今朝も7時半に起きた。
風呂に小一時間浸り思うとった。厚生労働省の賃金課長が韓国の金浦空港で、酒に酔って空港職員とトラブルを起こして警察に逮捕されたの、国の役人としての自覚に欠け、ほんま情けないと。
朝食は茨城産あきたこまちを炊いて、長崎産真鯵の開きを二枚焼き、ご飯二膳。デザートは栃木産とちおとめ苺。
メモ書きを捜したんやけどが見つからぬ。
カーメン・マクレエのアルバム「キャント・ハイド・ラブ」をCDで聴いた。
北の丸公園迄散歩に出掛け、昼食に入ったのは後楽「バルコ」。シーフードとチキンのパエリアを注文。サラダにドリンクバーが付く。1458円也。
スーパーで食料買うて帰宅したら、また自転車の空気が抜けペシャンコやないかい。自転車屋の親仁が云うた虫ゴムが原因ではなかった。穴の位置からして、やはり狼藉されとったんや。ごっつ腹立たしい。
また自転車屋に行ってパンクの修理。合わせて2000円也。
Wみさんは宮沢賢治の物語を愛しとった。今も繰り返し読んどるやろ。
昨朝、久し振りにWみさんの夢見たんや。それは一緒に宮沢賢治の本読むもんやった。そのタイトルは「クラムボン」。『やまなし』やなく「クラムボン」。
実際、『やまなし』をWみさんと読んだ事あって、その遣り取りをメモに書き留めたのはよう憶えとる。今日、そのメモ書きを捜したんやけど見つからんかった。
それで、記憶を手繰ってみた。
あの時、Wみさんに読んだ感想尋ねられて、ようは分からん話やけど、印象に残る物語や、ちゅうような事を答えたと思う。
なぜに「クラムボンとやまなし」ちゅうタイトルにせんかったんやろ?そう疑問を呈したの、よう憶えとる。
青空文庫で読み直してみたわ。
この物語は、「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯」として二つに別れとる。五月と十二月や。
五月にクラムボン。
二疋の蟹の子供のクラムボン観察から始まっとる。クラムボンは魚に食われてまうんや。
そのクラムボンって何かをWみさんとふたりで考えたのも憶えとる。水中に居る、多分ちっちゃな虫なんやろちゅう事で意見一致したがな。
クラムボン食うた魚は、飛び込んで来よった鉄砲弾のような青びかりするもんにさらわれる。蟹の親父によれば、それはカワセミや。まず間違いなく魚は食われとる。
Wみさんは云うとったな。流れて行く白い樺の花は、葬送の花やと。
描かれとるのは、食物連鎖ちゅうやっちゃ。
十二月にやまなし。山梨なんやろ。
蟹の兄弟は吐く泡の大きさ競争をしとったんやが、そこに黒い丸い大きなもんが飛び込んで来よった。蟹の親父によれば、熟してええ匂い振りまくそれはやまなし。折角実ったのに川に落ちてしもたんや。旨そうやと云う子蟹に、親蟹は待ったをかけるんや。もう二日ばかり経てば酒になる、と。親父は呑兵衛で、やまなしが落ちて来たの嬉しいんやろ。でも、子蟹にもやまなし酒を賞味させるんやろか?
ここでは何が描かれとるのかちゅうと、やはり食われるもんや。けど、食物連鎖とは違う。
なぜに「クラムボンとやまなし」ちゅうタイトルにせんかったんやろ?その疑問にも答えるようにWみさんは云うた。タイトルを『やまなし』としたのは、やまなしが尊い存在だから、と。
怪訝に思うたワテは反論した。クラムボンよりやまなしの方が尊いちゅうのは納得出来ん。クラムボンも魚もカワセミも蟹もやまなしも同等やないんかい、と。
するとWみさんは、自ら身を捧げる存在として賢治はやまなしを描いとると応じた。
あの時は理解出来んかったが、今日読み直したら身を捧げる存在としてのやまなしを理解した。己が身を捧げ、命が後世に受け継がれて行く。
「けど、命をつなぐ戦略として蟹など水中の生物に食われてもどうにもならんのやないか。土に落ちなあかんやろ」今もワテはそう云うてまうに違いない。そしたら、Wみさんから「S吉は理屈っぽい」と返される。そんな遣り取りになるのは火を見るよりも明らかや。
印象に残る物語や、『やまなし』。
谷川の前に立った時やWみさんの夢見た時など、ふたたびこの物語を思い出したりするんやろなあ。