すでに「シンギュラリティで激変する3~8年後の世界」で述べた、近年、発展著しいAIやマインドインターフェースを可能にしたIOTによる「モノたちの宇宙の成立」や、3Dバイオプリンターやゲノム編集、クローン技術などのBT(バイオテクノロジー)による「コピー人間の登場」などを受け、世界の思想界もこれまでの「人間絶対主義(自分中心主義)」の修正を余儀なくされています。

 

本項では、これら驚異的なテクノロジーと激変する未来社会の出現に対し、最先端の現代思想家たちがどのように捉えているか紹介します。とくに、今や全人類にとって最大の脅威となっている温暖化を含む地球環境問題に対し、私たちはどのような視点、態度で臨むべきかについて、新しいアプローチである「環境倫理学」すなわち「道徳哲学の環境論的転回」について持論を詳述し、本ブログの最終投稿とします。

 

1、認識論的転回から言語論的転回へ

 

まず、近代哲学はいずれも主観と客観の関係を前提にした「意識」の分析に集中し、十七世紀のデカルト(大陸系合理論)と、ロックやヒュームら(イギリス経験論)に分かれます。

 

また、十八世紀にはカントが、人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという従来の常識を逆転し(コペルニクス的転回)、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成すると説きますが、デカルト、ロックらを含めこの認識形式自体を問う思想傾向を「認識論的転回」といいます。

 

二十世紀に入ると、哲学の潮流はマルクス主義、実存主義、分析哲学の三つに分かれますが、この三潮流はその後大きく変容し、フランスの実存主義は現代言語学の祖と言われるソシュールやヤコブソンから始まった構造主義、フーコーやデリダ等のポスト構造主義、ハーバーマスが提唱するコミュニケーション理論などが登場します。

 

他方、マルクス主義は社会主義体制の崩壊と共に影響力を失い、フランクフルト学派やフッサールの現象学、ガダマーの解釈学などに代わります。

 

これに対し、心の哲学などのアングロサクソン系の分析哲学は、後に述べる「自然主義的転回」としてその内実を変容させながら現在でも中心的な勢力を保っています。

 

中でも注目は、十九世紀末頃から二十世紀初めにかけて、主観‐客観関係における「意識」ではなく、リチャード・ローティが「言語」の分析を主要テーマとする「言語論的転回」を提唱します。

 

「言語論的転回」のうち、「ポストモダン」を提唱したジャン・F・リオタールは、現代人はもはや「理性(神)がもたらすモダン(近代)の大きな物語」と呼ばれる、万人が認めるような真理や規範を信じておらず、そこには他とは違う「小さな物語」を着想し、多様な方向へ分裂・差異化する小さな集団の異なる「言語ゲーム」があるだけだとします。

 

一方、「言語によって世界が構築される(言語構築主義)」と見なす代表が、「テクスト(文脈)の外には何もない」というジャック・デリダです。

 

また、「異なる言語ゲームは共約不能である」と考え、言語が異なると現実も異なり、他者との「差異」を強調し、遂にはいずれの主張も優劣がつけられないという相対主義に到ります。

 

2、メディア・技術論的転回、自然主義的転回、実在論的転回へ

 

しかし、二十一世紀を迎える頃には「言語論的転回」に代わる新たな三つの潮流が生まれます。

 

(1)メディア技術論的転回

 

先ず、「メディア・技術論的転回」(B・スティグレール、J・クレーマー他)は、コミュニケーションが行なわれる際の手段となる物質的・技術的な媒体から考えます。

 

私たちは、光というメディアで見て、音というメディアで聞くように、「言語」というメディアでコミュニケートしています。

それらは「文字」というメディアが開発されたことによって「書物」を生み、更に手書きに代わる印刷機によって大量生産が可能になり、「知識」が大衆のものとなりました。

 

その流れの中で、ソシュールから始まる現代言語学は「言語の体系を如何に理解するか」を命題とし、また、実際のコミュニケーションの中での言葉の使われ方を分析しました。

 

しかし、それらは最終的にコミュニケーションを可能にする物質的・技術的な媒介を問題とする「メディア論的転回」に収斂していったのです。

 

そして、IT技術の革新が続く中で今後、AIやブロックチェーン技術、さらにはゲノム編集などのBT(バイオテクノロジー)の進展によって、更なるメディアの革新が続くとします。

 

ただ、「メディア論的転回」に対しては、「メディア」が全てであり、生身の人間を「身体を持った媒介」としてしかとらえない発想が良いものかとの疑問が呈されています。

 

(2)自然主義的転回(認知科学的転回)

 

次に、「自然主義的転回」(P・チャーチランド、J・サール、D・チャーマーズら)は、二十世紀の「言語の哲学」から「心の哲学」への転換を図ります。

 

その核心は、宇宙は一元的であるが、心と身体(物質)の二つの属性をもつという点(属性二元論)にありますが、心をどう理解するかについては今のところ一義的な理論が確立している訳ではなく、どの立場も、最近の認知心理学、脳科学、神経科学、量子理論、IT、AI、BT(生命科学)などの成果を取り込み、心(脳)が見せる現象として宇宙を説明しています。

 

(3)実在論的転回

 

これに対し、「実在論的転回」(カンタン・メイヤスー、マルクス・ガブリエル他)では、存在は思考によって構築されるという構築主義に対して、思考から独立した存在も肯定します。

 

メイヤスーによると、カント以来の近代哲学は、「認識論的転回」も「言語論的転回(ポストモダン)」も、全て実在に対する人間の優位を説く相関主義(構築主義)だと批判します。

 

こうした相関主義を乗り越え、人間の思考から独立した数学や自然科学によって理解できる「存在」を問題にし(思弁的唯物論)、「人間から分離可能な世界」として科学的に考察可能な人類出現以前の「祖先以前性」や、人類消滅以後の「可能な出来事」をも想定します。

 

一方、ガブリエルは、物理的な対象だけでなく、それに関する思想、心、感情、信念、更には空想さえも存在するとします。ガブリエルは、『私(自我)は脳ではない』の中で、精神を脳に還元して、存在するのは物やその過程だけで、それ以外は独自の意味を持たないという考えを否定し、科学的な宇宙だけでなく心(精神)の固有の働きも、それが”意義”を有する限り実在するとします。(新実在論=意義領野存在論)。

 

こうした思潮の中で、私は「量子理論」を応用して、脳(心)と身体、環境などの外部との双方向システムはもちろん、脳のなかの潜在意識と顕在意識の双方向システムも、「元意識(量子波動=ダークエネルギー)」と「元物質(量子粒=ダークマター)」の対生滅で成り立っているのが宇宙の本質と考えます(量子情報仮説)。その理由は、大乗仏教の「神羅万象は意識(阿頼耶識)が作り出している」との「唯識説」と親和性があるからです。

 

 

3、道徳哲学の環境論的転回とヒュームの一般的観点

 

目下人類は、その生存の基盤であるはずの地球環境について重大な危機を抱え、深刻な問題に直面している。環境問題の歴史は人類の歴史と同じくらい古い。というのも、人類の発生自体、環境の激変によるところが大きいとされるからである。例えば、ユーラシア大陸における中央アジアから東西への民族大移動は、寒冷化のなかでの生存域を求めての移動であった。

 

本稿では、人類と環境との関係性のなかで近代哲学が前提としてきた「人間中心主義」「自由主義」「功利主義」などの基本思想に修正を迫るとともに、近年注目を浴びつつある「ディープ・エコロジー(生態環境学ないし運動)」などをも包含し、人口調整を含む持続可能な人類社会の実現を可能にする根拠として、以下「西洋哲学の環境論的展開」と「ヒュームの一般的観点」について論考する。

 

 

(1)西洋哲学の環境論的展開

 

ところで、西洋哲学は、これまで二度にわたる転換を経験してきた。一つは、西洋社会がキリスト教化し、ギリシャ哲学とキリスト教の融合がはかられた中世の教父哲学の成立であり、二度目は、近代自然科学成立期にデカルトがもたらした認識論的転回による近代的パラダイムの成立である。

 

すなわち、近代哲学は中世の存在中心主義、神中心主義から、人間の認識の確実性を探る営みへと主題を移行させ、それが自然科学の進歩をもたらした。同時に、「規範(倫理)は事実に基づかなければならない」という原則の下、”人間中心主義(ヒューマニズム)”と呼ばれる近代的な思考の枠組み(事実認識)と絶対的な価値観(倫理道徳)を成立させた。

 

しかし、近代産業革命以降の環境破壊はその規模と影響の大きさにおいてそれ以前とは比較にならないほどの脅威を人類のみならず、地球全体に与えつつある。このような認識のもと、二十世紀後半、アメリカにおいて新しい学問領域として「環境倫理学」が誕生した。

 

ところで、近代哲学を特徴付ける倫理思想として、人間中心主義、自由主義、功利主義の三つをあげることができる。これらはいずれも近代における思想的成果と考えられてきた。しかし、同時にこれらは環境問題をもたらした思想的な原因ともなっている。とりわけ、環境破壊を促進する結果を伴うことになった行動原則は「自由」である。

 

この自由を「神からの恩寵」として確立したのはジョン・ロックに帰せられるが、ロックの自由主義はその後D.ヒューム、アダム・スミス、J.ベンサム、J.S.ミルに引きつがれ、さらにドイツにおいてはカントの「道徳的自由」によって人権思想を基礎付け、ついにフランス革命は自由を政治的権利として実現した。

 

とりわけ、ベンサムは「功利主義」を主張し、「ある行為が是認され、あるいは否認されるのは、その行為が社会全体により多くの快を生み出すことによってである」として人間中心主義、自由主義、功利主義は現代の社会的営為の規範的原則をなし、環境破壊を生み出す思想的背景となっている。

 

もっとも、彼らが、人間中心主義、功利主義自由原理を、環境問題を引き起こすことを正当化するものとして提唱したのではないことは確かであり、それどころか彼らの理論はそもそも科学と道徳、人間性の発展への寄与を目指すものであった。

 

それゆえ、環境を中心とした現代的な規範理論を構築するにあたっては、それらの概念を一概に否定するのではなく、むしろそれらの概念や原理を環境との関連において考察し、再構築することが必要である。これが道徳哲学の「環境論的転回(環境倫理学)」である。

 

(2)環境倫理学の三大原則  

 

欧米において環境倫理学は自然保護運動、動物保護運動の高まりとともに成立した。加藤尚武『環境倫理学のすすめ』では、環境倫理学の三大原則として「自然の生存権」「世代間倫理」「地球全体主義」が提示されているが、それぞれの原則はおよそ次のように定義される

 

・自然の生存権:人間だけでなく生物の種、生態系、景観などにも生存の権利がある。

・世代間倫理:現代世代は未来世代の生存可能性に対して責任がある。

・地球全体主義:地球の生態系は開いた宇宙ではなくて閉じた宇宙である。

 

すなわち、自然の生存権は、人間のみを道徳的考慮の対象として認める人間中心主義への批判であり、世代間倫理は、現在の利益が行為の選択の基準となる世俗化した功利主義への批判であり、地球全体主義は、他人に影響を与えないかぎり何を行ってもよいとする古典的自由主義への批判であるとみなすことができる。

 

これらの主張は、いずれも人間中心主義(ヒューマニズム)に対して”自然中心主義”を唱え、現在の功利に対するものとして将来の功利を、そして個人の自由に対して地球全体の利益を対置させる主張である。

 

しかし上に見たように、そもそも環境倫理が批判する当の思想そのものは哲学理論から派生したものであり、それ自体として間違っていたわけではない。それゆえ、環境倫理の主張が単純なアンチテーゼにとどまる限り、その主張の正当性が哲学的に理論化されず、また三つの主張が相互にどのように整合的かつ必然的に連関するのかも明確にならない恐れがある。環境倫理学が環境問題に関する単なる規範的な主張にとどまらず、哲学的に普遍性のある理論となるためには、三つの主張がひとつの原理によって一貫して説明されなければならない。その時はじめて環境倫理学が目標とする「環境論的転回」が達成されるからである。

 

❶自然物の権利  

 

第一の主張である自然の権利に関する主張は環境倫理学の中心をなす主張である。自然の生存権は動物愛護運動、環境保護運動と直接結びつき、市民運動としての環境問題の最も根本的な主張とされている。 

 

自然中心主義には、大きく分類して感覚、生命、生態系をそれぞれ中心とする三つの立場が存在する。”感覚中心主義”は”痛感中心主義”とも呼ばれ、苦痛の存在を権利主体の基準とみなす立場である。この立場は動物開放論の中心的理論であり、功利主義を人間社会の枠を超えて動物の共同体にまで適応しようとするものと理解できる。

 

また、”生態系中心主義”は生命のみならず、地球のエコシステム全体を人間にとっての有用性という観点を離れて、客観的な価値を持つものとして認めようとする立場である。  

 

生態系中心主義を最初に確立した著作はアルド・レオパルドの『土地の倫理』だが、それによると、動物開放論の登場以前に、人間中心主義に対抗する個体中心主義や感覚中心主義を批判し、生態系全体の保全こそ環境倫理の根本的課題であると主張した。レオパルドは、ミルの功利原理を意識し、「それが生命共同体の統合、安定、美を保つ傾向にあるならば正しい」という土地倫理行為の基準を提示する。

 

レオパルドの倫理思想の特徴は全体主義(holism)にあり、人間と動物を含む個々の自然的存在の全体を存在させる基盤としての生態系全体を道徳的配慮の直接的対象としなければならないとする。レオパルドは、鹿を保護するために狼を駆逐した結果、鹿が増えすぎ、鹿の生息する山が荒れ果てその結果鹿が全滅した経験等をもとに、生態系全体の保存のためには個々のメンバーを犠牲にすることも必要であると主張する。

 

しかしながら、環境倫理学の基礎理論としてはレオパルドの土地倫理は、自然保存を超えた環境倫理学のより根本的な目的に対しては十分なものではない。人間の行為は、直接的に生命共同体全体にむけられるものではなく、”人間化された自然”を対象とするものである。そういう意味で、総じて生態系中心主義を含む自然中心主義は、人間と自然の対立というそれ自体が克服されなければならない誤った二元論的図式を前提にしている。その主張を極端に推し進めると「環境ファシズム」と呼ばれる事態がもたらされる。つまり、自然中心主義は人間中心主義と同様の欠陥を持っているのである。

 

道徳性にとっての根本的な条件とは「安定」である。自然中心主義は、人間から自然へのかかわりを断絶することによって、”環境”としての自然を否定し、人間と自然との安定した関係を断絶する。それゆえ、自然中心主義にとどまる限り環境倫理学は包摂的な倫理学とはなりえない。

 

加えて、自然中心主義の理論的破綻の原型は、実体主義的思考に見られる。まさに近代哲学の認識論的転回によって明確にされたように、対象そのものがそれ自体として存在するとする理論は成り立たない。なぜなら、対象を認識する認識者が存在しない限り対象は何ものでもありえないからである。ましてや環境の保護や保全は人間が自然に対して働きかける行為以外の何ものでもない。

 

生態系中心主義の規範的主張をさらに推し進めた「ディープ・エコロジー」にもそれと同様の難点が見られる。ノルウェーの哲学者アルネ・ロスは、人間のための自然保全を擁護するエコロジー運動をシャロー・エコロジーと呼び、それに対して、自然の保存そのものを目的とするディープ・エコロジーを提唱した。

 

しかし、ディープ・エコロジーは、自然の保存絶対主義をとなえる。それは環境についての熱狂的思想に近い。ディープ・エコロジーの主張をまともに受け入れるためには、現在の先進国における文化的、経済的、産業的活動を停止しなければならないであろう。このような主張は「熱狂」によってしか支持されず、広範な人々がその運動を持続する現実的ヴィジョンを欠いているがゆえに、通常の倫理として受容することは不可能である。  

 

さらに、現在の環境問題のもっとも大きな問題は地球温暖化であり、自然物や生態系の保護という従来の自然保護思想では対応できない事態が生じている。例えば、自然物の権利の主張として生命多様性が唱えられているが、種の絶滅が危機であるのは、その種が生態系において果たす役割や、人間が利用する資源としての有用性がなくなることだけによるのではなく、自然物が存続できない環境それ自体が問題である。  

 

以上の考察から明らかなように、人間中心主義を批判するために自然中心主義を持ち出すのは誤りである。自然中心主義ではなく「環境」が中心にならなければならない。環境とは自然と人間との”関係(仏教でいう縁起)”を意味する。健全な環境とは、人間の営みと自然の生態系の調和を意味する。その点で人間中心主義と自然中心主義の対立図式そのものを乗り越えるものであり、環境論的転回は人間と自然との関係を価値の基軸にすえるものでなければならない。

 

❷世代間倫理  

 

世代間倫理、すなわち現在の世代と将来の世代との問の倫理は、現在の世代が将来の世代に対して責任をもち、現在世代が自らの行為に制限を課することを要求する倫理と理解されている。

 

環境問題の特殊性とは行為者と行為の影響を受けるものとが時間的に隔たっていることにある。石油の消費も、フロンガスによるオゾン層の破壊も、地球温暖化も、より大きな被害を受けるのはその原因に直接責任を負わない将来世代の人々である。

 

加藤尚武(『環境倫理学のすすめ』)によると、地球が35億年かけて蓄積した化石資源をわずか百年足らずの世代が使い果たし、その後に化石資源なしには立ち行かない社会システムと、温暖化をはじめとする負の遺産だけを引き渡すことは、現在世代の未来世代に対する犯罪であると断じている。  

 

このような世代間倫理は、近代市民社会の重要概念である社会契約理論と関連している。同著によると、世代間倫理と議会制民主主義、さらに進歩史観(マルクス史観)の関連が指摘される。例えば、社会契約は互恵性に基づくものであるから、非対称的な契約としての世代間倫理は成立しないというのである。

 

また、シュレーダー=フレチェットは異なる世代間に互恵性に基づく契約的な義務を想定するために「恩」という概念に訴えることができるとする。現在世代が地球の自然的資源から多くの恩恵を受けることができるのは、過去世代がその資源をわれわれに残してくれたためであり、その恩にこたえるために現在世代には将来世代のために同じように地球資源を残す義務があるという。  

 

しかし、世代間倫理を社会契約の枠組みで正当化しなければならない必然性はない。世代間倫理は、地球の将来に破滅をもたらしてはならないという根本的な規範的主張である。したがって、現在世代と未来世代の間にいかなる互恵的な関係が存在しないとしても、また社会契約説が哲学的に世代間倫理を説明するために不適切であったとしても、地球の未来に対する私たちの良識に基づく配慮は消滅しえない。未来世代にたいする道徳的責任は、社会契約説の枠組みを超えた次元で前提されなければならないものである。  

 

ヒュームが社会契約説批判において明らかにしたように、契約概念は約束という社会的制度が存在しないところでは無意味であり、約束は、ある社会共同体内部での財の交換と将来の行動を調節する仕組みである。約束は限定された所有関係および人間関係の調節のシステム以上のものではない。環境倫理学は人間の倫理の全体にかかわるべきものであり、契約概念はそのための道徳概念としては狭すぎると言わなければならない。  

 

そういう意味で、世代間倫理は進歩史観を前提にした議会制民主主義の決定システムを批判するものでなければならず、社会契約説は道徳の本質を説明するのに適切な理論ではない。互恵性に基づく契約は、対等な人間同士にしか当てはまらない概念であり、環境倫理学が扱う人間と環境との関係はそのような限定された利益に基づくものではないからである。

 

環境倫理学は、社会の経済的利益を最大化するための理論ではなく、地球時代のあるべき倫理を提示する営みである。倫理的な正しさは、経済的利益によって決定される下位概念ではなく、利益の意義そのものを決定する上位概念なのである。

 

同様の意味で、現在世代の利益と未来世代の利益の対立が存在するという図式そのものが間違った利益概念に基づくものなのである。この利益概念は、快を基準とした功利主義的立場に基づいている。

 

倫理的観点からは、環境に関する現代世代と未来世代の利害の対立は存在しない。未来世代の生活環境を適切な形で配慮して生きることが、現在世代の正しい利益を意味すると考えなければならない。それゆえ環境倫理学は功利主義を批判し、その利益概念を再検討しなければならない。  

 

加えて、認識論的観点からも現在世代の利益と未来世代の利益の対立という二元論は成立しない。それは、自然の権利と人間の権利を二項対立として理解する図式が成り立たないのと同様である。現在世代と完全に区別される未来世代固有の利益や権利はありえない。言い換えるならば、未来世代の利益や権利と関係ない現在世代の利益は存在しない。未来世代の利益とは、自分たちと距離が隔たっていると理解される限りでの現在世代の利益のことである。それゆえ、現在世代と未来世代の分離は成り立たず、現在世代の利益とは現在世代から見た未来世代の利益を含んだものと考えなければならないのである。

 

❸地球全体主義  

 

加藤氏が指摘するように、古典的自由主義は”無限空間”の想定と結びついている。ミルは古典的自由主義の立場から個人の自由を「危害排除の原則」によってあらわした。危害排除の原則とは、他人の行為に干渉することが許される唯一の理由は、自己防衛であるというものである。言い換えれば、個人は他者に危害を加えない限りにおいて何をしても許されるとされる。自由な行為は他者に影響を及ぼすことなく行われることを意味し、そのためには無限空間が必要となる。加藤氏は平等という観念もまた無限空間の想定を必要とすると述べる。なぜなら「すべての人に無限に増大する欲望の機会を与えることは無限の空間という想定がなければ不可能だった」からである。

 

自由主義を確立したロックは、社会契約を可能にする独立した個人の存在可能性をアメリカ新大陸という「無限の」土地を根拠として想定していた。

 

しかし、今日の環境問題によって明らかになったのは、他者に影響を及ぼさない自由な行為は存在しないという事態である。地球が有限で閉じられた空間であるがゆえに人間の行為は相互に影響しあっている。ひとつの国で排出される二酸化炭素は地球全体を温暖化させ、ひとつの国で排出されるフロンガスは地球のオゾン層を破壊する。

 

埋蔵資源に関しても同様の事情が存在する。利用可能な物質とエネルギーの総量は有限であり、ある人によって使用された資源はそれ以外の人の利用可能性を減少させる。ゼロ・サム的世界においては自由を機軸とするロック的正義は成立せず、配分の問題が正義についての根本問題となる。したがって地球全体主義は、その本質において従来の自由主義と個人主義への批判を意味する。  

 

さらに地球全体主義は、国家を超える行為の枠組みとして地球を想定するものであり、資源利用の利益と負担についての国家間の配分の公正さを主張するものでもある。国益ではなく”地球益”が人々の共通の目標にされるべきである。このように、環境倫理学における地球全体主義は地球共同体、人類共同体の理念にかなった行為原則を主張する。これは、対面倫理を基調としてきた伝統的な倫理学への批判を意味するものである。  

 

しかし、地球全体主義にも「自然の権利」や「世代間倫理」と同様の認識論的困難が見られる。それはすなわち、自然そのものの立場や未来世代そのものの立場が認識不可能であったのと同様に、地球全体の立場も認識不可能であることである。地球全体の利益を代表する観点が確定できなければ、何が地球全体の利益であるのかをめぐる対立が生じ、個々の利益を限定することはできない。その場合、地球全体主義は単なる”スローガン”以上のものではなくなる。

 

(3)三原則の新しい定式化  

 

以上の考察から、環境倫理学の三原則を環境問題に関する網羅的で包括的な原則とみなしうる理由が明らかになった。環境倫理学の三原則は、環境に関する行為がかかわりうる三つの次元を表す。すなわち、人間以外の自然、未来世代の人々、地球全体の三者は、人間の行為の対象として想定することができるすべてのカテゴリーをなすと考えられるのである。加藤氏の主張する環境倫理学の三原則はこのそれぞれを指示し、全体として対環境行為の対象の全体を構成する。

 

ここで、三原則相互の関係について考察しなければならない。三つの原則は鼎立(ていりつ)可能であろうか。自然の権利と未来世代の権利はどのように関係するのだろうか。世代間倫理は現在世代が自然に対して持つ権利を未来世代にも認めようとするものである。

 

しかし、未来世代の権利の内実が、単に未来世代が自然に対して権利を持つことを保証するものであるとしたならば、その場合、自然の権利と未来世代の権利は相互に矛盾するものとなる。  

 

また、地球全体主義の主張は従来の時間的、空間的に限定された因果関係に基づく自由概念に対する批判であり、環境正義を国家の枠組みを超えた次元で成立させなければならないという主張でもある。これは、自然の権利や未来世代の権利と直接関連を持たない。言い換えれば、地球全体主義を適応することによって、自然の権利や未来世代の権利が保証される訳ではない。それゆえ、環境倫理学に権利に基づく道徳理論としての統一性を持たせるためにはその三者を包摂する原則が必要である。  

 

ホッブズにおける自然状態の仮説が明らかにしているように、制約の存在しない権利同士は衝突し、ついには権利そのものをも無にする結果となる。人間の自然権を出発点においたロックの理論は、権利とともに権利を保証し同時に制約する自然法の存在を想定していた。

 

その自然法は、ロックが想定した市民にとって自明のものであり、また自由な人間の共同体は契約によって成立するとされたがゆえに、合意によって成立する法の支配が諸個人の権利を両立させることを可能にした。しかし、環境倫理学が要請する諸原則は、合意によって成立する共同体をはるかに越えた対象に適応されるものである。このことは環境倫理学を権利に基づく道徳理論として構想することが困難であることを意味する。  

 

権利に基づく道徳理論の強みはその明確な規範性の主張にある。しかし、その弱みはその規範性がいかにして実施されるのかについての現実的な実現可能性が明確にされていないことである。理想が現実に先行し、理想は実現可能である以前に実現されるべきものとされる。

 

ここには、事実から当為を導き出すといういわゆる”自然主義的誤謬”と正反対の難点がある。たとえ権利や規範が主張されたとしても、それが実現可能でなければ人間にとっての倫理として十分に機能しえない。権利思想は近代哲学の成果であったが、それを実現できたのはまさに自然が犠牲にされたからに他ならない。

 

権利概念を認めるためには権利主体の同定を前提としなければならない。しかし、自然は一部分を他から切り離すことのできない全体的な有機体であるから、自然を権利概念に基づいて擁護することは不適切である。権利は人間的な概念であり、権利概念を使用する時点ですでに人間中心的な枠組みを自然に対して当てはめなければならないことになる。

 

だが、人間社会における権利の拡大のアナロジー(類推は、人間以外のものに直接当てはまるものではありえない。果たして環境倫理学の三原則を統一する原理は存在するだろうか。

 

前節において、三原則に共通する問題点を示しておいた。それは、自然、未来世代、地球全体という私たちとは異質の倫理的対象を認めなければならないことである。しかし、環境倫理学はそれらを統一性のない単なる個別的な主張であってはならないはずである。私は環境倫理学の三原則を次のように言い換えることで、その統一性が明確にされると考える。

 

①自然中心主義:人間の活動は自然の循環的な生態系に依存しつつ、生態系の自律性と調和的に行われなければならない。

 

②世代間倫理:人間の活動の総体としての最高目的は、現時点での功利の最大化ではなく、地球共同体の安定的持続でなければならない。

 

③地球全体主義:人間の活動の自由を正当化する「危害原則」は、個人においても国家においても、自然との調和と行為の安定的持続を基準として判定され、国境を越えて適応される。

これらのうち①は、デカルト的人間中心主義批判であり、人間と自然を二元論的に分断するのではなく、人間の生存の現実的基盤として自然を位置づけなければならないという環境倫理学にとってもっとも根本的な主張である。

 

②は、現在の環境問題をもたらした利潤追求主義としての功利主義批判である。明らかに①で述べた生態系の自立性と人間の活動との調和が成り立つならば②も成立するから、この二つは同一の事態の二つの側面である。

 

③は環境倫理学における自由概念を環境保全によって限定するものである。この定式化の狙いは環境倫理学の統一的な原理を明確にすることである。 三つの主張のうち、人間の活動とそれを可能にする環境の関係が安定的で持続しうべきであることが最も根本的である。この目標が達成されることが環境問題の本質的な解決を意味する。

 

(4)環境倫理学の原理としての一般的観点  

 

環境倫理学は近代哲学および近代の倫理思想を修正する新しい倫理学である。とりわけ、デカルト的人間中心主義、ベンサム的功利主義、ロックおよびミルの古典的自由主義への根本的批判を意味する。しかし、近代哲学の内部において、これらの理論への批判はすでに存在していた。そのうちもっとも包括的な哲学理論としてヒュームの哲学をあげることができる。

 

その理由は、ヒュームの理論がデカルトに始まりホッブズ、スピノザ、ロックにいたる近代哲学を批判的に纏め上げ、また一方においてはベンサムやミルの功利主義を用意したといえるからである。  

 

人間の権利に対して自然物の権利を主張する困難さは、自然物の権利や内在的価値の認識が人間に属することにある。この事態の哲学的な困難さは近代哲学において、外界存在をいかにして論証するかについて近代哲学が直面した困難に類比的である。すなわち、知覚によって知覚から独立の対象をいかにして知ることができるのかという問題がそれである。  

 

ヒュームはデカルトが精神を物体から独立に存在するとしたことを批判した。デカルトの人間中心主義の欠陥は、人間の本質を”思惟(しい)”とし、自然を機械論的理解の対象としたことである。デカルトは確実な認識のために対象を歪曲したとも言える。これが人間中心主義の真相であるならば、自然を正しく認識することによって人間中心主義を本来あるべきものへと修正すことができる。

 

自由に関しては、しばしばヒュームは自然の必然性と意志の自由を認める”両立論者”と誤解されているがそれは間違いである。ヒュームは自然の必然性を客観的事実ではなく、人間の経験的事態と考えた。自由と必然は対概念であり、ヒュームにとって自由もまた経験的事態である。

 

ヒュームは特に、ロックの社会契約論や自然権としての自由を批判した。ヒュームは功利主義の先駆的理論を提示したがヒューム自身は功利主義者ではなく、またベンサム自身がヒュームの共感論を厳しく批判している。ベンサムの功利主義は基本的に合理主義的な設計思想であり、ヒュームの反合理主義的調和思想と呼ぶべき傾向とはまったく相容れないものである。  

 

このようにヒュームの道徳論は人間中心主義批判、自由主義批判、そして功利主義批判を含むものであり、環境倫理学の主張の理論的原型として理解しうるものである。ヒュームの道徳論の基本的原理は秩序と安定である。ヒュームは”知覚”の理論を中心にしながら、人間は自分の周りの自然的、心理的、道徳的、政治的環境との安定を求めながら秩序を形成すると論じている。

 

その際に秩序を形成しそれを認識する視点が「一般的観点」である。自然中心主義が間違っているのは、自然だけを代表する観点が存在しないからであり、世代間倫理の問題は、未来世代を代表する観点と現在世代の観点を包摂する観点をどこに求めるかであり、地球全体主義もまた地球全体の立場を代表する視点を必要とする。人間の視点でも、自然物の視点でも、全体の視点でもなく、個物と全体との調和を見出す観点としてのヒュームの一般的観点は、これらの課題に答え環境倫理学の命題を一貫した視点に置く概念である。

 

では、そのような一般的観点をより具体的にどこに見出されるであろうか。ヒュームによれば、一般的観点は習慣よって形成される。習慣は、秩序と安定と調和が成立をそれ自身のうちに具現するものである。人類は長い間、自然との安定的なかかわりの仕方を伝統という形で築き上げてきた。

 

そこには、環境の安定的持続を維持するために必要なヒントがほとんど余すところなく示されているはずである。人間と自然とのかかわりが人類の活動の大部分を占めてきたのであり、環境はありのままの自然ではなく”人間化された自然”である。

 

したがって、自然と調和的に生きる方法は伝統が教える知恵をさらに発展させることである。丸山徳次氏らの「里山運動」や「自然保護を考える」における鬼頭秀一氏の主張は、こうした人間と自然とのかかわりを環境保護の視座にすえるべきであるという主張のように思われる。これらはいずれも、経済至上主義とも、極端な反文明主義とも異なる自然と人間との調和的な生活を目指す思想である。  

 

秩序と調和は個々の権利に優先する。権利が秩序を生むのではなく秩序が権利を可能にするからである。一般的観点は自然と人間の調和的関係の認識を可能にし、そのような観点に定位することが環境問題をめぐる正しい倫理をもたらしうるのである。

 

地球環境問題は今世紀、人類にとって最大の危機的課題となることが予想される。環境とかかわらない人間の行為はありえないからである。とりわけ、地球温暖化問題は人類が英知を傾けて取り組まなければならない緊急かつ重大な課題である。

 

それゆえ、環境問題を狭義の自然保護や動物保護の問題に矮小化してはならない。そうした課題に対して倫理学が果たす役割は大きい。環境問題は倫理の意味そのものをも明らかにしつつある。環境倫理学という新しい倫理学が必要とされているのではなく、環境問題に適切に対応しうる倫理学こそ現代において正しい意味での倫理学とみなされ、ここに倫理学の”環境論的転回”が要請される。

 

反人間中心主義、世代間倫理、地球全体主義はすべて倫理の本来の目的として人類の福祉に貢献するものでなければならない。とりわけこれまで、個人対個人、個人対国家の関係において構想されてきた正義論は、環境とのかかわりを正しく定める理論として再構築される必要がある。

 

環境倫理学は単なる自然保護思想にとどまってはならず、より包括的な倫理思想として展開されなければならない。実体的個物ではなく”関係”を中心とする道徳理論の原理としての一般的観点は、環境倫理学の規範的概念として大きな可能性を持つものと考えられるのである。

 

 

さて、以上で本ブログの投稿を終えますが、その理由は、すでに述べたように、今回の新型コロナショック(革命)で世界國體が二千年来企図してきた「HAARP計画」がついに発動されました。これにより、人類社会が金融資本主義社会(その発展形の共産主義含む)から、それぞれの地域、人々が個性、創造性を発揮して生態系の中、必要最小限度で支えあう共創社会、すなわち「國體社会主義社会」に移行し、”種としての人類”の存続に目途が立ったからです。もはや私もすべてを語りつくし、これ以上語ることもなくなり、したがってこれ以上社会的事象(外部事象)について探求することに興味を失いました。残りの人生は”心の世界(精神世界)”の探求を継続していきたいと考えています。

 

というのは、前述したように、仏教によるとあらゆる神羅万象は心(意識)が投影して見せているだけ(空)で、例えば、過去や生前の出来事も、未来や死後の出来事も、懐かしさや期待など、自分の心と関係なしの客観的な実体としては何も存在していないと説かれているからです。ただ、多分、肉体を離れてでないと究めることはできないと感じていますが…。

 

ともあれ、それぞれに賛否両論があったとは思いますが、長い間、読んでいただいた方に謹んで謝意を表します。

 

                                                  長髄正彦