ニッポン哲学(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日3月14日は過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

<2021年3月14日現在>                
PCR検査数    累積8,926,265     2月12日7,481,377     直近30日間1,444,888 
陽性判定数    累積446,873     2月12日411,751     直近30日間35,122 
死者数        累積8,560     2月12日6,774         直近30日間1,786 
致死率        累積1.92%    2月12日1.65%        直近30日間5.09%
(データ元:厚労省「新型コロナウイルス感染症に関する報道発表資料」)     

       

どうして日本では、次から次へと新製品が現れてくるのだろうか。
それは日本の伝統的なモノづくり哲学に由来するというのがぼくの考えである。
日本では、古来モノを作る人を「〇〇師」と呼んで尊敬してきた。
仏像を作る人なら仏師。表具を作る人なら表具師。技術者なら技師。
それだけでなく、特定の技術を持つ人はみな「師」である。
教師・講師・宣教師・牧師・医師・薬剤師・保健師といった「偉い」人だけでなく、漁師・猟師・調理師・調律師・はり師・美容師・理容師といった一般的な職業や、人形師・能楽師・講釈師・漫才師といった芸能人も「師」である。
これはドイツのマイスター制度にも通じるが、マイスターはさすがにお笑い芸人まではカバーしていないだろう。
「師」だけではない。
日本では武士や騎士と同じ「〇〇士」(弁護士・建築士・会計士など)という呼び方で軍人だけでなく、公的な資格を表わし、「一家」を成すという意味で、「〇〇家」(篤農家・作家・画家・声楽家・作曲家・陶芸家・噺家・発明家・起業家など)と呼び、その人が一生かけて追求しているジャンルに対する尊敬の念を表す。
そこまでいかなくても、特殊な技術を持つ人を表す「〇〇職人」という言葉は、たとえ貧しい境遇にあっても、その道一筋に生きている尊敬すべき人というプラスの含意を持つ。
要するに、日本では、身につけた技術や知識を使い、汗水たらして働く人に対して、敬意を表すのが常識である。だからこそ、働く人は、働くこと、モノを造ることに対して真剣に向き合い、絶えずその技術を向上させようとし、創意工夫=「カイゼン」を繰り返す。
それが、日本製のあらゆる商品が毎年改良され、日進月歩でよくなっていく原動力なのだ。
ところが、世界には、汗水たらして働く人は生まれつき「下賤の者」であり、働く必要がなく、天下国家を論じる立場に生まれた人こそ立派な人間であるとする思想がある。
12世紀南宋の朱熹を開祖とする儒教の一派、朱子学がそれである。
朱熹は、君主の存在は天命による絶対のものであるとし、生まれながらの身分秩序を守ることこそ、人間の守るべき「道徳」とした。
朱子学から清代にかけて発展した考証学では、古典に独自の解釈を加える宋明理学を否定し、先人の言葉に依拠しないものは無価値であるとする。西欧の王権神授説や、マホメットが神の言葉を書き留めた『コーラン』やマホメットの言行録『ハディース』にすべての判断基準があるとするイスラム神学に近いともいえるが、朱子学・考証学は、「革命」や「進歩」を否定した正真正銘の保守思想だった。
時の支配者を正当化する論理でもある朱子学は、近世中国の明・清や李氏朝鮮、日本の江戸幕府で「官学」となり、「学問」や「道徳」といえば、朱子学のことをさした。
西欧列強のアジア進出とそれに呼応する近代化の過程で、日本や中国ではあまりにも固陋で弊害の多い朱子学は捨て去られたが、自力で近代化することのなかった李氏朝鮮では、貴族だった両班(やんばん)階級が支配の正当性を守るために、朱子学を温存した。
そのため、近代になっても、朝鮮では汗水たらして働く人は下賤の者であり、自らは一切労働しない両班階級こそ、天命を与えられた立派な人間であるという価値観が残った。
このことは、ぼくが勝手に言っているのではない。
1894年に朝鮮を訪れた英国人旅行作家イザベラ・バード女史の『朝鮮紀行』(時岡敬子訳、講談社学術文庫)にはこうある。


―引用―
美しい地にあるパガミの村には、一本の柱にこう大書してある。「パガミを通る両班の従者は、礼儀正しく品行方正であれば問題ないが、素行が悪ければなぐられる」。なんと痛快な主張であることか!というのも、朝鮮の災いのもとのひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。パガミのはり紙の意味もこれで説明がつくわけである。
(同書、P.137)
―引用終わり―


「無能さが求められる」両班階級と、朱子学に基づく身分制度こそ、朝鮮近代化の障害だった。
そのため、1910年に朝鮮人100万人の請願によって日韓併合条約が結ばれると、日本は両班の特権をはく奪し、奴婢を解放し、莫大な投資をして、本土並みの学校教育制度や、道路・ダム・鉄道などのインフラストラクチャーを整備した。
これにより、35年間の日韓併合時代に、朝鮮半島の人口は3.6倍になり、かつ、一人当たりの所得は当時の金額で40ドルから80ドルに倍増した。
両班階級の暴虐から解放された一般庶民は、欧米列強のアジア植民地化を食い止め、国際社会で五大国となった大日本帝国の国民になったことを喜んでいたのだ。
だが、日本が太平洋戦争で連合国に敗れたため、上海に亡命していた両班の活動家グループ―李承晩一派が、戦勝国アメリカの支援で韓国に戻って作ったのが、現在の大韓民国である。
両班階級にしてみれば、併合時代に日本によってあらゆる特権を奪われたのだから、庶民とは違って「日帝時代は悪夢だった」と思うのは当然である。
そのため、大韓民国憲法前文には、両班の活動家グループが亡命する原因となった反日暴動=「3.1運動の法統」が国是として定められている。そして、政治家、公務員、教師、知識人は「両班の職業」だから、戦後の政治・教育・ジャーナリズムは、悲しいことに、日本への「恨」がベースになっている。


それはともかく、韓国製のタブレットやスマートフォンが日本で売れないのは、意識的に韓国製品を排除しているからではない。

日本では、韓国の悪口を言うマスメディアは皆無だし、韓国製品不買運動など、起こっていない。一時期ほどの人気はなくなったが、NHKでは相変わらず韓流ドラマや韓流アイドルをフィーチャーした番組があるし、若い女性向けのコスメなど、韓国製品が売れに売れているジャンルもある。

日本人は、情報操作されない限り、特定の国や民族を憎悪したり、排斥したりする伝統を持っていないのだ。
むしろ、ヘラルド経済の記事の問題点は、経済新聞にも関わらず、モノづくりの本質を真摯に考えるのではなく、すべてを「反日」「嫌韓」といった政治問題に還元してしまう「両班気質」の底の浅さである。
考えてみてほしい。
戦後まもなく、ソニーのトランジスタラジオやトヨタの自動車は、数年前まで殺し合っていたアメリカで、大いに受け入れられた。Made in Japanは、当初「安物」の代名詞だったが、やがて品質の高さの指標となった。それは、消費者にとって、政治的な感情なんて関係なく、お金を出して買う以上、性能・価格・デザイン・信頼性・耐久性といった商品の魅力がすべてだからだ。
その意味で、日本では韓国コスメが売れるのにサムソンが売れない理由を、ヘラルド経済はちゃんと分析すべきではないか。
(つづく)