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戦国時代の情報をいろいろと集めているうちに、ここにたどり着きました。
灯台下暗しとはまさにこのこと。
私の地元、取手市に浄土宗のお寺で本願寺(取手市青柳1-1-57)
がありますが、ここはあの徳川家康の家臣だった本田重次の菩提寺でした。
これまでにまったく知らなかった・・・すみません。
ここが入り口です。
鐘を突く場所がありますね。
本多作左衛門重次は1529年に三河国(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。
なんと7歳のときから家康の祖父、松平清康に仕えていたとか?
1558年徳川家康の初陣に家臣として従い、功を挙げています。
1565年家康が三河国を平定、三河三奉行のひとりになりました。
1586年家康が豊臣秀吉に臣従を誓い、上洛する代償として、
秀吉の生母、大政所が岡崎に下向したときに、
大政所の宿舎に薪を積んで有事に備えたとか?
このことが秀吉の怒りを買ったらしい・・・
重次は気性が荒く、「鬼作佐」と呼ばれていたようで、
家康に対しても遠慮なく諫言していたようです。
1590年秀吉により、小田原北条氏が滅ぼされ、家康の関東移封により、
上総国古井戸(現在の千葉県君津市)にわずか3千石にて蟄居を命じられます。
その後、下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市)に変更された。
そして1596年にこの地で亡くなりました。
人間関係は難しいもので、いわゆる主君を思う気づきで行動したのでしょうが、
それが逆に仇になるとは・・・さぞかし重次の晩年は寂しい思いだったことでしょう。
こちらは境内にある石碑で、重次が長篠の合戦の陣中から妻あてに書いた手紙です。
「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」
このお仙とは当時、幼児であった嫡子、仙千代のことですね。
このお寺の道路を挟んで向かい側には私の母校、
旧取手第一中学校跡地があります。(現在は廃校)
この校庭でかつては私もテニス部で活動していました。懐かしいですね。
あの頃、共に学んだ同級生はいまごろ、どうしているかな?
梅が咲き始めていました。
季節は流れます。