイントは新興事務所の所属だったことが挙げられる。T&Cミュージックは脱サラした証券マンと生保マンが1976年4月に設立したばかりの新会社。制作部長に就任した相馬以外は芸能界での実績がないメンバーだったが、それが業界の慣例にとらわれない冒険を可能とする。「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」という相馬の夢が短期間で叶ったのはT&Cがベンチャー企業だったからといえるだろう。
■ビクターに他にいなかった有力新人■そして第5のポイントは1976年のビクターに有力新人がいなかったことである。1972年の麻丘めぐみ以来、桜田淳子、西川峰子、岩崎宏美…と、毎年日本レコード大賞の新人賞5枠に新人を送り込んできたビクターだが、1976年はその席がぽっかりと空いていた。当時の宣伝マンの証言によると、当初の宣伝費はピンク・レディーと同じ日にデビューした女性5人組のフラワーキッスの方が多かったらしいが(それほど2人が期待されていなかったという証しでもある)、「ペッパー警部」が動き始めたことでイチオシに昇格。暮れの音楽祭に向けてプロモーションが加速していく。「歴史にIFはない」と言うが、もし8月以前にビクターからデビューした新人がそこそこのヒットを記録していたら、ピンク・レディーが新人賞レースに参戦する余地はなかったであろう。それはともかく――。この5つのキーポイントで国民的アイドルに上り詰めたピンク・レディーを、筆者はテレビの黄金期が生んだ最強のスターだと捉えている。まずは時代背景を確認しておこう。
■カラーテレビの急速な普及と視聴環境■1973年に白黒テレビを抜いたカラーテレビの世帯普及率は彼女たちがデビューした1976年に93.7%に到達。家庭用ビデオの調査が始まるのはその2年後で(1978年の世帯普及率はわずか1.3%)、テレビはリアルタイムで視聴するものだった。当時の番組表を見ると、30分もしくは1時間枠が基本で、今のように長尺のバラエティは皆無。歌謡界が元気だった時代性を反映して、プライムタイム(19時~23時)の歌番組は週に10本、歌のコーナーがあるバラエティも週に8本放送されていた(1976年時点)。現在は『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)、『SONGS』(NHK総合)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の3本しかないことを考えると隔世の感がある。カラーテレビの普及で華やかなステージや衣装がより楽しめるようになったことも大きく、年末の音楽番組は軒並み高視聴率を獲得。各局が自社主催の音楽祭を開催し、いわゆる賞レースがいちばん盛り上がったのは70年代後半だった。その頂点はジュリーが「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーが「ウォンテッド(指名手配)」でグランプリを目指した1977年だったと言えるだろう。
▼2大音楽祭の歴代視聴率トップ5
・日本レコード大賞
1位:1977年 50.8%
2位:1972年 46.5%
3位:1974年 45.7%
4位:1973年 44.1%
5位:1979年 43.3%
・日本歌謡大賞
1位:1973年 47.4%
2位:1977年 46.3%
3位:1974年 45.3%
4位:1976年 41.8%
5位:1980年 40.1%
■広告費でテレビが新聞を抜いた! 初代CM女王はピンク・レディー■ブラウン管時代のテレビは画角が「4:3」だったため、一度に映すのは2人が精いっぱい。それまでのアイドルは動きの少ない手振りが主流だったが、本格的なダンスを見せたピンク・レディーは “引き” で撮られることも多かったため、ミイとケイはなるべく距離を開けず、カメラに収まるようにしていたという。ピンク・レディーの場合、ラメやスパンコールをふんだんに使った煌びやかな衣装もカラーテレビ向きだった。デザイナーの野口は新宿音楽祭で初めて衣装を手がけたとき、ステージではキラキラして見えたのに、テレビでは黒にしか見えなくてショックを受けたと述懐しているが、その後は工夫を重ねたのだろう。新曲が出るたびに様々な色違いを用意して、「今日はどんな衣装だろう」という興味を引き付けていく。事務所によると、1977~1978年は年間300本以上のテレビ番組に出演したミイとケイ。多いときは週に5本のレギュラーや冠番組を抱えていたが、それと同じくらい凄まじかったのがCM出演だ。牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、学習研究社、大日本除虫菊、日本コカ・コーラなど、名だたるスポンサーと契約。文字通り、テレビで観ない日はない活躍ぶりだった。ちなみに日本の広告費でテレビが新聞を抜いたのは1975年。カラーの普及でテレビの媒体力がさらに増したことの反映と見ていいだろう。ピンク・レディーはテレビが黄金期を迎えたときの初代CM女王だったのだ。
■ピンク・レディー45周年PLUSプロジェクト稼働中!動向から目を離すな!■そんな彼女たちの軌跡が丸ごと楽しめる、おいしいアルバムがつい先日、配信を開始した。
1977(昭和52)年12月5日(月)に発売され、累計でミリオンセラーとなった『ベスト・ヒット・アルバム』の収録曲に、その後リリースされたシングルA面を追加した全31曲の復刻盤だ。オリジナル盤はオリコンのLPチャートで11週連続の1位を記録し、1978年の年間1位も獲得。別バージョンの「UFO」や初期シングルのカップリング曲、ミイとケイのソロ曲も網羅している。今回の配信にあたっては最新のデジタル・リマスタリングを施し、96kHz/24bitのハイレゾ音源も同時リリース。さらにこの最新リマスターを使用した高音質SHM-CDのリイシュー盤も
2022(令和四)年9月21日(水)に発売される(内容は2003年の紙ジャケットCDと同じ)。今日でデビュー46周年を迎えたピンク・レディー。ビクターによると、今年から来年にかけて「ピンク・レディー45周年PLUS」プロジェクトとして様々な情報発信やリリースを予定しているという。モンスターデュオの動向に注目したい。
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ピンク・レディー「ペッパー警部」伝説の幕開けはスター誕生の合格からわずか半年!
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