全国トップクラスの逸材を突然襲った病魔
きっかけは、何気ない一言だった。2年前の冬、愛工大名電高の室内練習場。二人一組になってティー打撃をしている選手たちの中に、一人余っている選手がいた。必死にバットを振る選手たちの横で、軽くバットを振っている。人数の関係で、どうしても順番待ちの選手が出てしまうのだろう。おせっかいかもしれないが、それなら、と思いこう声を掛けた。
「ティー(打撃のトスを)上げようか?」
ところが、返って来た答えを聞いて驚いた。
「僕、練習しちゃいけないんです」
冗談かと思った。ケガをしているようには見えない。具合が悪いようにも見えない。理由を聞いて、さらに驚いた。
「僕、病気なんです」
病名はベーチェット病。国の難病(特定疾患)に指定されている慢性再発性の炎症性疾患で、体調によって激しい運動が制限される。カレー、とんかつなど食べてはいけない料理や食品も数多い。全国に約1万8000人いるといわれる患者のひとり。それが柴田章吾だった。
甲子園出場目指すも、苦難の連続
病気が発覚したのは中学3年のとき。四日市トップエースのエースとして活躍し、日本代表に選出された直後のことだった。当然、日本代表は辞退。10校以上あった全国の強豪高校からの誘いもなくなり、医者からは「強豪校で野球をやるのは無理」と告げられた。それでも、甲子園の夢はあきらめられない。洋子夫人を含め、野球部全員でバックアップを約束してくれた愛工大名電高・倉野光生監督の下で、チャレンジすることを決意した。
入学当初は苦労の連続だった。慣れない寮生活に加え、先輩や新しい仲間に気を遣い、本来は禁止されていることを無理してやったこともある。2年春にベンチ入りを果たすが、5月には3週間入院。そのせいで、夏のベンチから外れざるを得なかった。
「あの頃が、一番つらかったです」
いい投手になりたい。甲子園に行きたい。もっと練習したいのに、それが制限される。同級生で同じ左腕の細江純平や1学年下で同じ三重県出身の高須諒ら投手陣が走り込み、メニューをこなすのを黙って見ていなければいけない時は、いたたまれない気持ちになった。
2年秋には東海大会準々決勝の三重・海星戦でサヨナラ押し出し。「自分のせいで負けた……」と泣き崩れた。高校野球人生は、苦難ばかりだった。
夢あきらめず、さらに前進続ける柴田
それでも、あきらめなかった。練習量は制限されても、甲子園のマウンドで投げるという思いだけは、誰よりも強く持ち続けた。そんな柴田を野球の神様は見捨てなかった。愛知県大会では優勝投手。甲子園でも、救援登板した5回に招いた2死一、三塁のピンチで投手への強烈なライナーがすっぽりとグラブに収まった。
あこがれ続けたマウンドで4回6奪三振。ストレートは140キロをマークした。打席でも、愛工大名電高唯一の得点となるレフトオーバーのタイムリー三塁打。病室で天井を眺めていたのがうそのように、4万2000人が見つめる炎天下のグラウンドで柴田は躍動した。
「勝てなかったのは残念ですけど、甲子園を楽しめました」
「野球センスは工藤(公康、横浜)、イチロー(マリナーズ)レベル」(倉野監督)
「病気さえなければ、東海地区で一番センスがある」(福岡ソフトバンク・山崎賢一スカウト)
素材への評価は一級品。それを伝えると、柴田は目を輝かせてこう言った。
「難しいとは思いますけど、プロを目指したいですね」
夢はあきらめた時点で終わる。だが、夢を持ち続けている限り、成長が止まることはない。中学3年生の時、誰もが無理だと言った強豪校での甲子園出場を実現させた柴田。彼なら、この先もきっと何かやってくれるだろう。
自分のため、両親のため、お世話になった周囲の人々のため、そして、全国のベーチェット病患者に勇気を与えるため――。
がんばれ、章吾。