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11月に念願の石ノ森萬画館に行きました。
これはそこで入手しました。
丸い銅板に線彫りした金型で圧力をかけて画像を形成したものです。
プレス後は楕円形になります。

009、仮面ライダー、ロボコンが描かれています。いずれも石ノ森先生の代表作ですね。

このアイテムは、他にいろいろなキャラクターのものがあるようです。
集めてみるといいかも?(続く)
先週の土曜日に子供の学校で授業参観があり、私も出かけていった。確か昔は、このような参観日に父親はそれほど来なかったように思うが、今は父親も結構たくさん来ていた。子供たちにとっては自分の学校に親が来るというのはうれしいことかもしれない。どの子供もニコニコしている。時々後ろを見て自分の親を確認するしぐさも見られる。昔の子供もそうだったな。と思い出した。

一人二人落ち着きがないのがいてチョロチョロしているのがいるのも昔どおりだ。
ということを考えながらぼーっと授業を眺めていたら自分の昔の事を思い出してしまった。

実は、小学校の低学年の頃、私の机は教壇の横にあったのだ。 他の子供たちが机を並べている場所の一番前方に私の机だけがぽつんと置かれていたのだ。何故かというと、私は当時大変な問題児だったらしいのだ。とにかく、授業中先生の言う事をきかないで、机にいたずら書きしたり、かみそりで消しゴムを刻んだりしていた。それだけで、机が教壇の横に置かれるわけがない。私は、だんだん飽きてくると、あたりをきょろきょろながめ始め、ついには、近くの子にちょっかいだしたりしてたようだ。たぶんそれが常態化していたのだろう。まるで今の自己中な徘徊児童と同じではないか!

さらに、お馬鹿な私は、隣の女の子のスカートめくりまでしていたらしい!これは確かに問題だ。今思えば、もしかすると、その子の親から苦情が来ていたのかもしれない。そして、私だけが教壇の横に机を置かれたというわけだ。先生も私を見捨てないで四六時中監視下に置いていたわけだ。もっとも私はというと事情を理解せず、うきうきと学校生活を楽しんでいたと思う。

そして父兄の授業参観日。驚いたのは、私の親である。教室に入って見ると自分の子供の机だけが教壇の横にあるのにまず驚く。それだけで、とても肩身が狭い思いをしていたようである。さらに追い討ちをかけるように。その机に座っている息子は、授業中落ち着きなくちょろちょろし、先生を見ないで後ろばかりを見ているのだ。たまに、変な顔したり、先生の言葉に反応しておかしなことを言ったりしている。教室の後ろにいる父兄は、みな私を見て笑っているのだ。(苦笑していたんでしょうね。)

その頃になると私のお袋は、怒りで頭がぐつぐつ煮えたぎっていたようだ。それにもかかわらず、私は鉛筆をかじりながら、相変わらず後ろばかり見ている。

そして、とうとう爆発。私のお袋は、つかつかと前に出てきて、私が口にくわえた鉛筆をとりあげて、パーン!!思い切り私の頭をどついたのだ。そして、何食わぬ顔で教室の後ろに戻っていった。わたしは、あっけらとられて、その後すこしは、おとなしくしていたようだ。

このあいだの授業参観では、そんな子いなかったな。 自分の子どもが昔の私と同じ事していたら、やはりお袋と同じことをしていたと思う。

自分のことは棚に上げてね。
戦前の旧制高校は正にエリートの集団だった。小学校が最終学歴の人が多かった当時としてはドイツ語を知ってると聞いただけですごそうだったに違いない。確かに勉強もできる連中で、めったに出ない高校進学者を村長さんはじめ村中の人達に送られて出てきたり、実家は貧しいが神童のうわさが有力者に届き学費を支援されて進学したというような人たちも結構多かった。そんな連中が全寮制の男子だけの寮に入りこわい先輩たちの薫陶を受けて野蛮人になっていくというパターンがバンカラの気風を生んだのだろう。無論、当時はそのような振舞いを好しとする社会の雰囲気、学生を大切にする風土が確かにあったようだ。そして、卒業生は文字通りの“大"学という最高学府に進み学士様となって、今度は背広を着て社会を支える人材となっていったのだ。

戦後旧制の教育体系が見直され旧制高校は廃止される。戦前の中学校が新制高校となるが、もはや戦前のエリート養成システムではなく、新制大学進学のための予備校のようになってしまった。バンカラも絶滅したが、戦前からある中学の伝統校を前身とする新制高校の一部にかろうじてその気風が引き継がれた。私が進学した高校もそのような学校の一つだったのである。校風などというものは、簡単にできるものではないし、あえて作り上げようとしてもできるものではない。私の学校は、戦前から多くの卒業生を旧制高校に輩出しており、バンカラを愛する校風はたぶんそれらの先輩に影響されたものだろう。先輩にあこがれマネしたんだろうね。

当時、私の学校では男子校ゆえの習慣というか恒例のイベントがあり、中にはよくわからないものもあった。

まず、入学するとはじめの試練が歓迎会というもので、暗い体育館に一人ずつ入れられ、先輩たちに“歓迎”されるという行事があった。歓迎といっても、通路の両側を先輩たちが人垣を作りそこを歩く進入生の胸ぐらを掴んで「きさまの自己紹介をしろ!」とか果ては「何か唄え!」などと叫ばれて、言われたとおりの事をして進んで行くのだ。学生服のボタンを毟られてしまうのはごくあたりまえの歓迎で、体操部などはトランポリンに投げつけたりして歓迎した。ひどいやつになると、玉ねぎの汁で顔を洗ったりする輩もいた。進入生はこのような歓迎を受けながらゆっくりと人垣の間を進み、やっと出口から出た時は、泣きながらボロボロになってたものだ。この学校では、とにかくこの歓迎会を経験し一人前になるのだ。そして、その時怒ったり、泣いたり、抗議してた連中が次の年になると大喜びで新しい新入生を歓迎するものだった。もちろんこのようなものについていけない生徒もいたが多くの生徒はこのような蛮行に対しあえて否定せず「大事な事」だと思っていたふしがある。

今は私の出た高校でもこのような風習はなくなったという。(続く)
こんなことあったのを思い出した。

実は、私は高校三年生の時柔道部の主将だった。いろいろな試合があるけれど、当時あるライバル校との対抗戦がとても重要な試合だった。一年に二回、春と秋に15人対15人で勝ち抜き戦をやるのだが、そのライバル校とは戦前からライバル関係が続いていて、その対抗戦に負けると卒業してからもずっと「うちが勝った!」と威張られるような感じだった。試合には、他の生徒たちも沢山来て体育館で自分の学校の選手の勝敗が決まるたびにワーワーと非常に騒がしい。だから、負けるととてもかっこ悪い。そして、どうでもいいことなのに、伝統の一戦ということで地元新聞の夕刊に試合結果が掲載されたりしていた。

私が高校に入学した年の春の対抗戦では私の学校が敗れた。その時当時の主将が畳に伏せて大声で泣いた。それにつられて先輩たちも涙を流した。その光景を見て、対抗戦の意味を理解してなかった一年生達ははじめてこの試合の意味を学んだ。私も「これからは絶対勝とう」と心の底から誓ったものだ。

だからお互いに絶対に負けたくないのだ。試合の前日には、メンバーの選出、出てくる順番を決める作戦会議まで開いて少しでも相手に有利な戦術を議論したりしていた。とにかくそのくらい負けたくなかったのだ。

そして、試合の直前の時期に遠足などがあると主将命で「さぼれ」というおふれを出すこともあったのだ。もちろん、それでも遠足に行くやつは行くし、行ったからといって非難することもなかった。遠足で疲れて試合に影響することを恐れていたのだ。気合を入れるという狙いもあった。とにかく、当時の柔道部には、そんな習慣があったのだ。

たまたま運悪く私が主将の時に対抗戦の三日前に遠足があった。そして、私は何の疑問もなく例の「さぼれ」指令を出した。もちろん私はさぼった。するとその日の夜に担任の先生から電話がかかってきて、「どうして部員に遠足をさぼらせた!」というおしかりを受けてしまった。今思うと、誰かの部員の親が学校に連絡したのかもしれない。それまでそんなに問題となったことはなかったのだから。
次の日学校に行くと、すぐに何人かの先生に囲まれて、ずいぶんと怒られた。「そんなことして勝ってもなんの意味もない!」などと言われながら、お尻をたたかれたりもした。

私はというと、馬事東風。たぶん、にたにた笑っていたんだろうな。「意味あるんだけどな。高校生なりに真剣なのに、先生たちは理解できないんだろうな。」などと考えながら嵐が過ぎ去るのを待っていた。悪いけど、先生が何を言ってもこちらの心に響かなかった。恐くもなかった。今では、こんな生徒はやりにくかっただろうなと、当時の先生に申しわけなく思っている。先生も父兄に言われたので怒らざるをえなかったのかもしれない。

そういえば、一人だけ違う事を言った先生がいた。当時の体育教師でちょっと右翼的なのでは?とみんなに恐れられていたG先生だ。私は、体育の授業すら「ランニングしたりすると足がつる」と言ってさぼっていたのだ。でも、そのこわいG先生から何も言われたことがなかったので、私はますます増長しさぼりまくっていた。その高校では、だまっていても運動部は体育の成績は最優秀の「5」を貰えたのだ。体育教師からの激励のプレゼントだったのだろう。

そのG先生は、他の先生に囲まれて怒られている私に向って、「おまえはオレの授業も犠牲にしてるんだから、がんばれよ。」といってくれたのだ。先生は、私が授業をさぼつているのを知っていて、見ぬ振りをしてくれていたのだ。他の生徒と同じく、私もその先生の事を好きではなかったが、今思うとG先生は、ちょっとは私の気持ちをわかってくれていたのだなと思う。そのときは気付かなかったけど。今先生がどうされているかわからないけど、お礼を言いたい気分だ。

結局対抗戦には勝利した。そして、何十年もたった今でもうれしい。(続く)
今日、高校時代の友人と四谷で会うことになった。彼とのつきあいは、一年に一回くらいは会っているので疎遠というほどではないが、親密というほどでもない。はじめて出会ったのは、高校一年生の柔道部の道場だった。かれこれ35年以上も前のことである。結構長いつきあいになった。

私たちの高校は、当時県内随一の進学校だったが、歴史が古く旧制高校の気風を受け継いだバンカラな校風で知られていた。もちろん男子校である。その中でもわれわれが所属していた柔道部はそのバンカラの保守本流みたいなところで、好き勝手に蛮行をして得意になっていた。

高校時代の思い出は尽きない。いずれいろいろと紹介したいと考えている。高校時代には気付かず卒業してから知ることも多い。わが高校は進学校で有名大学に大勢の合格者を出していた。このため、みんなは結構勉強していたらしい。そして、勉強ようするにテストの成績を最優先し、たくさんの生徒たちは塾に行ったり、家庭教師をつけたり、図書館なんかで勉強していたらしい。

この状況で、クラブ活動、特に運動部で時間を潰すことについて、勉強と両立は難しいとの考えから、部に入らない生徒が非常に多かった。今思うと何らかの形で運動部に所属していたのは、全体の3割にも満たなかったのではないかと思う。もちろん親が反対していたケースもあり、実際本人は柔道をやりたかったのにやめさせられた友人もいた。あいつ、今どうなってるかな?。。。

一方、運動部そしてバンカラの虎の穴のようなところにいた私はというと、一応授業は出ていたが試験前以外はほとんど勉強せず好きなことをしていた。柔道だけでなく、漫画にも没頭していた。もちろん試験の成績はひどいものである。生徒数は、一学年360人だったが、テストの成績は常に下から10%以内に定着していた。(その位置の他のやつらも運動部だったのかな?)

しかし、ぜんぜん恥ずかしいと感じたことはなく、超然としていた。というのも、学校全体に運動部で毎日活動している生徒を大切にする雰囲気があったのである。ある意味では尊敬されていたといってもいいかもしれない。先生も「運動してるからしかたがないか。。落第だけはするなよ。」という感じだったし、優秀な生徒たちからも、「学校を代表して運動部でがんばってくれている。」といった視線が感じられた。実際、私の横には学校で成績が一番の、全国的秀才が座っていたが、彼は私にいつもそっと勉強を教えてくれていた。それでもよく先生の質問に答えられず立たされていたが。。。

現在その後の卒業生の進路を見ると、大半が医者、弁護士、役人などになって社会の第一線で活躍している。本当にすごい高校だったんだけど、高校時代は、かれらももっと好きな事をやりたかったんじゃないかな?と今になって思う。(続く)