長禄の変…南朝皇胤たちの活躍2

 

 後南朝の拠点(御座)に関連して、「南方王業の事」「熊野那智大社宛立願の事」「色川郷文書 軍勢催促の事」の三点からなる『忠義王文書』について触れておきたい。

 「忠義王」とは、吉野の伝承に登場する後南朝皇胤であるが、この名の由来は明確ではなく、俗に「河野宮」のこととされている。河野宮は実在の人物で、文明十年(一四七八)八月の『河野世・上月満吉連署注進状』にみえる、「一宮は吉野奥、北山御座」「二宮は同河野郷」のうち、後者にみえる「二宮」に該当するであろう。ただ、これが「忠義王」に該当するかは、尚一考の余地がある。

 とまれ、長禄元年(一四五六)十二月二日、吉野川上において南朝皇胤一宮・二宮兄弟が討たれた。「長禄の変」である。先の興福寺大乗院門跡尋尊日記『大乗院寺社雑記』は以下のように記載している。

 

 「三種の神器のうち神璽、さる嘉吉三年九月二十四日、土御門内裏炎上のときより紛失のところ、それ以降方々十方を相尋ねられるといえども、数年の間在所を知らず。然れども去年、南帝の御事以降、才学を得る処、南方にあるの旨治定す。よって京都より色々ご経略の処、吉野小川、去る月末に南都の御母儀の在所に乱入せしめ、神璽を取り奉りおわんぬ。すなわち越智の在所へこれを入れ奉る。来る十三日、都に入れ奉らるべしと云々。衆徒・国民等各自身罷り出て、南都より法性寺に至り守護すべきの由、各々仰せ出ださる間、悉く以て出立。一国の大儀これに過ぐべからずと云々…」

 

 ここにいう「南帝の御事」とは、南朝皇胤の一宮・二宮が討たれたことで、また、事件を通して神璽(しんじ=勾玉)のありかを知った吉野の武士・小川が、「悪党(山窩)」を入れてこれを奪ったという。

 こうして神璽は、長禄二年八月三十日、実に十五年ぶりに入洛したのである。

 ちなみに、『上月注進状』の作者・上月満吉とは、播磨国左用郡上月村より起こった赤松氏の一族である。同文書には、吉野南帝の両宮に向かった理由を、「御屋形様」への「勅諚」と「上意」としている。

 「御屋形様」とは、赤松一門・旧陪臣たちが家督として擁立しようとしている「次郎法師丸・赤松政則」のことであろう。また、「勅諚」とは後花園天皇の勅諚、「上意」とは将軍足利義政の意向であろう。

 つまり、上月満吉ら赤松一門と陪臣たちは、朝廷・幕府との約束を取り付け、吉野に向かったのである。その約束とは南帝の両宮を討ち、神璽を奪還した暁には、赤松政則を家督として赤松主家を再興させるということに他ならない。

 注進状に記されているように、上月満吉は康正二年十二月二十日、吉野山に入った。大和国宇智郡に到着した三十人の名前があげられている。すぐに攻撃というわけにはいかなかった。神璽のありかを聞かなければならない。

 そこで赤松方は、南方に与して戦った嘉吉の乱での縁を頼りに南方宮に取り入り、隙を窺いつつ情報の収集に努めた。その結果、一年後の長禄元年(一四五七)十二月二日の夜、大雪の中両宮へ二手に分かれて攻め入ったのである。

 また、神璽奪還については、赤松与党の小寺藤兵衛・小川弘光・越智家栄がその大役を果たした。

 この功績により、赤松家は再興され、嘉吉の乱以降没収されて山名氏の所領とされていた播磨・備前・美作の三国は赤松領に戻された。 

ただ、赤松氏による旧領復帰は、当然のことながら山名持豊(宗全)との確執の種となり、宗全と勢力争いを始めていた幕府管領・細川勝元への接近をもたらしたのである。

 

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