これは、私が一時的に預けられていた頃の話である。
両親が離婚した後、母との暮らしは貧しいものだった。
母の妹である叔母の家に行った時のこと。
叔父の姉夫婦が遊びに来ていた。
そこで私は、血の繋がらない遠縁の夫婦にたいそう気にいられたのだ。
そして母の承諾を得て、私は暫く遠縁の夫婦に預けられることになる。
遠縁の叔父は、北海道で農場を営んでいた。
結婚記念日の旅行ついでに、叔母の弟宅へ寄ったそうだ。
農場の仕事に休みは無いが、そこは従業員に任せての旅行だった。
それでなければ、私とは一生会うこともなかった人達だったかもしれない。
北海道の叔父宅は広かった。
家も広いが、農場なので敷地も広い。
畑もあったし、牛や馬もいた。
そこで出会ったのが、狼犬のシルバーだったのだ。
現在日本では一般家庭での狼犬の飼育が禁じられているので、私としても貴重な体験だったと言える。
シルバーは狼の血が入ってるだけあって、とても体が大きかった。
私の体と比較すると、こんな感じだったと思う。
動物が大好きな私は、初対面の時からシルバーの美しさに惹かれた。
シルバーには犬の血が入っていたが、ワンと吠えたのを聞いたことがない。
その代わり、時々ウオォーーッと遠吠えをしていた。
私のことを守るべき存在だと認識したのか、常に側にいてくれる。
いつの間にかシルバーは、私にとって頼れるナイトになっていたのだった。
北海道の暮らしは楽しかった。
道内でも気温が低い地域だったが、元々寒さに強くて真冬でも半袖半パンで過ごしていた私には辛くはなかった。
叔父夫婦の子ども達は、みんな家を出て都会の学校へ行っているらしく、しかも女の子がいなかったので私のことを溺愛してくれた。
大勢で食べる鍋の美味しさも知った。
叔父さんは私に1頭の馬をプレゼントしてくれた。
ずんぐりとした体型の馬のポン太は、優しくてシルバーとも仲が良かった。
私はポン太に乗って、シルバーをお供にしながら走り回るのが大好きだった。
牛や馬の出産にも立ち合った。
広くて自然に恵まれた大地は、私に合いすぎていて、この土地で生まれ育ったような気がするほどだ。
しかし楽しいことばかりではなくて、危険な目に遭ったことも少なくない。
大きな氷柱で怪我をしそうになったり、屋根の雪降ろしの最中に近付いて叔父さんに叱られたこともある。
そして1番怖い経験というのが、私が迷子になった時のことだった。
その日、私は1匹のエゾユキウサギを見付けて夢中で追い掛けた。
シルバーは牛舎の近くで眠っていたので、私は1人で行動していた。
ふと気が付くと、前後左右どこを見ても自分の居場所が分からなくなってしまった。
建物は見えなくなり、目に入るのはそびえ立つ針葉樹と群生する熊笹だけ·····
ウサギどころではない。
熊に遭遇したらどうしようと思った。
朝起きたら、窓の外に熊の足跡を見たこともあったので、近場に来ることは知っていたのだ。
叔父さんには
『1人で森に入ったらダメだ』
と言われていた。
ウサギに気を取られていたとは言え、私は約束を破ってしまったのだ。
取り敢えず、沈み掛けている太陽から方向だけでも把握して私は歩き続けた。
歩いても歩いても同じような景色が続く。
もう直ぐ夕飯の時間だろう。
きっと叔母さんが心配する。
その内、歩き疲れた私は木の根っこに腰掛けた。
そしてウトウトと眠り始めてしまったのだ。
どれくらい時間が経ったのだろう。
寒くて目覚めると、辺りはすっかり暗くなってしまった。
太陽で方向を見ていたのに、それすらも出来なくなり途方に暮れた。
焦りと心細さから、泣き出しそうになる私。
その時、突然ガサガサと熊笹が音を鳴らして揺れた。
熊だ!!
死んだ振りも走って逃げるのも無理だ。
私は命の終わりを感じた。
緊張と恐怖から足がすくむ。
いくら動物好きな私とは言え、野生の熊が甘くはないこと、くまのプーさんみたいに仲良くなれないことは分かっていたのだ。
熊笹が更に大きくガサガサと揺れ、大きな黒い影が姿を現した。
どうして人間は
怖いもの見たさという
気持ちがあるのだろう。
黒い影を凝視する。
僅かな光を吸い込んだ瞳がキラリと輝き、私の姿を映し出している。
次の瞬間
私は黒い影に抱きついた。
私のナイトである
♘シルバーに♞
私がいなくなったことに気付いたシルバーが、私を探し見付けてくれたのだ。
シルバーに導かれて、私は森から脱出することが出来た。
戻る時に歩いた距離から見ても、そんなに遠くまで来ていた訳ではなかった。
家に帰ると夕飯の準備が出来ている。
叔母さんは
「今日はいっぱい遊んできたねぇ」
と言った。
ウトウトと眠ってしまった私は、てっきり夜中になっていると思っていたのだが、時計を見ると夕飯の時間に少し遅れたくらいだった。
あの恐ろしい体験は、ほんの2時間足らずの出来事だったのだ。
私は叔父さんにも叔母さんにも、その日のことを話さなかった。
自分が叱られることよりも、私から目を離したシルバーが叱られることを心配したからだ。
それ以来、シルバーは私の側から片時も離れなくなった。
すっかり私が道民として慣れた頃、母から『帰っておいで』との連絡を受けた。
少し生活が安定して来たらしい。
私の本音としては帰りたくなかった。
しかし1人で苦労して来た母を捨てて、私だけ幸せになるなんて許されることではないと、幼いながらに悩んだ末に私は大阪へ帰る決心をしたのだ。
大阪へ帰る日、私は愛馬のポン太に別れを告げた。
シルバーは異変に気付いているのか、いつもに増して私から離れない。
トイレに行く時でさえ、ドアを閉めると不安なのかガリガリとして早く出るように急かした。
身支度を済ませ車に乗り込み、私は大好きだった土地や人達とサヨナラする。
農場の従業員の人にも可愛がられていたので、みんなで私を見送ってくれた。
私はシルバーを抱きしめた。
別れたくないけど、別れなくてはならない辛さに泣きじゃくった。
シルバーは私と離された後、閉ざされたゲートを乗り越えようと何度も立ち上がっている。
車の中からシルバーを見る。
この目に焼き付けておかなければと強く思いながら。
あんなにも大きなシルバーの姿が、どんどん小さくなって、やがて見えなくなってしまった。
送ってくれた叔父さんと叔母さんともお別れをする。
「また遊びにおいで」
と泣いた叔母さん。
「うちの子になれ!」
と言った叔父さん。
大きな愛を受けて私は幸せだった。
北海道が好きだったし、叔父さんと叔母さんが、本当のお父さんとお母さんだったらいいのにと何度思ったかしれない。
どうして最初から、この2人の子どもとして生まれなかったんだろう。
それでも、私は母を支えて行くと決めたのだ。
私は叔父さんと叔母さんに泣きながら抱きついた。
「お父さん、お母さん」と呼びたかったが、そう言ってしまうと離れられなくなりそうな気がした。
口を開けると今にも飛び出しそうな言葉を飲み込んで、2人に抱きつく小さな手に力を込めた。
北海道は遠かった。
そう簡単に行き来が可能な場所ではない。
いつかシルバーにもポン太にも会いに行きたいと願っていた。
しかし私が中学生になった年に、シルバーが他界したと知らされた。
また会いたいという願いは叶えられなかったのだ。
私が北海道を去ってから、シルバーは私と最後に別れたゲート前で、毎日長時間じっとしていたらしい。
きっと私を待っていてくれたのだろう。
また私が、同じゲートを通って帰って来ることを信じながら·····
北海道の銀世界に輝く、美しい銀色をしたシルバー。
私を守ってくれる頼れるナイトだった。
いつか生まれ変わって再会することが出来たなら、今度は私がシルバーを守ってあげたい。