四、新羅は帰朝の準備拠点だった…物部氏と秦氏5
四、新羅は帰朝の準備拠点だった…物部氏と秦氏5 ところで、『八坂神社社伝』には、「牛頭天王」と「須佐之男(すさのお)」が同一視されており、古代新羅国の牛頭山に座していた須佐之男を高句麗の使者・伊利之(いりし)が、平安京の東の八坂郷に奉斉したのが八坂神社の始まりとされている。 これは同社社伝の中だけでなく、『日本書紀』にも伊利之の来朝や、高天原を追放された須佐之男が、新羅国曽戸茂梨(そしもり)に降り、そこから息子の五十猛(いそたける)とともに出雲に向かったことが記されている。 また、『新撰姓氏録』山城国諸蕃の項には、渡来系の八坂造(やさかみやつこ)について、その祖先を「狛(高麗=こま)国人」の「仕留川麻乃意利左(しるつまのいりさ)」であると記している。つまり、この「意利左」とは八坂神社社伝の「伊利之」と同定できる。 とすると、ユーラシア大陸を東遷(里帰り)してきた元縄文人たるシュメール人、ユダヤ人、ドラビダ人(古代インド人)たち「帰郷人」にとって、朝鮮半島とは日本に里帰りする上での“廊下”のような位置づけであったと推察するに難くない。 一方、シルクロードの起点はローマであるが、ローマ帝国の漢字表記は「羅馬」であり、一文字で「羅」と表すこともある。とすれば、「新羅」とは「新しいローマ」という意味になり、実際、古代新羅の遺跡からは、ローマ文化との所縁を彷彿(ほうふつ)とさせる、中華文明には見られない把手付カップや容器が出土している。 なお、新羅があった地域は、紀元前二世紀から西暦四世紀半ばまで「辰韓」あるいは「秦韓」とよばれ、ユダヤ人秦氏が遷住していたことは既に述べた。さて、伊利之の子孫は代々、八坂造(やさかのみやつこ)として八坂神社の社家を務めていたが、のちに紀百継(きのももつぐ)を養子に迎えて「紀氏」を名乗るようになる。また、伊利之の子孫は栄井・鳥井・吉井に分出し「宿祢(すくね)」の姓を、同じく日置氏・和氏は「造」の姓を賜姓された。これが、長髄彦の後胤たる高句麗国王朱蒙を祖とする我が家の「別姓」でもある。※第十二巻『カタカムナ古代論』好評発売中!カタカムナ古代論 | 長髄玄師 |本 | 通販 | Amazon