★今日のベビメタ
本日2月8日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。
7.海外への扉を開けたこと
BABYMETALが開けた扉と言えば、何といっても日本人アイドル/アーティストとして、海外進出を成功させたことだろう。
だが、海外進出したアイドル/アーティストは、BABYMETALが初めてではない。
BABYMETALが登場する前、日本の音楽界や社会状況はどうなっていたか。
さくら学院は「成長期限定ユニット」だが、日本の経済用語では、1960年から1973年のオイルショックまでを「高度経済成長期」といい、1973年から1991年のバブル崩壊までを「安定成長期」という。
そのうち、1986年から1991年までの不動産価格と金利が急上昇した時期を特に「バブル期」と呼び、大蔵省(当時)の融資総量規制と日銀の金融引き締めによって、急速な信用収縮が起こった1991年から1993年までを「バブル崩壊」という。
日本が経済的な成長を遂げてGNP世界第2位となった1970年代から1980年代、日本のアイドル/アーティストはさかんに海外進出していた。
とりわけ、1980年代後半の「バブル期」には、「Japan as No.1」の掛け声とともに、企業も音楽業界も国際化を進めた。ソニーがコロンビアを買収したのが1989年である。
1991年の「バブル崩壊」以降を「平成不況」という。
著名な金融機関が立て続けに倒産したり、終身雇用制が崩れたりして、日本の経済成長は止まってしまい、代わって人口が多く「世界の工場」となっていた中国が、日本を抜いてGNP世界第2位に躍進した。
2011年3月11日に発生した東日本大震災もあって、「平成不況」は長引いた。
バブル崩壊からの20年を「失われた20年」ということもある。
「平成不況」期に、企業は工場を海外に移転したりもしたが、それは積極的な投資というより、人件費や調達費用を節減するためだった。IT化は進んだものの、社会全体に「右肩下がり」「内向き」の風潮が漂い、音楽業界の国際化も止まってしまった。
BABYMETALが結成されたのは「失われた20年」の最終年だった。
音楽業界の動きに即して、より具体的に振り返ってみよう。
1970年代後半~80年代。日本のアーティストやバンドは、さかんに欧米市場に挑戦していた。
●冨田勲
1974年、シンセサイザー奏者、冨田勲のアルバム『Snowflakes Are Dancing』が米ビルボード200の57位を獲得。
これは1963年に坂本九の『Sukiyaki and Other Japanese Hits』が14位にランクインして以来の快挙だった。その後、冨田勲は合計7枚のアルバムを200位以内にランクインさせた。
●沢田研二
1975年1月、沢田研二は、シングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスでは週間ラジオチャートでトップ4にランクインし、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。
●西城秀樹
1975年2月、西城秀樹は、「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」を、フランス、スイス、ベルギーで発売。カナダではヒットチャート第2位にランクされた
●ツトム・ヤマシタ
1976年、プログレッシブジャズのドラマー、ツトム・ヤマシタのアルバム『Go』が、米ビルボード200の60位にランクイン。1977年のセカンドアルバム『Go Too』も156位を獲得した。
●ピンクレディー
1979年5月、ワーナー・ブラザースから全米デビューシングル「Kiss in the Dark」が世界40ヵ国で同時リリースされ、ビルボード ホット100(シングル総合)で37位を獲得。
三大ネットワークのNBCのゴールデンタイムで、「Pink Lady…and Jeff」という1時間番組を持つに至ったが、日本ではほとんど報道されなかった。
●YMO
1979年5月、YMOが全米デビューし、『Yellow Magic Orchestra』がビルボード200の81位にランクイン。8月にはシアトリカルなサイケロックバンドThe Tubes(代表曲の邦題は「ホワイトパンク音頭」)の前座を経て、LAでの単独公演を実現した。
10月からは、イギリス・ロンドンからスタートする初のワールドツアー「YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR」を敢行した。
1980年のセカンドアルバム『X∞Multiplies』はビルボード200の177位だったが、10月にはイギリスを皮切りに8ヶ国19公演となる第2回ワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」を行い、ツアー中にはアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めて出演した。
なお、YMO解散後の1988年には、坂本龍一のアルバム『The Last Emperor』がビルボード200の152位にランクインしている。
●BOWWOW/VOWWOW
1982年、ギタリスト山本恭二率いるBOWWOWは、モントルー・ジャズフェスティバルとレディング・フェスティバルに出演。1983年春にはハノイ・ロックスと共に英国ツアーを行う。1984年、英語での語感から、VOWWOWと改名。1986年、拠点を日本から英国に移す。1987年、VOWWOWは元ホワイトスネイクのベーシスト、ニール・マーレイを迎え、8月には再びレディング・フェスティバルに出演。9月にリリースした「Don't Leave Me Now」は全英シングルチャートで83位にランクイン。翌1989年2月の『HELTER SKELTER』は全英アルバムチャートで75位となった。
●LOUDNESS
1985年、NWOBHMの影響を受けて、アイドルバンドLAZYからヘヴィメタルバンドに生まれ変わったLOUDNESSが全米デビューし、アルバム『Thunder In The East』がビルボード200の74位を獲得。翌1986年の『Lightning Strikes』は64位、1987年の『Hurricane Eyes』は190位となる。
●喜多郎
1986年、シンセサイザー奏者、喜多郎のアルバム『My Best』がビルボード200の141位にランクイン。以降、1996年まで、合計5枚のアルバムが200位以内に入った。
●E・Z・O
1987年、北海道出身のヘヴィメタルバンド、フラットバッカーが渡米し、キッスのジーン・シモンズのプロデュースにより、歌舞伎メイクを施した E・Z・Oとして全米デビュー。アルバム『E・Z・O』はビルボード200の150位となった。
●松田聖子
1990年、全米デビューアルバム『Seiko』をCBSソニーからリリース。売上は日本30万枚、欧米15万枚、東南アジア7万枚と健闘したが、アメリカの音楽誌では酷評された。
ここに挙げたのは、顕著な実績を残したアーティストだけだが、このように1970年代~80年代にかけて、日本のアーティスト/バンドは欧米の音楽市場に果敢に挑戦していたのだ。
だが、その流れは1991年~93年に起こったバブル崩壊とともに止まってしまう。
1990年代の日本の音楽界は、小室時代だった。
小室哲哉は、TMネットワークが休止した1994年前後から、観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomi、内田有紀、H Jungle with t、dos、globe、華原朋美、安室奈美恵など多くのアーティストのプロデュースを手掛け、日本レコード大賞を5年連続で受賞するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。余勢を駆って、小室は多国籍メンバーによるEUROGROOVEで海外進出しようとしたが、結局1996年に断念した。
今思えば、安室奈美恵と同じ沖縄アクターズスクール出身のSPEEDも含め、1990年代は洋楽や海外への憧れが、小室哲哉的ダンスサウンドに収れんしたように思える。
1990年代で日本人アーティストがビルボード200に名を刻んだのは、渡米して活動していたチボ・マットただ1組で、1999年のアルバム『Stereo Type A』が171位に入った。
次にビルボード200に日本人が名を刻んだのは2004年。
往年の演歌歌手、藤圭子を母に持ち、スタンフォード大学で学んだバイリンガルの宇多田ヒカル(Utada)で、2004年の『Exodus』が160位、2009年に『This Is The One』が69位にランクインしている。
この頃日本では「アイドル戦国時代」が始まっていた。
1997年にモーニング娘。が結成され、「多人数」「卒業」という新しい「アイドル」のスタイルで一世を風靡する。
2005年にはAKB48、2006年にはアイドリング!!!、2008年にはももいろクローバーが結成されている。
「平成不況」をひきずる国内音楽市場は「内向き」だった。
宇多田ヒカルの楽曲はまず国内で大ヒットし、テレビの歌番組にもたびたび登場していたが、面白がられたのはその「不思議ちゃん」的なキャラクターであり、海外での評価は「バイリンガルなんだから当たり前でしょ」的な受け止められ方だった。
それよりも、テレビの話題は2009年に始まったAKB48のシングル選抜総選挙であり、ももクロをもう一方の対抗軸とした、アイドルグループの相克絵巻だった。
そんな状況で結成されたのがBABYMETALだったのである。
当時さくら学院の「部活」で、小学校5年生と中学校1年生の三人組だったBABYMETALが、日本のアイドル界を離れて、欧米で大活躍するなど、誰が予想できただろうか。
実は、2010年前後、ビルボード200にランクインした日本のバンドがあった。
それがX-JAPANのYOSHIKIによってプロデュースされたDIR EN GREYである。
2008年に全米デビューしたDIR EN GREYの『Uroboros』は、ビルボード200の114位を獲得。プログレッシブメタルの音像に日本的な退廃の美学を盛り込んだDIR EN GREYのキャラクターは、群雄が割拠する欧米のヘヴィメタル/ラウド系のバンドの中にあっても際立っていた。2011年の『Dum Spiro Spero』は135位だった。
X-JAPAN自体も再結成後、ワールドツアーを開始していた。
2009年は香港と台北、東京ドームだけだったが、2010年にはロラパルーザフェスに出演、北米ツアーを完遂した。
2011年には何度か延期されていたパリを含む4都市でのヨーロッパ・ツアー、9月にはチリから始まる南米ツアー、タイで終わる東南アジア・ツアーを行った。
2012年にはアメリカのHR/HMの音楽賞である「GOLDEN GODS AWARD 2012」で、Rammstein(ドイツ)、Lacuna Coil(イタリア)、Sepultura(ブラジル)、Behemoth(ポーランド)、Meshuggah(スウェーデン)を押しのけて、「BEST INTERNATIONAL BAND」賞を受賞した。
国内市場は「内向き」の社会状況を反映した「アイドル」全盛期でも、きちんとプロデュースされ、情熱を込めて創られた個性あるアーティスト/バンド、とりわけメタルのジャンルなら、海外市場で正当に評価される。
その事実が、アミューズのバラエティ班で、サンプラザ中野くんの「マネージャー」を務めつつ、さくら学院担当となったサラリーマンプロデューサー、KOBAMETALを突き動かしたのかもしれない。
実際、もともとメタルマニアだったKOBAMETALは、アメリカやイギリスのフェスには足しげく通っていたので、欧米の音楽市場の状況がよくわかっていた。
歌唱力抜群の中元すず香を生かすなら、従来の「アイドル」の売り方を真似るのではなく、メタル楽曲を歌わせ、「アイドルとメタルの融合」としよう。
X-JAPANをオマージュするからには、最終目標はテレビの中で愛嬌を振りまく「お茶の間のアイドル」ではない。
国内では目黒鹿鳴館から始め、ライブハウスを回りつつ、サマソニをはじめとするフェスにも出演する。日本武道館、東京ドームがゴールだ。
そしてワールドツアーをやる。まずは現地バンドの前座でもいい。レディング・フェスティバルやロラパルーザなどの海外のロックフェスにも出演する。
CDはアメリカやヨーロッパでも発売する。評価基準はビルボード200、海外のHR/HM音楽賞の受賞である。最終的にはMSGの舞台に立つ。
もちろん、こんなことは結成時にはKOBAMETALの夢想に過ぎなかった。
だが2014年に海外進出したBABYMETALは、そのほとんどを実現してしまった。
2012年の第二次安倍政権下、経済が上向き、日本が国際的に再注目されるクールジャパンの風潮にも乗って、BABYMETALは音楽業界の歴史的な転換点となったのである。
(つづく)

