BABYMETALが開けた扉(9) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日28日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH

 

7.海外への扉を開けたこと

 

BABYMETALが開けた扉と言えば、何といっても日本人アイドル/アーティストとして、海外進出を成功させたことだろう。

だが、海外進出したアイドル/アーティストは、BABYMETALが初めてではない。

BABYMETALが登場する前、日本の音楽界や社会状況はどうなっていたか。

さくら学院は「成長期限定ユニット」だが、日本の経済用語では、1960年から1973年のオイルショックまでを「高度経済成長期」といい、1973年から1991年のバブル崩壊までを「安定成長期」という。

そのうち、1986年から1991年までの不動産価格と金利が急上昇した時期を特に「バブル期」と呼び、大蔵省(当時)の融資総量規制と日銀の金融引き締めによって、急速な信用収縮が起こった1991年から1993年までを「バブル崩壊」という。

日本が経済的な成長を遂げてGNP世界第2位となった1970年代から1980年代、日本のアイドル/アーティストはさかんに海外進出していた。

とりわけ、1980年代後半の「バブル期」には、「Japan as No.1」の掛け声とともに、企業も音楽業界も国際化を進めた。ソニーがコロンビアを買収したのが1989年である。

1991年の「バブル崩壊」以降を「平成不況」という。

著名な金融機関が立て続けに倒産したり、終身雇用制が崩れたりして、日本の経済成長は止まってしまい、代わって人口が多く「世界の工場」となっていた中国が、日本を抜いてGNP世界第2位に躍進した。

2011311日に発生した東日本大震災もあって、「平成不況」は長引いた。

バブル崩壊からの20年を「失われた20年」ということもある。

「平成不況」期に、企業は工場を海外に移転したりもしたが、それは積極的な投資というより、人件費や調達費用を節減するためだった。IT化は進んだものの、社会全体に「右肩下がり」「内向き」の風潮が漂い、音楽業界の国際化も止まってしまった。

BABYMETALが結成されたのは「失われた20年」の最終年だった。

 

音楽業界の動きに即して、より具体的に振り返ってみよう。

1970年代後半~80年代。日本のアーティストやバンドは、さかんに欧米市場に挑戦していた。

●冨田勲

1974年、シンセサイザー奏者、冨田勲のアルバム『Snowflakes Are Dancing』が米ビルボード20057位を獲得。

これは1963年に坂本九の『Sukiyaki and Other Japanese Hits』が14位にランクインして以来の快挙だった。その後、冨田勲は合計7枚のアルバムを200位以内にランクインさせた。

●沢田研二

19751月、沢田研二は、シングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスでは週間ラジオチャートでトップ4にランクインし、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。

●西城秀樹

19752月、西城秀樹は、「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」を、フランス、スイス、ベルギーで発売。カナダではヒットチャート第2位にランクされた

●ツトム・ヤマシタ

1976年、プログレッシブジャズのドラマー、ツトム・ヤマシタのアルバム『Go』が、米ビルボード20060位にランクイン。1977年のセカンドアルバム『Go Too』も156位を獲得した。

●ピンクレディー

19795月、ワーナー・ブラザースから全米デビューシングル「Kiss in the Dark」が世界40ヵ国で同時リリースされ、ビルボード ホット100(シングル総合)で37位を獲得。

三大ネットワークのNBCのゴールデンタイムで、「Pink Ladyand Jeff」という1時間番組を持つに至ったが、日本ではほとんど報道されなかった。

YMO

19795月、YMOが全米デビューし、『Yellow Magic Orchestra』がビルボード20081位にランクイン。8月にはシアトリカルなサイケロックバンドThe Tubes(代表曲の邦題は「ホワイトパンク音頭」)の前座を経て、LAでの単独公演を実現した。

10月からは、イギリス・ロンドンからスタートする初のワールドツアー「YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR」を敢行した。

1980年のセカンドアルバム『X∞Multiplies』はビルボード200177位だったが、10月にはイギリスを皮切りに8ヶ国19公演となる第2回ワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」を行い、ツアー中にはアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めて出演した。

なお、YMO解散後の1988年には、坂本龍一のアルバム『The Last Emperor』がビルボード200152位にランクインしている。

BOWWOW/VOWWOW

1982年、ギタリスト山本恭二率いるBOWWOWは、モントルー・ジャズフェスティバルとレディング・フェスティバルに出演。1983年春にはハノイ・ロックスと共に英国ツアーを行う。1984年、英語での語感から、VOWWOWと改名。1986年、拠点を日本から英国に移す。1987年、VOWWOWは元ホワイトスネイクのベーシスト、ニール・マーレイを迎え、8月には再びレディング・フェスティバルに出演。9月にリリースした「Don't Leave Me Now」は全英シングルチャートで83位にランクイン。翌19892月の『HELTER SKELTER』は全英アルバムチャートで75位となった。

LOUDNESS

1985年、NWOBHMの影響を受けて、アイドルバンドLAZYからヘヴィメタルバンドに生まれ変わったLOUDNESSが全米デビューし、アルバム『Thunder In The East』がビルボード20074位を獲得。翌1986年の『Lightning Strikes』は64位、1987年の『Hurricane Eyes』は190位となる。

●喜多郎

1986年、シンセサイザー奏者、喜多郎のアルバム『My Best』がビルボード200141位にランクイン。以降、1996年まで、合計5枚のアルバムが200位以内に入った。

EZO

1987年、北海道出身のヘヴィメタルバンド、フラットバッカーが渡米し、キッスのジーン・シモンズのプロデュースにより、歌舞伎メイクを施した EZOとして全米デビュー。アルバム『EZO』はビルボード200150位となった。

●松田聖子

1990年、全米デビューアルバム『Seiko』をCBSソニーからリリース。売上は日本30万枚、欧米15万枚、東南アジア7万枚と健闘したが、アメリカの音楽誌では酷評された。

ここに挙げたのは、顕著な実績を残したアーティストだけだが、このように1970年代~80年代にかけて、日本のアーティスト/バンドは欧米の音楽市場に果敢に挑戦していたのだ。

だが、その流れは1991年~93年に起こったバブル崩壊とともに止まってしまう。

1990年代の日本の音楽界は、小室時代だった。

小室哲哉は、TMネットワークが休止した1994年前後から、観月ありさ、篠原涼子、trfhitomi、内田有紀、H Jungle with tdosglobe、華原朋美、安室奈美恵など多くのアーティストのプロデュースを手掛け、日本レコード大賞を5年連続で受賞するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。余勢を駆って、小室は多国籍メンバーによるEUROGROOVEで海外進出しようとしたが、結局1996年に断念した。

今思えば、安室奈美恵と同じ沖縄アクターズスクール出身のSPEEDも含め、1990年代は洋楽や海外への憧れが、小室哲哉的ダンスサウンドに収れんしたように思える。

1990年代で日本人アーティストがビルボード200に名を刻んだのは、渡米して活動していたチボ・マットただ1組で、1999年のアルバム『Stereo Type A』が171位に入った。

次にビルボード200に日本人が名を刻んだのは2004年。

往年の演歌歌手、藤圭子を母に持ち、スタンフォード大学で学んだバイリンガルの宇多田ヒカル(Utada)で、2004年の『Exodus』が160位、2009年に『This Is The One』が69位にランクインしている。

この頃日本では「アイドル戦国時代」が始まっていた。

1997年にモーニング娘。が結成され、「多人数」「卒業」という新しい「アイドル」のスタイルで一世を風靡する。

2005年にはAKB482006年にはアイドリング!!!2008年にはももいろクローバーが結成されている。

「平成不況」をひきずる国内音楽市場は「内向き」だった。

宇多田ヒカルの楽曲はまず国内で大ヒットし、テレビの歌番組にもたびたび登場していたが、面白がられたのはその「不思議ちゃん」的なキャラクターであり、海外での評価は「バイリンガルなんだから当たり前でしょ」的な受け止められ方だった。

それよりも、テレビの話題は2009年に始まったAKB48のシングル選抜総選挙であり、ももクロをもう一方の対抗軸とした、アイドルグループの相克絵巻だった。

そんな状況で結成されたのがBABYMETALだったのである。

 

当時さくら学院の「部活」で、小学校5年生と中学校1年生の三人組だったBABYMETALが、日本のアイドル界を離れて、欧米で大活躍するなど、誰が予想できただろうか。

実は、2010年前後、ビルボード200にランクインした日本のバンドがあった。

それがX-JAPANYOSHIKIによってプロデュースされたDIR EN GREYである。

2008年に全米デビューしたDIR EN GREYの『Uroboros』は、ビルボード200114位を獲得。プログレッシブメタルの音像に日本的な退廃の美学を盛り込んだDIR EN GREYのキャラクターは、群雄が割拠する欧米のヘヴィメタル/ラウド系のバンドの中にあっても際立っていた。2011年の『Dum Spiro Spero』は135位だった。

X-JAPAN自体も再結成後、ワールドツアーを開始していた。

2009年は香港と台北、東京ドームだけだったが、2010年にはロラパルーザフェスに出演、北米ツアーを完遂した。

2011年には何度か延期されていたパリを含む4都市でのヨーロッパ・ツアー、9月にはチリから始まる南米ツアー、タイで終わる東南アジア・ツアーを行った。

2012年にはアメリカのHR/HMの音楽賞である「GOLDEN GODS AWARD 2012」で、Rammstein(ドイツ)、Lacuna Coil(イタリア)、Sepultura(ブラジル)、Behemoth(ポーランド)、Meshuggah(スウェーデン)を押しのけて、「BEST INTERNATIONAL BAND」賞を受賞した。

国内市場は「内向き」の社会状況を反映した「アイドル」全盛期でも、きちんとプロデュースされ、情熱を込めて創られた個性あるアーティスト/バンド、とりわけメタルのジャンルなら、海外市場で正当に評価される。

その事実が、アミューズのバラエティ班で、サンプラザ中野くんの「マネージャー」を務めつつ、さくら学院担当となったサラリーマンプロデューサー、KOBAMETALを突き動かしたのかもしれない。

実際、もともとメタルマニアだったKOBAMETALは、アメリカやイギリスのフェスには足しげく通っていたので、欧米の音楽市場の状況がよくわかっていた。

歌唱力抜群の中元すず香を生かすなら、従来の「アイドル」の売り方を真似るのではなく、メタル楽曲を歌わせ、「アイドルとメタルの融合」としよう。

X-JAPANをオマージュするからには、最終目標はテレビの中で愛嬌を振りまく「お茶の間のアイドル」ではない。

国内では目黒鹿鳴館から始め、ライブハウスを回りつつ、サマソニをはじめとするフェスにも出演する。日本武道館、東京ドームがゴールだ。

そしてワールドツアーをやる。まずは現地バンドの前座でもいい。レディング・フェスティバルやロラパルーザなどの海外のロックフェスにも出演する。

CDはアメリカやヨーロッパでも発売する。評価基準はビルボード200、海外のHR/HM音楽賞の受賞である。最終的にはMSGの舞台に立つ。

もちろん、こんなことは結成時にはKOBAMETALの夢想に過ぎなかった。

だが2014年に海外進出したBABYMETALは、そのほとんどを実現してしまった。

2012年の第二次安倍政権下、経済が上向き、日本が国際的に再注目されるクールジャパンの風潮にも乗って、BABYMETALは音楽業界の歴史的な転換点となったのである。

(つづく)