前回は合理主義まで書き留めたので、その続き。
前回も書いた通り、著者によると、近代以降の哲学の流れは、「合理主義」→「実存主義」→「構造主義」→「ポスト構造主義」であるが、少しおさらいすると、「合理主義哲学」はヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)によって一気に完成させられ、そして終わらされてしまった。どういうことかというと、まず、「合理主義(哲学)」とはその名の通り「理屈に合うこと」を大事にする哲学であるが、その理屈を考えるにあたり、デカルト (René Descartes, 1596-1650)は、人間の認識能力を確かめることから確かめようとした。人間が世界をきちんと認識できないのならば、理屈もへったくれもないからね。これが「認識論」である。で、ヘーゲルは、この認識論を無意味にしてしまった。つまり、認識論における認識云々は、認識する主体と客体とが分かれてるからこそ生じる議論なのだが、いやいや、主体も客体もない(最終的には主体(=絶対精神)だけになる)、としたのがヘーゲルであった。
ところで、そのヘーゲルの主張は、「人間は弁証法的な性質を持っており、誰であろうと、みな絶対精神(すべての対立を解消した究極の精神)を目指して生きている」(本書156頁)というものであるが、この「人間は・・・誰であろうと、みな・・・」は、人間の本質はこれこれこいうものだ、と言い切っちゃう語り口である。これに噛み付いたのがキルケゴール (Søren Aabye Kierkegaard, 1813-1855)である。
キルケゴールは、「物事の本質を語るのはあんたの自由だけど、人間だけは違うからね、人間はそんなふうに一括りにして語れちゃうような存在じゃないからね」的な感じで釘を刺した。本質よりも現実を見ましょう、現実に存在する人間を見ましょう、とする、「実存主義」の幕開けである。そして、サルトル (Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)が現れ、かの有名な(私は知らなかったが)「実存は本質に先立つ (Existence precedes essence)」という有名な格言を残した。話はそれるが、英語の格言は韻を踏んでいて気持ちがいい。日本語だとなんかぱっとしない格言でも英語を調べてみてビビッとくることはよくある。この場合はフランス語だが、まぁ一緒だろう(l'existence précède l'essence)。サルトルは、アンガージュマン (engagement)という一大ムーブメントをプロデュースしたようである。つまり、人間に「本質」なんてない、人生に本質も意味もへったくれもないんだけど、だからこそ、自分の意志で意味とか本質を作っちゃおうよ、的なムーブメントである。これがパリの5月革命 (Mai 68)に繋がるようである。
当時の若者たちを熱狂させた「実存主義」であるが、フロイト (Sigmund Freud, 1856-1939)による無意識の発見をきっかけに廃れていったようである。つまり、自分の意志って言うけどさ、そんなもん本当は存在しないんじゃないの?という疑問である。いやいや(無意識の存在が証明されようとされなかろうと)意志はあるでしょ、というのが普通のリアクションだと思うが、これに対して、「世界には最初から『特定のルール』が隠されており、人間は無意識にそのルールを選んだのだ」(本書214頁)と主張したのが人類学者というのが非常に面白い。彼の名は、レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)。彼は、人類学者として様々な未開社会を渡り歩き、ときに一緒に暮らしたりして、綿密な調査を行い、満を持して(?)かこのような主張をしたようである。未開社会では、それぞれ独自に、じゃんけんぽんや、いとこ同士の結婚禁止ルール等を発明しており、彼らは発明と思っているのだが、実際は単なる発見なのだ、という主張である。この場合の「発明」と「発見」の違いは、意志の有無、といったところか。
この「構造主義」の考え方は、「言語の構造を見てみよう、そしたら人間の本質がわかるかもしれない」といったブームを巻き起こしたようである。常に「本質」を追求したがるのは哲学者の職業病のようなものなのかもしれない。それで、今度は、言語哲学者ウィトゲンシュタイン (Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951)が現れた。そして、彼は哲学をぶっ壊した。哲学を無意味なものにしたようである。彼の哲学は前期と後期に分かれるようであるが、まず、前期は、「言語」とは事実を記述するもの、と定義した上で、愛とか自由とか絶対精神とかは全然事実(この場合は、物理現象をいうものと思われる)を記述していない、だから、哲学は無意味な文字の羅列、と言い切った。が、これは定義の筋が悪い。定義を広げればいいだけの話である。そこで、後期は、前期の定義を取り下げて、「言語」とは、無根拠なルールの集まりでありゲームみたいなもの(キメの問題ということか?)とした上で、だから、言語の枠組みの中で考えられてきた哲学もその延長に過ぎないただのゲーム、的な主張をしたようである(このあたりは理解が追いつかず)。これが「言語ゲーム」と言うウィトゲンシュタインの主張(の私なりの要約)である。
私は特許の世界の住人なので、この言語ゲームというのはなんかしっくりくる。特許クレームや契約書を書くときに辞書を引くことはよくあるが、辞書で用語の説明文を読んだらそれで理解した気になり、その説明文に使われている用語の意味まで辞書で引くことはまずないし、そもそもその作業自体は無限ループに陥るものである。だから、結局は、その用語の意義を追求するというよりは、平均的な人間のうち51%の人間が自分の味方をしてくれるように言葉を選んでいくことになる。哲学を学ぶと、自分の思考のヒントになったり後押しになったりして、他人に対してぶれない軸を持つ上で非常に有益だ、みたいな感覚を最近もつようになってきた。暇を見つけてもう少し研究しみようと思う。