とある先生から、君はヘーゲルも知らないのかと言われ、哲学の(超)入門書を購入。
まず、「哲学」とは何か?
本書の第一章は、ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900, Germany)から始まり、彼の紹介を通じて、「哲学」とは、価値について考えることであり、既存の価値観を疑いその価値の正体を解き明かすこと、とする。
すなわち、ニーチェは、『宗教が善悪を教えてくれる』という既存の価値観に対して、『神は死んだ』とし、これからは神や正義に対して冷めた見方を取る人(=末人)が増えると予見した。加えて、そのような末人に対して、ご丁寧にも末人が進むべき道を発明してくださり、そのような冷めた(ニヒルな)価値観(=ニヒリズム)を克服するためには、既存の価値観である『未来を生きる、未来に向かって生きる』ではなく、(史上最悪のニヒリズムである「永劫回帰(=永遠の繰り返し)」すら乗り越えることのできる)『何度も味わいたいと思える"今"を生きる、"今"に価値を見出す』という新しい価値観を発明された。
著者によると、近代以降の哲学の流れは、合理主義、実存主義、構造主義、ポスト構造主義、という流れであり、それぞれ、第二章、第三章、第四章、第五章で紹介されている。このブログは、あくまで私の備忘録として、ひとまず、合理主義だけ書き留めておく。
合理主義の章は、近代哲学の祖とされるデカルト(Rene Descartes, 1596-1650, France)から始まる。
彼は、演繹法によって神の存在証明に成功(?)するわけだが、ところで、演繹法とは、「AならばCである。BはAである。よって、BはCである。」、例えば、「人ならばいつか死ぬ、ソクラテスは人である、よって、ソクラテスはいつか死ぬ」とかそんな感じと私は理解している。
では、AならばCであるという前提はどのように証明すれば良いのか?仮に、それが証明できたとしても、それにはどうしても別の前提を必要とする(例えば、人とはこんな定義であり、死ぬとはこういう状態である、みたいな)し、さらに、その前提すらも疑おうと思えば疑えてしまうという無限ループに陥る。では、疑うことのできない絶対的な正しさ(真理)には到達できないのか?
なんと、デカルトは到達した。それが、有名な「我思う、故に我あり」である。これを私なりに意訳すると、「我疑う、故に我あり」である。つまり、「私が今疑っているという事実そのものは決して疑うことはできない、なぜなら、それを疑ったとしてもやっぱり疑っているからだ、つまり、(疑っている)私は存在する」という意味のようである。そして、この究極の真理を地盤に、一気に神の存在を証明してしまうのである(ちなみに私には理解不能)。
これに続くのが、ヒューム(David Hume, 1711-1776, Scotland)。彼は、「神」も「人間」も「正しさ」も人間が勝手に経験から生み出したものに過ぎない、と主張した。例えば、「人間」すらも「知覚」という経験の束にすぎない、とし、まず人間があって何かを知覚するのではなく、まず知覚(温かい、冷たい、固い・・・)があって「それらを感じ続けている固定的な存在=私」が存在する、と主張した。帰納法によって、神、人間、正しさ、を証明するアプローチである。
デカルトの演繹法とヒュームの帰納法に対して、折衷案(?)を提示したのがカントである。
すなわち、カントは、ヒュームの経験に対して噛みつき、経験とは何か?と疑問を投げかけ、経験は、「時間」と「空間」という概念が前提であることを見出した。すなわち、ヒュームは、「神」だって「人間」だってなんであろうと、「人間が勝手に経験から生み出したものにすぎない」と主張したのであるが、カントは、(少なくとも)「時間」と「空間」はそうではなく、むしろ経験の前提として存在するものである、とした。そうすると、人間は「時間」や「空間」のような「生まれつきの概念」や「生まれつきの思考形式」を共有している、ということであり、つまり、人間は共通の「変換装置」を持っている、と結論付けた。ちなみに、この変換装置とは、世界(モノ自体)を経験可能な形式に変換するための装置(精神)のことのようでである。このような経験によらない「生まれつきの概念や思考形式」の存在は「演繹法」が成り立つことを示しており、また、変換装置によって経験可能な形式に変換された経験の束は「帰納法」が成り立つことを示している。
著者によると、このカント哲学は、結果的に以下の2つの失望を生んだ。すなわち、(1) 人間は常に変換装置というフィルターを経由してモノ自体を経験しているのだから(フィルターを経由していない)モノ本来の姿を知りえない、(2) 人間は「生まれつきの概念や思考形式」を持っているのだから、その概念や思考形式の範囲内でしか考えられない、というものである。
ここでヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831, Germany)が現れた。今日の記事は、紙面の都合上(?)ヘーゲルで(合理主義で)終わりにしようと思う。
ヘーゲルは、上記2つの失望に対して超ポジティブに跳ね返したようだ。まず、(1)については、そもそも認識の可能性がゼロなら本当の姿なんでどうだっていいじゃん、「人間の経験によって映し出されているこの世界」を「本当の世界」ってことにしよう、と身も蓋もないことを主張し、また、(2)については、生まれつきの概念や思考形式は「弁証法」によって成長し、やがては絶対精神、万能の存在になるよ、と主張した。つまり、(1)については、「私=世界」ということであえり、(2)については、その世界は「絶対精神」なのだから、認識論のように、「私」が「私とは別個に離れて存在しているもの」を認識するという構図がナンセンスだ、「世界のすべてが私(精神)そのものだ」と結論付けたもよう。
高校時代、倫理の授業を取っていたが、非常に変わった先生で、「私の授業は寝ててもよい」と言ってくれた。私は迷うことなく倫理の時間を部活前の充電時間にあてた。非常に勿体無いことをしたと思う。が、果たして、彼の授業を聞いていたとして、今ほど哲学に興味を持っていたのかどうかは疑問である。当時は、恥ずかしながら、演繹法と帰納法の違いすら理解していなかった。その後、理系の大学に進み、一方で、法律をかじり、演繹法の美しさに魅了された。演繹法こそが論理的に最強と考えるようになった。その後、幸運にも米国ロースクールに留学する機会を得た。英米法では帰納法的アプローチが重視されるが、正直、なぜ国によってアプローチが違うのか、なぜ帰納法的アプローチが根付いたのか、なぜ演繹法ではダメなのか、腹では理解できていなかった。結局のところ、演繹法もルールを疑えばきりがない、疑い始めたら、「我思う、故に我あり」まで遡らざるを得ない、ということであろう。「法と哲学」を勉強したことはないのだが、デカルトはフランス人、ヒュームはスコットランド人ということが、大陸法と英米法の流れを汲んでいるように思えて興味深い。