9/4(水) 零 J.BO∅WYが気になる過去の今日の出来事だヨ(=^◇^=) | J.BO∅WYの気になる過去の今日の出来事だヨ(=^◇^=)

J.BO∅WYの気になる過去の今日の出来事だヨ(=^◇^=)

過去の今日、『太陽にほえろ!』のどのエピソードが放送されたかを後悔なく公開するブログでしたが、
2023(令和五)年2月2日(木)曜日に突然、きまぐれに気が変わってしまい変更しました土佐ヨ(=^◇^=) 
いうことでどうか④⑥③⑨お願いしますm(__)m(__)m

Mr.Children 365日 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)

過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=) (goo.ne.jp)


 浜田省吾【66歳】
 2019(令和元)年09月04日(水) released
 凱旋門 (曲) - Wikipedia

 

 浜田省吾【33歳】

‡1986(昭和61)年09月04日(木) 初発売
 1986(昭和61)年09月14日(日) 呉レンガ通りMUSIC STATION購入
 1986(昭和61)年09月15日(月) オリコン週間LPチャート第1位
 1986(昭和61)年09月15日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位
 1986(昭和61)年09月22日(月) オリコン週間LPチャート第1位 2週連続
 1986(昭和61)年09月22日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位 2週連続
 1986(昭和61)年09月29日(月) オリコン週間LPチャート第1位 3週連続
 1986(昭和61)年09月29日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位 3週連続
 1986(昭和61)年10月06日(月) オリコン週間LPチャート第1位 4週連続
 1986(昭和61)年10月06日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位 4週連続
 1986(昭和61)年10月27日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位 通算5週
 1990(平成二)年06月21日(木) 再発売
 1999(平成11)年09月08日(水) remastering 初回限定盤
 1999(平成11)年09月29日(水) remastering 通常盤発売
†2016(平成28)年09月04日(水) 発売延期
 2016(平成28)年11月09日(水) 発売 
 J.BOY (アルバム) - Wikipedia

 

 浜田省吾『J.BOY』少年だった大人たちよ、今こそこのアルバムを!
 2016(平成28)年10月28日(金) 初掲載
‡2019(令和元)年09月04日(水) 再掲載
 https://reminder.top/224409305/
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 浜田省吾の神アルバム『J.BOY』すべては路地裏の少年から始まった!
 2016(平成27)年10月27日(木) 初掲載
‡2020(令和二)年09月04日(金) 再掲載
 https://reminder.top/744136899/
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 浜田省吾『J.BOY』収録♪遠くへ御学園紛争の中で愛をはぐくむ男女の物語
‡2021(令和三)年09月04日(土) 初掲載
 https://reminder.top/459777563/
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 テレビに出ないアーティスト!我らが浜田省吾はサングラスも外さない?
‡2022(令和四)年09月04日(日) 初掲載
 https://reminder.top/213928299/
 ┏━━━━━━━━━━┓
 ┃西暦1986年の呉線┃
 ┗━━━━━━━━━━┛
 1986(昭和61)年11月14日(金) 改正
 10:00 呉 発 
 10:36 広島着 
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~kure_chin/data/timetable/timetable_s6111.html


◆音源◆https://youtu.be/lVlha_d23B8
 ♪A LAST CHANCE♪
◆映像◆https://youtu.be/P11epQDdeho
 浜田省吾が若い頃父親から、事あるごとに言われた言葉とは
◆映像◆https://youtu.be/Yr2k6IKBSfI
 浜田省吾 親父を裏切り、そして人生で一番暗い日を迎えることに

■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY
■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY
■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY
◆映像◆https://youtu.be/dZ-7GVh9Jbw
 涙が出る。魂が震える。日本人の誇りを取り戻せる。
 神谷宗幣議員の人生観が変わる28分間【参政党】
‡神谷宗幣『我々は日本人だ!』という軸を失っている
 2022(令和四)年11月12日(土) YouTube公開
 こんな魂の入った国会議員は他にいません。石原慎太郎や安倍さんのように日本のことを本気で考えている政治家は神谷さんくらいしかいないのではないでしょうか?是非この動画を見終わりましたら、周りの大切な人にシェアして下さい!
■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY
■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY
■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY■I'm a J.BOY

 想い出の
 火災旋風 firestorm
 https://ja.wikipedia.org/wiki/火災旋風


『J.BOY』
 1986(昭和61)年09月04日 初発売
 1990(平成二)年06月21日 CD再発売
 1999(平成11)年09月08日 CD再々発売初回盤
 1999(平成11)年09月29日 CD再々発売
 2021(令和三)年06月23日 CD再々々発売
 https://ja.wikipedia.org/wiki/J.BOY_(アルバム)
 ♪凱旋門♪
‡2019(令和元)年09月04日
 https://ja.wikipedia.org/wiki/凱旋門_(曲)

 99.J.Boy
 2021年9月19日 00:00 大西恵子@機能改善士R?
 話は少し前に戻る。
 1986年9月4日_アルバム「J・BOY」は発売された。わたしにとって、忘れられないアルバムだ。〝あの頃の省吾が戻ってきた!”そう感じた作品だった。自分自身の生き様や、社会に対する反発がこめられた1stアルバム「生まれたところを遠く離れて」が発売されてから、10年がたっていた。歌いたい音楽と、売らなければいけない音楽の狭間で葛藤し、方向性を失っているんじゃないかな?と思い、失望した時期もあった。けれど、省吾はそこから完全に抜け出して、今、本当に自分の歌いたい歌を、省吾らしさを100パーセント発揮しながら、歌っているんだな_と思った。アメリカに憧れて、アメリカ人になろうとした少年が、「自分はやはり日本人なのだ」と気づき、自分らしさを求めて、埋もれた可能性を探るために思いを新たに旅立っていった。あの頃の省吾らしさを失わず、パワーアップした彼の姿が嬉しかったし、まぶしかった。やっぱり、この人の生き方は最高だ!と思った。アルバムが発売されてから、ほとんど毎日のように聴きつづけていた。曲順はもちろん、アルバムに収録されている曲の歌詞は、全部覚えるまで、聴き込んだ。流産をした直後はそのショックが大きくて、テレビもラジオも、好きな曲さえも、音や映像に関わるものは全て拒絶した状態だったが、やっとそれらを受け入れる余裕が戻った時、最初に聴きたいと思ったのは、このアルバムだった。“部長にけなされても、聴きたいものは聴きたいんだから、別にいい。気を遣ってコソコソ聴かなくても、好きな曲なんだから、堂々と聴けばいいじゃない!”昼下がりにひとりで、お茶を飲みながらくつろいでいるとき、部長は外回りの途中でフラリと家に戻ってくることがあった。はじめは、反射的に、オーディオのスイッチを切ろうとしたけれど、それも変かなと思い、そのままでいた。部長は、その音楽に何の反応も示さずに、ただBGMがかかってる程度で聴いている。気を遣って、やめろと言わないのか、聴いてて耳障りじゃないのか、そのときはわからなかったけど、再び、この曲と共に過ごしながら、わたしは、気力を取り戻していった。一番嬉しかったのは、進むべき道を見失いかけるたびに、わたしを励まし、元気付けてくれた「遠くへ」が、10年の時を経て、このアルバムに収録されたことだった。“このままでは終りたくない!わたしがわたしらしくあるために、もう1度出来ることを探さなきゃ!わたしは、何ができるんだろう?わたしは何がやりたいんだろう?”
 https://note.com/dang0415/n/n4331979337fe

◆音源◆https://www.nicovideo.jp/watch/sm18306381
 凱旋門 RiSAKO 浜田省吾さんの曲のカバーです。

◆映像◆https://youtu.be/Et5XcQvS6jg
 浜田省吾 J.BOY発売 35周年記念
‡2021(令和三)年09月04日(土) 発売日より35年目
 2011(平成23)年03月11日(金) ♪J.BOY 2011♪歌唱前の感動的なMCが心にGOODくる


 ON THE ROAD 86 TOURパンフレットより
 http://fansite405x3.web.fc2.com/pamph_ontheroad86frame.htm

◇非公開我映像◆https://youtu.be/7H9uHbvV5fI
‡1986.09.04『J.BOY』
 https://ja.wikipedia.org/wiki/SHOGO_HAMADA_Visual_Collection_"FLASH%26SHADOW"
◆非公開我映像◆https://youtu.be/Or-qcCrGlrA
 Promotion film for album `J BOY' 浜田省吾
『FLASH&SHADOW』
◇非公開我映像◆https://youtu.be/jsi8uNxFHXk
 ♪19のままさ♪ 石原さとみ
◇非公開我映像◆https://youtu.be/vJrNOPbh0_A
 ♪明日なき暴走♪ 日本語字幕


 映像◆『J.BOY』CM https://youtu.be/vvwDB7qtnnI
 <iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/vvwDB7qtnnI" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
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 『J.BOY』SHOGO HAMADA『J.BOY 』浜田省吾
 2019(平成31)年04月07日(日) 最終更新日 93,774回視聴
 https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRWqBg19-fl2fngauOQcVnDb

■1986(昭和61)年09月04日(木)晴れ いよいよ長いツアーの初日。オレとクマさんは昨夜のうちに京都に入っていたので今日はゆっくり会場に入る。この京都会館に来る度に、もう12年前にもなる拓郎さんのツアーを思い出す。皆、緊張でメシも食えなかったこと。町支でさえも。とてつもなく広く見えた会場。人生の中であれほど緊張したことはない様に思える。サウンド・チェック、リハーサルをたっぷりやって定刻より15分近く遅れてスタート。初日はやはり皆の間に張りつめた空気が漂っている。約10分のインターバルをはさんでアンコールも全て終えて楽屋に戻ると時計は9時30分近くになっていた。初日なのでツアークルー全員で食事会。今回も30人以上の人間が一緒に全国を廻るし、新人もいるのでそれぞれ自己紹介をする。ここでもドラムの高橋君の金髪の話題がひとしきり交される。ミキハルさん達と今日のステージの内容について話し合い曲順の多少の変更とかを決める。今迄のツアーみたいにそんな大幅な変更をする必要もないみたいだ。
 http://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber019.html

 ON THE ROAD 86 ”I’m a J.BOY” 
 2008/5/8(木) 午後 10:09 浜田省吾資料館 練習用 
 ON THE ROAD 86のツアーパンフです。もう22年も前になりましたね。この中にとても気になる、心に残る文章があります。
  父さん、昨夜夢を見たよ。
  家族が昔のように一緒に暮らしている夢だ。
  夢の中では、兄弟3人にひとつずつ部屋があるんだ。
  その家を持つことが出来て、父さんはとても得意げだったよ。
  16歳の時から働きはじめた父さんの夢といったら、
  おれ達の為に家を建てることだったものね。
  おれ達いつも転勤の度に借りたちっぽけなアパート暮らしで、
  重なるみたいにして暮らしてたものね。
  65才の時、やっと田舎に小さな家を持つことが出来たけど、
  その時はもう皆ばらばらだった。
  病気のお袋の世話もその年でするのは大変だっただろう。
  それ以上にお袋も辛かっただろう。
  時々、男と女そして夫婦って何だろうと思うよ。
  若い頃のおれといったら
 ”親父と同じような人生は送りたくない”が口癖のようだった。
  金や美しい女や自由を追いかけて、ROCK&ROOLのバンドをはじめた。
  そして今も九州の高速道路をツアーバスに揺られて走っている。
  おれは、33才になった。
  父さんがあの苦しい時代を生き抜き、
  おれ達子供を育てたことがどういうことなのかわかるようになった。
  父さん、何も心配しなくていいよ。
  子供たちはうまくやってゆく。
  父さんたちに負けないようにね。
 このON THE ROAD 86、J.BOYツアーは86年の9月にスタートしました。
 そして翌87年4月6日まで続いた。すでに闘病生活を送っていた父さんは、このツアーが終わるのを待っていたかのように、
 87年4月30日に死去。この文章の中に、のちの曲に繋がっていくような言葉や想いが詰まっているような気がします。かなりグッとくるものです。当時、高校生だった自分にも心に響いたくらいですからね。
 https://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/31535342.html
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①┃ 浜田省吾 #28 J.BOY 1 ┃
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 2016(平成28)年7月23日(土)
 1986(昭和61)年の2月にツアーが終了して、いよいよ二枚組の大作「J.BOY」のレコーディングが始まりました。今回はその話を。
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 1986(昭和61)年2月19日(水)、横浜文化体育館で浜田省吾ON THE ROAD 85'が終了した。と同時に約二年間続いたバンドの歴史にピリオドが打たれた。この日は朝から降り続いていた雪の影響で、交通機関が大幅に乱れていた。ぼくも一度は車で出発したものの、道路に雪がかなり降り積もっていたため途中で断念して引き返し、電車で横浜に向かう羽目となった。ON THE ROAD 85'の最終日のコンサートは、それまでいろいろあった二年間の出来事を払拭するような入魂のステージだった。ぼくも清々しい気分で最終日のコンサートを終えた。
 1986(昭和61)年3月の上旬、ニューアルバムのレコーディングに向けてのミーティングとプリプロダクションが行われた。ニューアルバムのレコーディングは、町支さん、古村くん、江澤くん、そしてぼくの四人を中心として進めて行くことになった。プロデュースは浜田さん。
 1986(昭和61)年2月02日(日) そしてそのメンバー+新たなドラマーが加わることとなった。早速新たなドラマーとのセッションが行われた。そのドラマーは高橋伸之さんという方で、南こうせつさんのバンド等で演奏していたということらしかった。アレンジャーでギタリストの水谷公生さんからの紹介だった。ぼく達は初台のレオミュージック・スタジオで、高橋さんと初めてのセッションをした。その時にどんな曲を演奏したかはよく覚えていないが、10曲程度演奏したと思う。最初の曲を演奏した瞬間にこの人となら安心だ、という直感が働いた。素晴らしいプレイだった。浜田さんも一緒に演奏していたメンバー全員も同じ意見だった。かくして新しいドラマーは高橋伸之さんに決定した。これでニューアルバムのレコーディングメンバーが揃った。ぼく達はレコーディングに入る前に、リハーサルスタジオで何度もプリプロを繰り返した。今回もアレンジはバンドメンバーが分担して手がけることになった。プロデューサーである浜田さんの意向だった。今回のアルバムはもしかしたら二枚組(当時はCDよりもまだアナログ盤が主流)になるかも知れないとのことだった。なのでレコーディングする曲数も多く、ぼく達はどの曲を誰がアレンジするかを決めなくてはならなかった。どのような経緯でアレンジを担当する曲を分担したのかは、はっきりとは覚えていないが、ぼくと町支さん、古村くん、江澤くんの四人がほぼ均等な曲数を担当することになった。アルバム「J.BOY」収録曲の中で、ぼくがアレンジした曲は以下の通り(共同アレンジ名義の曲も含む)
 ・A NEW STYLE WAR
 ・BIG BOY BLUES
 ・LONELY-愛という約束事
 ・もうひとつの土曜日
 ・遠くへ - 1973年・春・20才
 ・SWEET LITTLE DARLIN'
 ・J.BOY
 ・滑走路 - 夕景  ぼくは18曲中8曲のアレンジを担当することになった。そんなに日程に余裕があるわけでは無かったが、幸いツアーは終了していたので家でアレンジを考える時間はあった。ぼくが担当する8曲の内、4曲は(BIG BOY BLUES、LONELY-愛という約束事、もうひとつの土曜日、SWEET LITTLE DARLIN')すでにシングルとして発表済みで、アレンジもすべてぼくが担当していたので、今回アルバムバージョンとして再録音は行うものの、そんなに大幅にアレンジを変えるつもりは無かった。しかし唯一「BIG BOY BLUES」だけは、町支さんによるアレンジで新たにレコーディングを行った。ぼくがアレンジしたバージョンとはまた違ったテイストのカッコいいアレンジだったが、結局町支さんアレンジの「BIG BOY BLUES」はアルバムには収録されなかった。理由はぼくにも分からない。そんな訳で「BIG BOY BLUES」は、再びぼくのアレンジで再録音することとなった。おそらくもうテープは残っていないのだろうが、もしも出来る事なら町支さんがアレンジした、幻の「BIG BOY BLUES」をもう一度聴いてみたい。「LONELY-愛という約束事」「もうひとつの土曜日」「SWEET LITTLE DARLIN'」の3曲も、大幅にアレンジを変えることはしないで新たにレコーディングし直した。「LONELY-愛という約束事」はシングルバージョンには無い、イントロの導入部分にちょっとしたフックを付け足した。
「もうひとつの土曜日」はシングルバージョンではアコースティック・ピアノをプレイしたが、アルバムバージョンではヤマハDX5によるエレクトリック・ピアノを演奏した。楽器の編成もシングルバージョンよりも意識的にシンプルな編成にした。
「A NEW STYLE WAR」は浜田さんと古村くん、そしてぼくの3人での共同アレンジ。浜田さんからの様々なアイデアやインスピレーションを具現化して、主にアレンジを担当したのは古村くん。ぼくはシンセサイザーのリフのフレーズや、コード付け等、主にウワモノの楽器関連のアレンジを担当した。
「SWEET LITTLE DARLIN'」もシングルバージョンよりシンプルなアレンジで、よりR&B色を全面に押し出したサウンドになった。ぼくがアレンジを担当した残りの3曲は結構苦戦した。
「遠くへ - 1973年・春・20才」は浜田さんが昔から大切にして来た曲だった。歌詞の世界観を膨らませるようなサウンドにしようと、ぼくは色々と試行錯誤を繰り返した。この曲のサウンドの要は江澤くんが弾くシンセサイザー・ベース。ぼくはこの頃、デビッド・フォスターやマイケル・オマーティアンといった、ロスアンゼルスを中心に活躍していたプロデューサー/キーボーディストに傾倒していて、彼等の作り出すサウンドにかなり影響を受けていた。特にデビッド・フォスターの弾くシンセベースにはとても衝撃を受けた。当時シンセベースと言えばコンピュータによる打ち込みの演奏が当たり前の時代において、デビッド・フォスターは自分のプロデュースした殆どの楽曲のシンセベースを、コンピュータによる打ち込みではなく自らの手で弾いていた。ぼくはこの曲にそんな手弾きによるシンセベースのテイストを入れたかったので、打ち込みによるシンセベースではなく、江澤くんに手弾きしてもらった。彼は本来はベーシストであってキーボード・プレイヤーではないのだが、実はかなりなキーボードの腕前の持ち主でもあった。手弾きによるシンセベースも、ぼくが弾くよりもずっと上手かったので、江澤くんにプレイしてもらうことにした。以下続く。
 写真◆アナログ盤と同時発売されたオリジナルCD盤。当時の価格は5,000円。
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②┃ 浜田省吾 #29 J.BOY 2 ┃
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 2016(平成28)年8月05日(金) J.BOY Part.2です。
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 「遠くへ - 1973年・春・20才」は結果としてアルバムの中で二番目に長い曲になった。「遠くへ」ではあえて間奏にソロ楽器を入れないで、コード進行や楽器のアンサンブルで聴かせる構成にした。レコーディングのリズム録りは、大体どの曲でも最初の1テイク目でアレンジの構成やテンポの確認等をして、次の2テイク目か3テイク目ぐらいで元となるOKテイクを録ってしまうことが多い。あまり何回もテイクを重ねると鮮度と集中力が落ちて、結果としてあまり良いテイクが録れなくなる。 OKテイクが録れて次にやることは、間違えた箇所や演奏し直したい箇所の修正。それぞれが演奏し直したい箇所を自己申告して録音する。これをパンチインと呼ぶ。パンチイン、パンチアウトはスタジオ作業の中で頻繁に使われる用語で、ミュージシャンとエンジニアの間で「3小節目の2拍目からパンチインして 、4拍目のアタマでパンチアウトして下さい」と言ったような会話が飛び交っていた。「遠くへ - 1973年・春・20才」は長い曲だったので、何回もテイクを重ねると集中力が持たなくなるため、少ないテイクでOKになるようにバンド全員が高い集中力で録音に臨んだ。 インストゥルメンタルナンバーの
 「滑走路 - 夕景」は、浜田さんが井上鑑さんのアルバムに提供した曲のセルフカバー。ぼくはエレキギターがリードを取るインストナンバーにするのが良いのではと思い、浜田さんに提案したところ、それで行こうということになった。例によってイントロのメロディが浮かんだ時点で、ぼくはほぼアレンジが出来た気分になったが、この曲に関してはそこから先が結構大変だった。 法田勇虫さんの弾くラリー・カールトンばりのエレキギターが格好良い。レコーディングスタジオでの唯一の息抜きは、短い食事の時間だった。食事と言っても外に食べに行くわけではなく、スタジオで出前を取ることが殆どだった。また全員が同じタイミングで食べられるわけではなかったので、出前のメニューも延びてしまう麺類は基本的にNG。必然的に弁当か揚げ物系になってしまうことが多かった。しかもそんな脂っこいものを深夜に食べるものだから、レコーディングの期間中はいつの間にか体重が増えてしまっていた。出前でミュージシャン、スタッフに人気があったのが、信濃町ソニースタジオの1階に入っていたレストラン「VEGA」のオムライスとにんじんリンゴジュース。特ににんじんリンゴジュースはNo.1の人気メニューだった。ぼくもにんじんリンゴジュースを飲むのが信ソでの楽しみのひとつだった。それと当時はレコーディングと言えば煙草が当たり前の時代だった。スタジオにいるほぼ全員が煙草を吸っていた。勿論ぼくもその中の一人で、レコーディングになると緊張からか、普段の3倍ぐらいの本数を吸っていた。町支さんはコーラスダビングの最中に、狭いボーカルブースの中で歌いながら矢継ぎ早に煙草を吸うものだから、ブースの中が白く煙って本人の姿が見えなくなるほどだった。 それでいてあの美声のコーラスを決めるのだから、ぼく達は感心するしかなかった。アルバムタイトル曲でもある
 「J.BOY」は、ぼくと江澤くんの共同アレンジ。アレンジをするにあたりまず決めたことは、リズムはタイトなエイトビートにして、その上にホーン・セクションを入れようということで、江澤くんの家で二人でリズムのコンビネーションやホーンのフレーズを考えた。「J.BOY」は同じコードの展開が続く曲だったので、途中ベースソロを入れたり、クラビネットを入れたりして、サウンドに起伏を付けるようにした。サウンド的にはイントロのツインリードギターと、間奏のギターソロからサックスソロにバトンするところがスリリングで気に入っている。ただホーンセクションがミックスの段階で、かなりレベルを下げられてしまって、サウンドのダイナミズムが減少してしまったのがちょっと残念だった。
 「AMERICA」は町支さんアレンジ。ザ・バーズを彷彿とさせる12弦ギターのフレーズがとても印象的なナンバー。町支さんが弾いたのは、リッケンバッカーのエレクトリック12弦ギター。ぼくはヤマハDX5シンセサイザーで作ったオルガンの音色をプレイした。「AMERICA」のサウンドの鍵を握っているのは、町支さんの多重録音によるコーラスと、リッケンバッカーの12弦ギター。
 「想い出のファイアー・ストーム」「悲しみの岸辺」「晩夏の鐘」「A RICH MANS GIRL」は江澤くんのアレンジ。アルバムの前半は江澤くんのアレンジした曲が続くせいか、彼のカラーが色濃く出ている。江澤くん&ドラムの高橋さんの新リズム隊コンビも、ノリがバッチリ決まっていて心地良い。 このあたりの曲は、ぼくの演奏もシンセサイザー全開といった感じで、殆どシンセでプレイしている。「想い出のファイアー・ストーム」のイントロとアウトロの箇所で、印象的なパーカッションを演奏しているのはペッカーさん。”シモンズ”というシンセドラムを使ってプレイしている。ペッカーさんとは、1988(昭和63)年渚園でのA Place In The Sunでも一緒にステージに立った。
 「悲しみの岸辺」で登場するフリューゲルホルンの音色は、イミュレーター2というサンプリングマシンでサンプリングしたもの。間奏とエンディングで登場するフリューゲルホルンの音色によるソロは、江澤くんが鍵盤で弾いている。 
 「晩夏の鐘」はインストゥルメンタルナンバー、ぼくと古村くんと江澤くんの三人だけで演奏した。この曲も 江澤くんの弾くシンセベースがいい味を出している。この頃はシンセサイザーのマニピュレーターという職種の人がいて、スタジオに山のような機材を持ち込んで、音色を作ったり打ち込みのデータを作ったりしていた。J.BOYのレコーディングでは梅原篤さんという方が、マニピュレーターでぼくとタッグを組んだ。使用したシンセは、オーバーハイムOB-8、 プロフィット5、ミニ・ムーグ、イミュレーター2等々。86年当時の流行だったとはいえ、 アルバムJ.BOYには今聴くとびっくりするぐらいたくさんのシンセの音が入っている。「DOWN BY THE MAINSTREET」のレコーディングの時は、フェンダー・ローズ・エレクトリックピアノやハモンドB3オルガンといった、本物の楽器を使っていたのに、J.BOYのレコーディングでは殆ど使っていない。今思えば「何で?」と首を傾げたくなるが、86年当時はやはりそういう時代だったのだろう。 
 「勝利への道」や「路地裏の少年」での古村くんによる躍動感溢れるアレンジも、他のメンバーのアレンジと違って、イギリスっぽいアプローチで古村くんらしい尖ったサウンドが格好良い。
 「路地裏の少年」もとても長い曲になったため、リズム録りは大変だった。1テイク録り終える毎に、どっと疲れたのを覚えいてる(笑)ぼくがこのアルバムで一番好きな曲は
 「19のままさ」。浜田さんの書くプロテスト・ソングも嫌いではないが、ぼくは浜田さんのメロディックでセンチメンタルな雰囲気の曲が特に好きだった。「19のままさ」は町支さんのアレンジも素晴らしくて、ぼくは町支さんの考えたイントロのピアノのフレーズを、レコーディングの時に感動しながら弾いた。
 「八月の歌」と「こんな夜はI MISS YOU」も 町支さんのアレンジ。 「八月の歌」では、ぼくはアコースティックピアノを弾いた。シンセは福ちゃんこと福田裕彦さんが演奏している。
 「こんな夜はI MISS YOU」は町支さんとドラムの高橋さんの共同アレンジ。高橋さんはリズムマシンのプログラミングを担当した。過酷なツアーのヒトコマを描いた小品だが、ぼくはとても好きな曲。 J.BOYのレコーディングは締め切り日が決まっていたため、終盤になると大忙しとなった。時には二つないし三つのスタジオで作業が同時進行していて、あるスタジオでダビングが終了したばかりのテープを、エグゼクティブ・プロデューサーの鈴木幹治さんが抱えて別のスタジオに持って行き、そこで待機しているミュージシャンがそのテープにダビングしたりと、終盤は綱渡りのようなレコーディングが続いた。レコーディングの最後のほうは、自宅からそう遠くない目黒川近くのスタジオでのダビングが多かったので、ぼくは自転車でスタジオに通った。長かったレコーディングも終わり、最終ミックスはロスアンゼルスで行うことになっていた。アレンジを担当したぼく達バンドのメンバーも、当然ミックスに同行するものだとばかり思っていたのだが、ミックスには浜田さん以外には事務所とレコード会社のスタッフ、カメラマン等が同行することになり、ぼく達はミックスに立ち会うことが出来なかった。何だか腑に落ちないものを感じながら、ぼく達はレコーディングした音を渡米するスタッフに託した。ロスでのミックスを終えた音を聴いて、ぼくは複雑な気持ちになった。ミックスを担当したのは、ジャクソン・ブラウンやTOTO、ドン・ヘンリー等のアルバムのミックスを手がけていたグレッグ・ラダニー。ぼくはジャクソン・ブラウンの「The Pretender」や「Running On Empty」等のアルバムの音がとても好きだったので、大いに期待してグレッグのミックスしたJ.BOYを聴いた。グレッグのミックスしたサウンドは、タイトで音像がくっきりとしていてリバーブも浅めで、確かにLAっぽい乾いた音をしていたが、いかんせん全体的に小じんまりとしていた。そしてぼくがアレンジした際にイメージしていたサウンドとは少し違っていた。J.BOYが完成して少し経った夏のある日、ぼくは下北沢で浜田さんとばったり会った。お茶でも飲もうと言うことになって、近くの喫茶店に入った。自然と話題はロスでのミックスを終えたばかりのJ.BOYのことになった。浜田さんから感想を聞かれたぼくは、アルバムを聴いて自分が感じたことを率直に伝えた。そんな経緯もあってかどうかは分からないが、J.BOYは
 1999(平成11)年09月8日(水)にリミックス、リアレンジ、リマスタリングが施されてリイシューされた。その内容は1986(昭和61)年版のオリジナルバージョンのJ.BOYとは別物と言っていいぐらいにかなり違っていて、ぼくは99年版を聴いてますます複雑な気持ちになった。 二枚組アルバム「J.BOY」は、
‡1986(昭和61)年09月4日(木)に発売されると4週連続でチャートの一位になった。ツアーに出ていたぼく達は、初のアルバムチャート一位獲得の知らせを旅先で聞いた。初の一位獲得で沸き立つ周囲の喧噪をよそに、ぼく達は快挙の知らせをまるで人ごとのように感じていた。J.BOYは今の耳で聴くと結構ポップな印象を受ける。そして全編を通して伝わってくる勢いが凄い。サウンドに悔いは残るが、浜田さんのシンガー/ソングライターとしての創造力と、バンドの勢いが最初のピークに達した作品だと思う。
 2016(平成28)年11月9日(水)に"J.BOY" 30th Anniversary Editionが発売される。
オリジナルバージョンの86年版J.BOYも、リマスターが施されて2枚組アナログ盤でリイシューされるとのこと。今回のリマスターで、どこまで音質が向上しているか楽しみだ。
 写真◆J.BOYツアーパンフより。 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 浜田省吾 #30 "I'm a J.Boy" ┃
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 2016(平成28)年09月10日(土)
‡1986(昭和61)年09月04日(木)、浜田省吾さんの二枚組LP「J.BOY」が発売になりました。それと同時に過去に類を見ない大規模なコンサートツアーが始まりました。今回はそんなON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"ツアーの話です。
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‡1986(昭和61)年09月04日(木)京都会館から始まり、翌
 1987(昭和62)年04月06日(月)の那覇市民会館で幕を閉じた浜田省吾「On The Road I'm A J.BOY」は、合計で85本のスケジュールが組まれていた。そしてこのツアーから、ぼく達バンドにも大きな変更があった。まず新メンバーとして、アルバムJ.BOYのレコーディングから加わったドラムの高橋伸之くんがツアーにも参加することになった。そしてもうひとりのキーボードに梁邦彦くんが加わった。また初めての試みとして、ホーンセクションがツアーにも帯同することになった。メンバーは
 トランペット:小林正弘
 トロンボーン:清岡太郎
 サックス:中村浩 そしてもう一人のサックスはおなじみ古村敏比古くんの4人。他にもJ.BOYツアーで変わったことは、ベースの江澤くんが鍵盤ベースも使用する事になったこと。彼のポジションにはヤマハのシンセサイザーDX7がセットされて、ベースギターと鍵盤によるシンセベースを曲によって弾き分けると言う、当時としては画期的な試みに挑戦した。今までもあまり語られることは無かったが、この時の江澤くんの試みはぼくは快挙だったと思っている。現在に至るまでいわゆるベーシストで、ステージ上で鍵盤ベースをプレイする人物は殆どいないと思う。彼は天才的なものを持っていた。ぼくの機材まわりも大きく変貌した。まずそれまでのツアーで使用していた、KAWAIのエレクトリック・グランドピアノを辞めて、代わりにテクニクスから新たに発売されたデジタルピアノ「SX-PX1」を使う事にした。新たにぼくのポジションに「SX-PX1」が二台置かれることとなった。テクニクスのピアノは、ぼくが実際に演奏してみて感じたフィーリングを何度もメーカーに伝え、ぼくの意見をフィードバックしてもらって、ぼくの好みのタッチと音色にチューニングしてもらった。おかげで素晴らしい音色と弾きやすいタッチのピアノになった。シンセサイザーも一新した。新たにヤマハDX5とオーバハイム・エキスパンダー、そして時にプロフィットT8という布陣になった。バンドの名前もそれまでの「His New Band」から約二年ぶりに「The Fuse」名が復活した。
‡1986(昭和61)年09月04日(木) ツアーは京都会館での初日を無事終え順調に進んでいた。今回のコンサートは二部構成の毎回三時間超えの長丁場で、時には三時間半を超える事も珍しくなかった。当時はまだ若かったとはいうものの、コンサートを終えた後の疲労感は半端じゃなかった。ツアー中に一人でも倒れたらコンサートは成立しなくなる。そのためぼくは今までにも増して、身体のケアに気をくばるようになった。ツアー中に羽目を外すことも勿論あったが、ツアーが終了するまではコンサートの無い時でも常に緊張感を持って過ごしていた。新しく加入したバンドメンバーとの関係は良好だった。ぼくもキーボードの梁くんとプラベートでも一緒に食事に行ったりする仲になった。梁くんのクレバーでおおらかな人柄はすぐにみんなから好かれるようになった。ドラムの高橋くんとはJ.BOYのレコーディングを共にしていたので、すでに気心知れる間柄になっていた。彼の生真面目な性格はドラムのプレイにも良く現れていて、その一糸乱れぬビートはバンドのサウンドをよりタイト&シャープにした。J.BOYツアーの中でもぼくがひときわ印象に残っているのが、
 1986(昭和61)年10月20日(月)、ぼくの30才の誕生日に松本市社会文化会館で行われたコンサート。
 1986(昭和61)年10月14日(火)富山、
 1986(昭和61)年10月15日(水)福井、
 1986(昭和61)年10月17(金),18日(土)長野でのコンサートを終えたぼく達は、
 1986(昭和61)年10月19日(日)は松本への移動日でオフだった。そこでメンバーのうちの何人かは一旦東京に戻る事になった。東京への戻り組はぼくと江澤くん、古村くんと梁くんの四人だった。
 1986(昭和61)年10月21日(火) 次の日、松本までぼく達四人は一台の車に便乗して中央高速を快調に走っていた。すると途中で事故渋滞に巻き込まれて、まったく動かなくなってしまった。でもすぐに渋滞は解消されるだろうと、まだこの時点では高をくくっていた。時間はまだたっぷりあった。午後三時までに会館に着けば大丈夫なので、気持ちにもゆとりがあった。しかし一時間経っても一向に渋滞は解消されないどころか、わずか数キロしか進まない。松本まではまだかなりの距離があった。やがて二時になり、やがて会館入りのリミットである三時を過ぎてしまった。高速を降りて下道を走ることも考えたが協議の結果、下で行ったら開演時間には間に合わないだろうという結論に達した。どうにか最寄りのSAに入り、マネージャーの岩熊さんに電話で到着が開演ギリギリになってしまうかもしれない旨を伝えた。18時過ぎ、ようやく会館に到着した。楽屋口で岩熊さんが仁王立ちで待っていた(笑)客席はすでに開場していてたくさんのお客さんが入っていた。結局この日は先に入っていたメンバーの簡単なサウンドッチェックぐらいしか出来なく、リハーサル無しで本番を迎えることとなってしまった。しかしアクシデントがあった時のコンサートはなぜか盛り上がるもので、この日はいつにも増して熱いコンサートになった。セットリストは以下のとおり。
  ON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"
 1986(昭和61)年10月20日(月) 松本市社会文化会館
  01.A NEW STYLE WAR
  02.HELLO ROCK&ROLL CITY
  03.DANCE
  04.AMERICA
  05.A RICHMAN'S GIRL
  06.想い出のファイヤーストーム
  07.晩夏の鐘(インスト)
  08.悲しみの岸辺
  09.もうひとつの土曜日
  10.勝利への道
  11.路地裏の少年
  休憩
  12.反抗期
  13.MAINSTREET
  14.MONEY
  15.DADDY'S TOWN
  16.19のままさ
  17.遠くへ
  18.八月の歌
  19.マイホームタウン
  20.BIG BOY BLUES
  21.J.BOY
  アンコール:R&B Medley
  You Can't Hurry Love(ザ・スプリームス)
  A Thousand Nights(浜田省吾)
  Unchained Melody(ライチャス・ブラザーズ)
  Trying to Live My Life Without You(オーティス・クレイ)
  Proud Mary(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)
  Just One Look(ドリス・ トロイ)
  Hold On I'm Coming(サム&デイヴ)
  メンバー紹介(各々ソロ廻し)
  The Land Of 1000 Dances(ウィルソン・ピケット)
  土曜の夜と日曜の朝(浜田省吾)
 "I'm a J.Boy"ツアーの白眉はアンコールのR&Bメドレーだった。このメドレーのタイトルは出典によっていろんな記述がなされている。「Sweet&Sour(スウィート&サワー) Medley」と表記されているものもあれば、「Sweet&Soul(スウィート&ソウル) Medley」と表記されているものある。ぼくの記憶では後者だったような気もするのだが定かではない。このアンコールでのR&Bメドレーは、浜田さんが十代のころに良く聴いたり歌ったりした曲をチョイスして、その中に自分のオリジナルのR&Bナンバーを織り交ぜるという趣旨のメドレーだった。一曲目の「You Can't Hurry Love」から、途中メンバー紹介の各人のソロ廻しを入れて、最後の「土曜の夜と日曜の朝」までノンストップ、ビートが途切れることなく歌いっぱなし、演奏しっぱなしの約三十分にも及ぶメドレーだった。これは約三時間の本編を終えた後に演奏するのは本当にキツかった。この日のアンコールでとても嬉しかったのは、メンバー紹介のソロ廻しの箇所でぼくの番になった時、J.Honesと命名されたホーンセクションの連中が即興で「ハッピーバースデイ」を演奏してくれて、それに乗せて浜田さんとお客さんが歌ってくれたこと。全くのサプライズだったのですごく感激した。軽くメドレーの曲を紹介すると、
 You Can't Hurry Love(恋はあせらず)は1966年にスプリームス(シュープリームス)が発表した曲で、全米二週連続一位に輝いた。1982年にはフィル・コリンズがカバーしてヒットした。
 Unchained Melody(アンチェインド・メロディ)は1955年の曲だが、有名なのは1965年にライチャス・ブラザーズが発表したバージョン。浜田さんもライチャス・ブラザーズのバージョンを、町支さんとのデュエットで披露した。
 Trying to Live My Life Without You(愛なき世界で)は1972年にオーティス・クレイが発表した曲。メンフィスソウルのいかしたナンバー。
 Proud Mary(プラウド・メアリー)は1969年にアメリカのバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が発表した曲。アイク&ティナ・ターナーやエルヴィス・プレスリー等、数多くのミュージシャンがカバーしている。
 Just One Look(ジャスト・ワン・ルック)は1963年にドリス・ トロイが発表した曲。リンダ・ロンシュタットがカバーしたことでも有名。
 Hold On I'm Comingはサム&デイブが1966年に発表した曲。全米R&Bチャート一位に輝いた。
 The Land Of 1000 Dances(ダンス天国)はウィルソン・ピケットが1966年に発表した曲。オリジナルは1963年のクリス・ケナー。ウォーカー・ブラザースやJ・ガイルズ・バンド等もカバーしている。
 このR&Bメドレーは歌うのも演奏するのも本当にキツかったが、ぼくも大好きな曲ばかりだったので本当に楽しかった。浜田さん初の二枚組No.1アルバムを引っ提げての、三時間半に及ぶロック絵巻を全国85本のツアーで披露する試みは、当時の日本の音楽シーンにおいて例を見ない桁違いのスケールのツアーだった。そしてぼくもその中の一員であれたことを感謝すると共に誇らしく思っている。あれから三十年、ぼくも今年で還暦を迎えるが、気持ちはあの頃と少しも変わっていない。
 写真◆ぼくがJ.BOYツアーで使っていたテクニクスSX-PX1。     
 写真◆J.BOYツアーのコンサートチケット。 
 http://air.edisc.jp/ima/
 ①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/07/28-jboy-1.html
 ②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/08/29-jboy-2.html
 ③http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/09/30-im-jboy.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
 Q:今の日本に必要なものは、何だと思いますか?
 A:J.BOYですヨ(=^◇^=)O♂・・・OK♂♀
 http://www.uta-net.com/song/2385/
 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14146875994

 ♪BIG BOY BLUES♪1985
 ♪BIG BOY BLUES♪1986
 ♪BIG BOY BLUES♪1999
★中曽根康弘★
 1918(大正七)年05月27日 生誕
†2019(令和元)年11月29日 101歳没
 https://ja.wikipedia.org/wiki/中曽根康弘
■中曽根康弘と失われた30年
 1.国賊ほど長期政権 https://youtu.be/lfVJrbi134Q
 2.慰安婦強制連行 https://youtu.be/vWyzRhCp77g
 3.ロッキード事件 https://youtu.be/V2iy1dDD3jQ
 4.JAL123便事件 https://youtu.be/TAQB0tZSJME
 5.原発利権 https://youtu.be/vd3QJkZs6ws




J.BOY! 吹き飛ばせ 悲しみってやつを! J.BOY! 受けとめろ その孤独ってやつを!(●◇●)♂

   ┏━━━━━━━┓
   ┃ON THE ROAD'86┃
   ┃ I'm a J.BOY ┃
   ┃ 1986.9.4    ┃
   ┃at KYOTO CITY ┃
   ┗━━━━━━━┛

  1. A NEW STYLE WAR
 ★2. 終りなき疾走
  3. DANCE
  4. HELLO ROCK & ROLL CITY 
 ハロウ広島CITY 
   全歌詞歌う
<歌詞を省略せずに全歌詞歌う。>
<CDで、大阪CITY~東京CITY~広島CITYと③回地名を歌っている箇所を、通常ライヴでは、その日行なわれているライヴ会場の地名が叫ばれるのであるんでアリ・マッスルOK♂♀....だが、21年前の今夜のこのライヴテープに刻まれているのは.....、全て“京都CITY”と歌われるのだろうと思って聴き耳をタテテいたら...意表をついて、3回目の広島CITYのところを【広島CITY!】とCDと同じ地名が歌われたんでアリ・マッスルOK♂♀(^◇^)♂ コレには正直、ぶちびっクリしたんでアリ・マッスルOK♂♀ このテープを1996年の初秋に聴いた時のTΦMMYちゃんの間奏...感想でした(^◇^) >

 HELLO~京都CITY How're you doin' 気分はどうだい!?

 どうもありがとう!(^◇^)♂

やあ~ぁ 久しぶりです。座って
<客席から熱烈な単独のチラホラSHOGO コール>
え~ぇ本当に京都は久しぶりでつまり去年のねツアーが俺たちの作った照明がバカデカすぎてこの会館に入らなくて
え~ぇ出来なかったわけで府中体育館を~ォ 府中じゃない(笑)。府立体育館をあのう借りようと思ったら何故か?外タレはOK♂♀だけど日本のアーティストはダメだということで涙をのんでできなかったんだけど、そのかわりツアーをやってるもう途中から次の86年のツアーは必ず京都から絶対スタートしようっつって ねえ~ぇ
<拍手>
みんなと決めてたんだ。え~ぇというわけで今日は新しいセットだし新しい歌を何曲か歌うし緊張感もあるしだからすごい新鮮な気持ちもあるしえ~今年のツアーの幕開け京都で素晴らしい夜にしたいと思ってます。最後までよろしく。
<超大文寺京都的拍手>
ところで今日俺の新しいアルバムが出たんだけどもう~聴いて呉たかな(^◇^)♂
え~ぇこれから歌う何曲かの歌はそのアルバムからです。
え~ぇ気に入ってもらえるとすごいうれしい。

ワンツーワンツスリーフォー <町支さんのカウント??>
 5. AMERICA
 6. A RICH MAN'S GIRL
 7. 想い出のファイヤー・ストーム

HEY!ドラムス高橋伸之!
どうもありがとう!

 8. 晩夏の鐘(インストゥルメンタル)
 9. 悲しみの岸辺

♪最後は♪⇒♪いつもは♪・・・・・・歌詞間違えて少し飛んだ☆\(●◇●)/☆
まだ歌いなれていなかったんでアリ・マッスルOK♂♀

 10. もうひとつの土曜日
 11. 勝利への道

♪まるでストレンジャー♪⇒♪いつもストレンジャー♪

 12. 路地裏の少年 

どうもありがとう。ええ~ぇここで10分、休憩したいと思う。あ~ぁぁべつにハーフ・タイム・ショーも何もないけど、ええ~ぇ今夜は少し長いコンサートになるんでみんなもゆっくり休んで。すぐ戻ってきます。


〔INTERVAL〕 

 13. 反抗期 
<間奏>
  OK♂♀ピアノ
  サキソフォ~ン!
   ♪逃げ出した所で
 HEY!OH!イエー!ワン・ツー・ワン・ツー・スリー・フォー☆\(●◇●)/☆と♪MAINSTREET♪へとグッドハイテンションバイブレーションのままなだれ込むところがぶち最高にカッコイイんでアリ・マッスルOK♂♀☆\(^◇^)/☆

 14. MAINSTREET 
この歌歌えるかい? 一緒に歌って呉るかい? OK♂♀オールライト!ワンツーワンツーすり~!フォー
ぶちノッテルSHOGOと京都CITYの観客

どうもありがとう。(●◎●)♂

 15. MONEY 
 16. DADDY'S TOWN 
<♪マイホームタウン♪のイントロがStartin'するが、間違いに気づき♪DADDY'S TOWN♪に一気に変化しマッスルOK♂♀(^◇^)>

ここでみんなにこのツアーから新しく参加してくれたシンセサイザーのえ~ぇ 彼を紹介したい。
シンセサイザー~梁邦彦!
そしてドラムス!高橋伸之!
まあ~ぁ座って
何?
昨日~昨日あの~ぅ京都に来てホテルに入って、あ~ぁまたこの暮らしが始まるなあと思ったの。
あの~ぅよく最近人にね、「浜田いつまでツアーやるんだよ~ぉ オマエ腰痛くないかとかね。」
 <観客大爆省>
まるで人のことをを40か50のオッサンみたいに言うんだけど....
まあ確かに俺は33で16や18のね..人に比べればはるかにこう年を取っているわけだけれど...
だけど自分ではなかなか今までいろんな失敗をしたり...
たくさんマチガイをやったりなかなか自分では成長しないなあと大人になれないなあと...
最近でも少し...少しだけかな..大人になってきたかなぁと自分でも評価はしてるんだけど...
え~ぇ 昨日<1986年9月3日>もホテルの部屋でね12年前<1974年5月15日>のことを想い出して...
12年前何があったかというと...初めてプロとしてステージに立ったのが京都行く度に言うんだけどこのホールでね。
俺はまだ二十歳??喉が締め付けられるようになってごはんがマッタク通らなく...喉を通らなくて...
昨日はアッサリ飯も食べてきまして...ベッドに入ってさあ眠くなったきたなあ...
ああ俺も12年たったが成長して12年ぶりの初日が京都だというのに????
あがらないなあ...すぐ寝れそうだなあ~ぁと思いながら4時になってしまったんだ(笑)。
 <観客大爆省>
それから1時間おきに目が覚めるっていうね(笑)。結局9時半に起きてしまったっていう。
やっぱり緊張してたのかどうかしらないけど...
え~ぇ だけどこうやって毎年になるかどうかわかんないけど
京都に来るたびにみんなに会えてこれからみんなと一緒に少しずつ少しずつ成長していけたらすごいいいなあと思ってます。
そして...
 <観客大拍手>
そして俺がみんなを見てても...みんなが俺のことを見てても
満更<まんざら>年をとるのも悪くないなあ~ぁぁぁ..
なんていう感じで一緒に年をとっていけたらいいなあと思いマッスルOK♂♀(^◇^)♂ 
 <観客大拍手>

★17. LONELY

どうもありがとう! ピアノ・板倉雅一、サキソフォン・古村敏比古、ベース・江沢宏明、ギター・町支寛二、THE FUSE!
え~ぇ 次に聴いてもらう二つの曲は...もう12年...か?もっと前に作った歌で...
もう絶対に今の自分には書けないような歌なんで今回のアルバムに入れたんだけど...
え~ぇ そうね、1970年代の初期に10代から20代に..
こう移っていった少年の歌で主人公の男の子がどんな男の子かっていうと...髪が肩ぐらいまであってね。
ディヴィット・リー・ロスみたいなヤツ.......<キーボード???を一音鳴らす>
ディヴィット・リー・ロスのキライなヤツがいるな(笑)。
あのぐらい髪があってね。それから、まあ~ぁ 着てるもんといったらいつもアルバイト先でもらった油のシミのついね..
カーキー色の作業服を着ててね。ジーパン履いてワークブーツ履いて......
それから..初めてガールフレンドができて<神奈川>大学入ってね...
やっとの想いでデートして下宿のアパートに来たら
その彼女がホントにウンザリするほどレコード聴かせてね。
話す話しはロックの話しかしないっていうね。
ふと気がつくと相手がシラケているということに気がついて...
思わずガムシャラにキス(^3^)-ぶッChuしようとして軽蔑されるというタイプの主人公で...
決してクルマにサーフボード乗っけてるようなカッコイイ男の子じゃない..誰のことだろう?そんな男の子の歌です。

 18. ♪ユア・ブライト・ベイビー・ブルース♪~19のままさ 
 19. 遠くへ 
 20. 八月の歌 
 21. マイホームタウン 
 22. BIG BOY BLUES 

 今夜はどうもありがとう!
  またみんなに会えるのはえぇん..随分<ずいぶん>先になってしまうかもしれないけど...
   必ずまた会えるまで元気で...
        そして頑張って!
          今夜はどうもありがとう!
 23. J.BOY

  J.BOY!
    胸を張って答えてくれ!
   俺たちここまでまっすぐ走ってきたし
   これからもそうすると...(♪午前4時と歌われる前の間奏の前の言葉)

  J.BOY! 打ち砕け 日常ってやつを
  J.BOY! 乗り越えろ もう悲しみってやつを
 ▼J.BOY! 吹き飛ばせ  悲しみってやつを▼
 ▲J.BOY! 受けとめろ その孤独ってやつを▲ 

  今夜はどうもありがとう!(SHOGO)
  ワン・ツー・スリー・フォー!(町支さん)   

<①J.BOYツアー初日でまだ、歌いなれていないのか?♪彼女をバイク...♪と言いそうになりながらも♪ベッドに残し...♪と歌いなおす。>
<②♪J.BOY♪の最後の歌詞を㊤↑のように <▼▲マークで示してアリ・マッスルOK♂♀> 間違えるが...これはJ.BOYツアー初日のとっても貴重で尊い間違いなんでアリ・マッスルOK♂♀
  わしもドラえもんにタイムマシーンに拝借して21年前の今夜のライヴにバック・トウ・ザ・フューチャーして肌で①番最初に演奏された生まれたばかりの♪J.BOY♪を聴きたくてたまらんエゴだらけのどうしようもない欲望にかられてしまいマッスルOK♂♀ 今夜はこのテープの余韻に浸りながら...そんな初秋の夜長になりそうなんでアリ・マッスルOK♂♀(^◇^)>

<観客に初めて♪J.BOY♪が演奏されたんでアリ・マッスルOK♂♀ まあ~、『J.BOY』の㊥の曲は全て21年前の今夜演奏されたんでアリ・マッスルが....この♪J.BOY♪はイントロからもう鳥肌が立ち☆\(^◇^)/☆ 言葉にならん程の史上の最大の至上の格別感を感じたんでアリ・マッスルOK♂♀(^◇^)♂ >

☆\(●▽●)/☆
♪マイホームタウン♪~♪BIG BOY BLUES♪~♪J.BOY♪のグッド・クライマックスな曲順は、わしが①番好きな曲順なんでアリ・マッスルOK♂♀
この曲順でMDに録音してよく③①号から2号線~西広島バイパス~大竹CITY...たまに岩国CITYまでブッ飛ばし海沿いいの188号線から
SHOGOもこの曲順にはかなり気に入っていたのか? 今のわしと同じ年の③⑦才の時の“ON THE ROAD'90”の時の本編のクライマックスには、再び♪マイホームタウン♪~♪BIG BOY BLUES♪~♪J.BOY♪の順番で歌って呉たんでアリ・マッスルOK♂♀☆\(^◇^)/☆


      今夜はどうもありがとう!<アンコールに入る前に>

 E1. SWEET & SOUR MEDLEY
      ♪恋はあせらず♪~
      ♪A THOUSAND NIGHT♪~ 
      ♪アンチェインド・メロディ♪~
         Thank you! 
         子供の頃はね...ラジオばっかり聴いてる男の子でラジオと一緒によく歌を歌ってた
         今夜はたまにはそんな歌も歌ってみたいなあと思って
         たとえばこの歌は13の頃聴いた歌です。<町支さんとのデュエット>
      ♪トライング・トゥ・リブ・マイ・ライフ・ウイズアウト・ユー♪~
         メンフィスの古いリズム&ブルースで、オーティス・クレイが歌ってヒットさせた歌です 
      ♪プラウド・メアリー♪       
      ♪ジャスト・ワン・ルック♪~
      ♪ホールド・オン・アイム・カミング♪~
         この歌知ってるかい?
         メンバーを紹介したい ドラムス・高橋伸之!、ベース・江沢宏明、シンセサイザー・梁邦彦、
         ギター・町支寛二、ピアノそしてシンセサイザー・板倉雅一、
         サキソフォン・古村敏比古、THE FUSE!
         そして J-HORNSのメンバーを紹介したいサキソフォーン・中村浩、トランペット・小林正弘、
         そして最後にトロンボーン・清岡太郎。J-HORNS!
         一緒に歌ってくれるかい?♪ナナナナナ~ナナナナナ♪
         ワンツーワンツーすり~!フォー☆\(●◎●)/☆
      ♪土曜の夜と日曜の朝♪
         ウォ~~ォゥ~! みんなのおかげで...アア~ァン...本当に素敵な86年のツアーの幕開けを飾ることができた。
         どうもありがとう!(●◎●)♂
         ワン・ツー・ワン・ツー・スリ~!フォー!☆\(●◎●)/☆<曲間にて>

         どうもありがとう!<演奏終わる間際に>

☆\(●◇●)/☆
ココで一旦、♪滑走路―夕景♪が流れ“ON THE ROAD'86”初日が終わったかにみえたんじゃが....
観客のアンコールの声援がなりやむどころか...激しくなってイキ......


    アンコールどうもありがとう!
    高橋君! でちょっとキザなコトを初めてなんで...
     <SHOGOが、どんなキザなコトをしたのかは....
      21年前の今夜の京都会館にいた観客とスタッフ、バンドメンバー、そしてSHOGOにしかわかりません
      どうしても知りたい方は、夢の㊥で21年前の今夜の京都会館第一ホールに
            バック・トゥ・ザ・フューチャーすることをオススメ致しマッスルOK♂♀(^◇-)-☆ >

★E2. SWEET LITTLE DARLIN'
 
    どうもありがとう!<マイクなしで...>

コンサート終了MUSIC ♪滑走路―夕景♪ が②①年前の京都会館第一ホール内に響き渡る。

☆\(●◇●)/☆
SHOGO、THE FUSE、ツアースタッフ、京都会館第一ホールに集ったみな浜!3時間半の長い間本当にお疲れ③でアリ・マッスルOK♂♀(^◇^)
②①年経った今年もこの夜のSWEET BEAUTIFUL MEMORYと共にSHOGOと一緒にこのタフな時代の中で今日も明日へと生き続けていることをイマジンして本日の終りなき更新を終わりマッスルOK♂♀(^◇^)♂ 

 日本が日本であった頃!!!
 2021(令和三)年02月23日(火) 13:33:21 テーマ:ブログ
 現代日本では、外国人労働者がコンビニや飲食店で当たり前のように働いている。韓国の方や中国、あるいはタイやミャンマー等のアジア人が今では身近に存在しております。アジア諸国の人は、日本人と容姿がよく似ていて、一見「どこの国の人なの?」と判別が難しいのですが、筆者は何となく分かってしまうのであります。皆様は、以下の女性の国籍は、それぞれ何処だと思いますか?皆さん、分かりましたでしょうか?ということで、次の動画をご覧下さい。M. suzuki さんの動画より 先の素敵な女性達は、全員日本人なのです。(恐らく)昭和時代は「一重まぶた」の女性・男性が多かったのでした。PVに出演していた方々は、今では50歳を超えている。
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12658472591.html

◆削除動画◆https://youtu.be/TyzALWjZL6Y【1時間】
 ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"
 浜田省吾!最高のベスト11曲 80年代の名曲ライブ
 浜田省吾にとって初のオリコンチャート1位を獲得したロック・アルバムの金字塔、「J.BOY」を引っさげて、
‡1986(昭和61)年09月04日(木)、京都会館からスタートさせた"ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"この動画では、
 1986(昭和61)年12月12日(金)北海道は月寒グリーンドームで行われた公演からの11曲をお楽しみいただけます。J.BOYツアーは、
 1987(昭和62)年04月06日(月)の那覇市民会館での公演にて、大成功のうちに幕を閉じました。(「J.BOY 30th Anniversary Box」に収録されているDVDでは、2ヵ月ほど前の
 1986(昭和61)年10月05日(日)に行われた、代々木オリンピックプールでの模様が収められています。)

◆映像◆【参政党】家族に聞かせたい!
 300人が立ち止まる武田邦彦の圧倒的な街頭演説!https://youtu.be/Ce5-JElCqL4
  2022(令和四)年06月17日(金) 10,704回視聴21:43 2022/06/22(水)
 2022(令和四)年06月11日(土) 街頭演説@吉祥寺 武田邦彦 フルVer
 00:00 武田邦彦先生
 00:27 日本が昔は発展出来た理由
 02:35 何故日本は衰退したのか?
 04:50 今我々が不幸せになってしまった理由
 07:32 多様な生き方が政策に反映されない諸悪の根源
 08:05 英語教育なんて全く要らない理由
 13:07 日本の産業が潰れた理由と犯人
 14:12 小池都知事と小泉環境大臣は環境の素人
 16:34 我々の孫は中国のコンビニへ出稼ぎに…
 17:55 日本文化が世界一優れている理由
 21:24 イクメンは科学的に間違っている
 30:45 こんな屈辱ありません!
 33:48 100人超のサイン会(お疲れ様です!)
 コメント・・・こんなに色んな視点を学べる街頭演説、聞いた事ありません…79歳にして連日全国の街頭演説。しかも参政党は旅費や宿泊費すら自費だそうです…この講演の直後に100人超のサイン会、その1時間後に3時間の講演会はハード過ぎです笑
■日本という国は実際にはない???
 2022(令和四)年06月11日(土) 12:03:25 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア425位
 よく近頃は、「救急車がピーポーピーポー言って大変だね」と周りの知人から話を聞かされる。ようやく、「人々も気づいてくれてきたかな?」と、筆者は思った。しかし、よくよく会話を聞いてみれば、「コロナは怖いわね」というオチになるのでした。そうではなく、ワクチンが恐ろしい事に世の中の大半の人間は気が付かないのであります。コロナワクチンの後遺症は、後を絶ちません。日本においても、既に数十万人が亡くなっていると思われます。また、歴史を振り返れば、1960年前後に「サリドマイド事件」が起こりましたが、これは妊婦がこの睡眠薬を飲むと奇形児が産まれるという出来事であったのでした。世界では約1万人の被害があり、日本においても数千人の被害者が出たのです。勿論、サリドマイドは発売中止となったのであります。しかしながらも現在、日本国政府は4回目のコロナワクチン接種を推奨しているのです。なぜ?これ程までに危険なワクチンを国民に押し付けるのでしょうか?日本という「国」は、一体どうなっているのでしょうか???ということで、次の動画をご覧下さい。これでは、新しい「政党」が現れても意味がないのです。
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12747665907.html
■日本という国は実際にはない。
 アメリカから指示が来ている。
 2022(令和四)年04月17日(日)
 https://www.facebook.com/watch/?v=1036803923572913&ref=sharing
 映像◆日本という国は実際にはない。 アメリカから指示が来ている。
 https://odysee.com/@%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB:8/signal-2022-05-21-20-38-50-418:5
 映像◆日本という国は存在しない
 https://odysee.com/@PYONTAKA:3/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84:a
■誇りを失った日本人!!!
‡2022(令和四)年06月26日(日) 19:16:04 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア41位
 先日、筆者は年配者と話をする機会があった。年配者曰く、「戦後生まれの日本人は、同じ日本人だと思いたくない!」と、言い放った。その年配者は、昭和15年生まれで82歳だとのことです。それもその筈で、戦前までの日本人というのは、「お国の為」、「人の為」に尽くすのが人間としての基本的な生き方だったのでした。ところが、戦後はGHQによる「愚民化教育」の弊害により、「国家の役に立つ人間」は、以後排出出来なくなってしまったのであります。自民党は、相変わらず「人気投票」を選挙で行っております。筆者の友人は、「どうせ何もできないんだから、税金の無駄だから辞めて欲しい」と、憤慨するのでした。そして、候補者は「在日」ばかりなのです。これで、「日本」という国が良くなるわけがないのです。また、国政選挙に出馬する為には、「お金」がかかりますから一般人にはハードルが高く、これによって「まともな人」を選挙から除外しているのであります。プロ野球の監督であれば、2・3年で「結果」が残せなければ、当然「解雇」されるのが当たり前なのです。ところが、大物政治家達は私達の生活を壊す一方で、「結果」を残す事は出来ず、「地位」と「高給」に居座るだけではないでしょうか???ということで、次の動画をご覧下さい。
 ♪頼りなく豊かなこの国に・・・♪
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12750356064.html
■ジャパン・アズ・ナンバーワンと現在の凋落!!!
 2022(令和四)年06月12日 13:24:22 テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア283位
 日本は戦後、華々しい経済成長遂げ豊かな国家へと成長した。バブル絶頂期には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言わしめ、世界の頂点に立ったのでした。今から考えれば、「夢」のような話であります。上の表は、「世界の時価総額ランキング」を平成元年と令和元年で比べたものです。これで見ると、平成元年のトップ10には日本企業が7社もランクインしていたのでした。ところが、30年後の令和元年には、トップ10入りは0となってしまったのであります。これは、何という「凋落」ぶりでありましょうか。また、現在は「少子化問題」が深刻となっております。それと同時に、「高齢化社会」にも突入しているのです。そして、現在GDP世界第三位の日本でありますが、いずれ四位に転落することになるでしょう。かつて、家電製品や自動車・カメラ等の「Made in Japan 」が世界を席捲していましたが、今ではその栄華は過去のものとなってしまっています。ということで、次の動画をご覧下さい。
 子供達は何を誇りに、この国で生きていけばよいのでしょうか?
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12747853417.html
■『ルネサンス』「日本」とは何か? 「日本人とは何か?」
 https://in.renaissance-sk.jp/skrs_2104_ppc_gdn
◆映像◆このままだと日本終焉です
 日本の現状を知っていますか?自分には関係ないでは済まされない状況になっています。
 https://www.nicovideo.jp/watch/sm40594464
◆映像◆日本人の99%が気付かない水面下で進む侵略計画https://youtu.be/-oh7YCSoSSc
 2022(令和四)年06月01日(水) 34,221回視聴  2022/06/01
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 #真実の扉 #サイレントインベージョン #拡散希望
 https://twitter.com/chan79140571/status/1533364031683457026

 今年も有難うございました。
 2022(令和四)年12月31日(土) 23:24:13NEW ! テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:シニア196位
◆映像◆https://youtu.be/7dUfaCD5Y0A
 J.Boy (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")
 浜田省吾 Official YouTube Channel さんの動画より
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12782036944.html

 ON THE ROAD 86 ”I’m a J.BOY” 
 http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/31535342.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/maeda_51311/4181970.html

◆映像◆http://video.fc2.com/content/20140228zbD7LdCv
 日本人の誇り☆奇跡の日経野球チーム バンクーバー朝日軍
 2014(平成26)年02月27日(木)『奇跡体験!アンビリバボー』

 私は元在日韓国人です。愚痴らせてください。
 http://okwave.jp/qa/q7377834.html

 99.『J.BOY』
‡1986年9月4日_アルバム『J.BOY』は発売された。
 99. J.Boy|大西恵子@機能改善士®️ (note.com)