前回、「國體関係者には、残念ながら思想・哲学を持った人物がいない」といいましたが、その好例として最近、「愛」などと一神教が得意とする洗脳用語を用いるような関係者が出てきたので、仏教思想との比較でその欺瞞性を明らかにします。

 

1、仏教とキリスト教の違い

 

仏教とキリスト教の一番の違いは、仏教が「多神教」であるのに対し、キリスト教が「一神教」であるという点です。一神教は意識する対象がシンプルなためその教義も単純で、これを「祈り型」の宗教(信仰)といいます。

 

これに対し、仏教や神道、ヒンドゥー教、道教など東ないし南アジア系の宗教は多神教が多く、それゆえその教義も体系化され、哲学に近い難解なものが多いため、これを「悟り型」の宗教(実践哲学)といいます。

 

とくに仏教は、ニーチェやハイデガーらの西洋哲学者だけでなく、近年は発展著しい認知心理学や脳科学、AI(人工知能学)、量子理論(本稿では量子物理学を思想面にも応用するためこの呼称を使います)でも、その体系や結論の妥当性が大まかに裏付けられています。

 

ただし、この結果、当然のこことして一神教は多くの大衆に受け入れられやすいのに対し、多神教は長く一部のエリート層の学問とされて来ました。実際、キリスト教の信者数は世界一ですが、仏教も一見、一神教に近いシンプルな教義を採用した宗門、宗派は多くの信者を擁しています。

 

私は、このような現状に物足りなさを感じたことから、あとで日本神道とその背景となった日本の伝統哲学カタカムナにも触れますが、主に初期の原始仏教の哲理を中心に、その難解な内容をシンプルにして理解を容易にし、生活に生かせるように解説します。

 

2、弟子のパウロによる創作 

 

まず、キリスト教で使われその象徴ともいえる「愛」という言葉は、「平和」や「民主主義」などという言葉と同じく審美的で心地よい印象を持っていて、一見誰でも受け入れ易い言葉です。

 

そのため、わが国では欧米文化と共に文明開化以降、とりわけ大東亜戦争の敗戦以降、ハリウッド映画の普及やテレビドラマとともに一般に浸透、欧米に憧憬を抱く若者や女性を中心に “魅力的な言葉 ”としてもてはやされています。

 

また、チャネラーやヒーラーなどの “ニューエイジ ”といわれる欧米系の霊能者が使う言い回しは、「宇宙の根本原理(神の御心)は愛であり、調和であり、光であり…」などですが、私から言わせるとこの言い回しはキリスト教的価値観に基づくジャッジが入っており、普遍的な“真理 ”とする根拠はありません。

 

人々を言葉の魅力で恍惚とさせるイメージ(マーケティング)戦略です。こんなレベルですから「愛」の言葉の真意を理解している人など稀であるというのが実態です。

 

ところで、キリスト教を始めたイエス・キリストが「愛」を教義にしたわけではなく、弟子のパウロによって「愛の福音宗教」とされて以来、キリスト教やその影響を受けた欧米思想で使われるようになったようです。

 

それ以降、「愛」は絶対的な「神」の意味で使われ、「神の恩寵としての無償の愛」だったり、逆に「神への無償奉仕」の意味で使われ始め、「いつも神に見守られているんだから、無償で奉仕しろ」というのが、ローマカトリックが信徒を引き付けておく決まり文句になったのです。

 

実際、異端として切り捨てられた「ピリポの福音書」や「トマスの福音書」「マグダラのマリアの福音書」、さらに戦後発見された「死海文書」や「ナグハマディ写本」には、イエス自身がそんなことを言った記録は書かれておらず、プラトンのイデア論など「グノーシス(叡智)」を重視する「ヘルメス主義」に貫かれています。

 

ちなみに、新約聖書は、約千五百年の間に十三人の人物によって四十回にわたって、時の権力者に都合良く書き換えられたと言われています。

 

3、「愛」の名の下の侵略戦争

 

このように、「愛」という言葉は、欧米型(ローマ帝国型)支配の精神的支援機関であるバチカンの影響下にあった弟子のパウロが、イエス・キリスト亡き後に創作したものですが、その後、欧州では「愛」こそが「正義」として、「神の名の下の宗教裁判」、「十字軍による侵攻」、「インカ、アステカ侵略」、

 

さらには「自由と民主主義を守る?ための現代の対イスラム戦争」にも利用されてきました。この欧米にとっての正義である「自由と民主主義」の根拠は、大陸系観念論哲学では“神の分身 ”としての「理性」で、英国系経験論哲学では「聖書」です。

 

しかし、「愛」はまずは“心情(感情) ”であり、その後「無償奉仕=与える」という行為が生まれ、その次に「与えられる」ことで得られる感謝の念によって再び生まれる円環的な心情と行為のはずです。

 

例えば、病気を体験すると人に優しくなるように、失ったり、苦しい体験を通して、同じ境遇の人の気持ちが解り、「人に対する優しさ」として生まれ、身に付くもののはずです。

 

あるいは、“二元性(コインの裏表のような対をなす関係性、属性二元論、中立一元論)”の観点からいうと、「無償奉仕」は反対の「収奪」がなければ成り立ちません。

 

次に「調和」ですが、「分離」がなければ成り立ちませんし、「喜び」は「悲しみ」がなければ成り立ちません。「光」も「闇」がなければ成り立ちません。また、「平和」についても、「戦争」に内戦や革命、クーデターまで含めてとらえると、戦争によって古い体制が終わり、新しい社会や秩序が生まれるという関係にあります。

 

一方、平和を「争いのない状態」とするなら、争うからこそそこで傷つく痛みを知り、穏やかさを取り戻す。争いは避けなければなりません。しかし、人間は神ではないのでヒマになれば必ず他人のあら探しを始めます。争いは人間の持つ学びのための “悲しい性(さが)”なのです。

 

4、ローマ帝国支配を支えたキリスト教

 

以上のことを、「一神教と多神教」の関係でいうと、欧米人は一神教文化の下にあるため、一定の絶対的価値を前提に導かれる思考(論理)を重視し “ポジティブ・シンキング ”などという手法が有効なようです。しかし、多神教の日本では、直感(感性)を重視し、変化を受け入れ、

 

「あるがままに任せる」という発想を基本にしています。そのため、例えば、世界ではベストセラーになった「ザ・シークレット」や「思考は現実化する」などの成功哲学は、東洋や日本でも本は売れましたが、結果を出した人を聞いたことがありません。ただの気休めになっています。

 

確かに、ポジティブ・シンキングも、極端にネガティブになっている状態でバランスを回復する上で強調するには短期的効果があります。例えば「あなたはそのままですばらしい!」とか、「愛と光に包まれて…」なんて言葉も。でも、一時の気休めです。それどころかこれらの美しい言葉は、

 

人々を恍惚とさせるマインドコントロールに利用されてきた面があります。実際、ローマ皇帝と結託していた十二世紀のローマ教皇インノケンティウス三世は、人々が苦しんでいるとき、「それは神の与えた試練だ」として服従を迫り、重税を取り立てたといわれています。

 

5、宗教は大衆の麻薬(マルクス)

 

一方、釈迦は、「神などいない。そんなものを祈るより、事実と妄想を峻別し、物事の原因を明晰に見極めよ」と説いています(因果説)。

 

加えて、マルクスは、「(欧米流の一神教)宗教は大衆の麻薬である」といい、ニーチェは「宗教は(思考停止した)弱者の道徳、奴隷の道徳である」といっていますが、まさに “正鵠を射た名言 ”です。

 

それどころかニーチェは晩年、仏教に関心を示し、「永劫回帰」という仏教思想に近い考え方に到達しており、同じく実存主義哲学者のハイデガーに至っては、「歎異抄(たんにしょう)」を読んで仏教に惹かれ、「日本人は何をしているのか」と語っています。

 

ともあれ、何もないところに突然、絶対的に「愛」が存在することはありません。所詮はその人が感じる感情のエネルギーをきっかけに「与えられた事」、あるいは「喪失」、「欠乏」、「孤独」等の事実と心情をきっかけに、これと対を為して生まれます。

 

こういうと、「じゃ~、自分には人を愛する資格がないのか」なんていうひとがいますが、そんなことはありません。 “今ここ(即今・当処・自己)の現実 ”の中に在ります。

 

世の中の喧噪などの余計な情報や、そこから生まれる過去への後悔、将来への不安などの妄想を断ち切って自分を深く内観すれば、生かされている(愛されている)ことの喜びと感謝が沸き、他者への優しさ(愛情)に変わる、これが「愛」の本当の姿で、それ以外は単なる“願望 ”であり、“祈り ”であり、“信仰 ”です。

 

ただし、ここでいう「生かされた存在」を”生かしている主”は誰か?という疑問が出てきて、下手をするとそこに”神”などの超越的な存在を認めてしまうこととなります。ここでは簡単に済ましますが、”生かしている主”の正体は唯識説によると「阿頼耶識」といわれる潜在意識であり、その潜在意識が外界に投影されているのが現実という神羅万象の実相です。

 

 

 

 

ともあれ、このような「コインの裏表」のような相対的な関係を仏教では中観(ちゅうがん)、量子論では「量子もつれ(エンタングルメント)効果」といいます。

 

6、「愛の反対は無関心(マザー・テレサ)」は間違い

 

一方、キリスト教の「愛」に近い言葉として、仏教にも「慈悲」があります。しかし、前者が「無償の愛」という自分の外部に何かを与える能動的態度(献身)であるのに対し、仏教の「慈悲」は、「情けをかける」と言う意味で与えることも含みますが、基本は「あるがままを許し、受け入れる=水に流す」という真逆の受動的態度です。

 

つまり、多神教の下では、自分の外部に絶対的、普遍的な存在や価値などなく、すべては「今ここ(即今・当処・自己)の意識」から始まり、あとは自分の価値観の設定です。

 

だとすると、「宇宙の根本原理(神の御心)は、愛であり、調和であり、喜びであり、…」なんていうのも、その人の好みによる一時的な価値観の設定に過ぎません(唯識説)。

 

「神」についても、存在するから信じる(絶対的=事実)のではなく、信じるから(信じる人の心に)存在する(相対的=信仰)だけです。

 

ちなみに、マザー・テレサは「愛の反対は無関心」といいました。しかし、釈迦は真逆に「聖なる無関心」といいました。釈迦がいいたかったのは、特定の人に意識を向けると “拘り(執着) ”が生まれ苦しくなる、したがって、「自我を乗り越えられない間は人を愛するな」ということです。

 

実際、「法句経」には、「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず。愛を離れる人に憂いなし。何れの処にか恐れあらん」として、「他人への愛」に拘ると幻影である外側の世界への執着が生まれ真理が見えなくなる。だから、愛するなら “自分 ”を愛せ(大切にしろ)、とあります。

 

つまり、人を愛するといっても、自我がある間は、いつの間には自分の思い、欲望を満たすために相手に求めるようになってしまいます。そして相手が思いどおりにならないとき、愛は苛立ち、憎しみに変わります。「愛憎」という言葉がありますが、「愛と憎しみが裏表」というのはこのことです。

 

しかし、自我を乗り越えられたなら特定の人に “強い拘り ”を抱く事がなくなり、全ての人に対し優しくなれる。これが自我や争いを生むキリスト教の「愛」とは異なる、釈迦が説いた「慈悲」です。

 

7、キリスト教に洗脳された“ニューエイジ ”

 

(1)バシャール情報はデタラメ

 

大地の上に立って地球を見ようとしても、ただ地平線が見えるだけで全体を見渡せません。同様に、私たちの目では体の一部が見えるだけで全体を見る事はできません。この肉体に宿っている間は、すべてを見極める事はできないのが人間の定めです。

 

そのため、多くの人は様々な迷いや不安、妄想を抱き、物事をあるがままに見る事ができないため人生を苦しくしています(諸悪妄作)。そこで私は、脳科学や心理学、仏教、哲学、量子論などを使って、漠然として曖昧な観念に理知の光を当て、迷いを断つアドバイスをライフワークにしています。

 

実際、私の処には、「UFO、宇宙人」等のオカルト論、また「地震、原発」等の災害論、更には「ユダ金、ロックフェラー」等の陰謀論にすっかり洗脳され、ひいては「過激な政治主張」を繰り返す自称ライトワーカーやチャネラー、ヒーラー、整体師を含む“ニューエイジ ”といわれる欧米系霊能者が相談にきます。

 

彼らが口にするオカルト系の情報の中に、「チャネリング情報」というのがあります。実際、私自身も、「フリーエネルギー論」、「大麻万病薬論」などとともに以前は陰謀論についてもオカルト論についても一部、当たっているし、またある意味、夢のある話だったので興味を持っていました。

 

しかし、よくよく科学的視点で吟味、調査してみると、九〇%以上の真理、真実を語った上で一〇%未満のデマを刷り込むという手口をつかっており、このことを見抜いてからは、人々を迷わせ分離意識を定着させる ”特定勢力 “のディスインフォメーション工作だと喝破し、今は全く相手にしていません。 

 

例えば、バシャールというオリオン星雲にいる高次意識からのチャネリング情報というのがありますが、現段階での私たちに比べて高次といっても色々なレベルがあります。 

 

インド哲学や仏教では、五感の他に肉体後意識としての第六意識(感情、思考、理性)、肉体前意識としての第七意識(無意識=末那識)、第八意識(深層意識=阿頼耶識)があり、今の自分の意識レベルに応じた現実を引きつける(自分で創造する)というのが正解です。 

 

また、チャネリング情報の中には怪しい情報も含まれており、バシャール情報には、「再び原発が爆発する」とか、「メルトダウンする」とか、「江原啓之や松原照子(霊能者の)の予言によると地震が~」などと言っていますが、高次の存在が人々を不安にさせるようなネガティブなこと言うとは考えられません。

 

仮に高次意識なる存在がいたとしたら、きっと人類が生きる上での力や希望に繋がることを語るはずです。しかし、自分を離れて(関係なしに)そんな存在があるとすること自体が、自分の外側に普遍的、絶対的な存在を認めるという “一神教 ”の発想(世界の一元的管理)そのものであり、発信元が透けて見えてきます。

 

また、チャネリング情報は、「愛」だの「光」だの、相変わらずの美辞麗句で飾り、最後に人々の分離意識を煽るような政治的な意図を刷り込んでいることからすると、「マインドインターフェイス(思考盗聴)」のテクノロジーを使った洗脳情報だと考えられます。

 

7、キリスト教に洗脳された“ニューエイジ ”

 

(2)ニューエイジは双極性感情障害

 

それはさておき、相談に来る“ニューエイジ ”は非常に純粋で、理想に燃え、正義感も強い完全主義者が多いです。しかし、理知的視点を持たず、「愛がすべて」等の言葉を連発、科学的根拠なき妄想を信じ、他方で反体制的な政治主張や過激な陰謀論を拡散しています。

 

ところが、その一方で彼らの実生活は、そのあこがれる高邁な理想や妄想とは裏腹に大変厳しいのが現実で、私が見る限りその多くは「パラノイア(妄想症)」か「双極性感情障害(理想と現実の精神分裂症)」です。彼らはその純粋さゆえ穢れた現実を受け入れられず、強い自己否定感を持っています。

 

「現実とは自己の潜在意識の投影でしかない(唯識)」というのが私の持論ですが、だとすれば「穢れた現実」は自分の潜在意識が見せる自身の本質であるはずです。それを受け入れられないとすると、自分を認められないのと同じです。

 

分裂した自己を抱えつつ、ますます自分を苦しくさせる。その苦しみを紛らわす、うっぷん晴らしとしての “一時の清涼剤 ”ないし “精神安定剤 “が陰謀論やオカルト論です。

 

その中にたびたび登場するキリスト教が使う「愛」、「平和」、「光」などの審美的な言い回しが、彼らから判断力を奪い “従順な僕 ”に仕立て上げています。

 

また、自分たちの正義や神(ときには宇宙人や高次意識)に沿う者が「善」でそれ以外は「悪」として分離、対立を作り、多くの戦争や植民地化を進めてきたのが西洋中心の世界史です。

 

7、キリスト教に洗脳された“ニューエイジ ”

 

(3)マザー・テレサの正体と陰謀論

 

ちなみに、現代カトリックの象徴的な人物で、ノーベル平和賞を獲得したマザー・テレサですが、巨額資金の横領や不正蓄財(脱税)で、死亡時の預金口座に四十八億円以上の大金が残っていたとの彼女のイメージを覆す衝撃の事実がカナダの宗教学専門誌「Religieuses」で発表されています。→ http://matome.naver.jp/odai/2136324440388202301

 

また、以下はマザー・テレサの最後の言葉とされています。『私はイエスを探すが見いだせず、イエスの声を求めるが、聞けない』、『自分の中の神は空虚だ』、『自分は孤独であり、暗闇の中に生きている』、『天は私にとってなんの意味も持ちません。ただの空虚な場所です』、『愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。

 

神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません』、『私の微笑みは仮面である』などです。

 

なお、「陰謀論」についても一言いいますと、新約聖書では禁止されているが旧約聖書では許された「金利を取る行為」や「徴税行為」などの“穢れ仕事 ”を、各国王族から依頼されていたのがロスチャイルドやロックフェラーらのハザール系ユダヤ人で、彼らは王族(オーナー)の資産を預かっているに過ぎません。

 

確かに、一部に怪しい動きがあったのは事実ですが、彼らが「世界を支配している」などと言うのは明らかに言い過ぎで、そういう意味では「陰謀論」自体が真相を隠ぺいするための“陰謀 ”です。

 

ならば、隠蔽されている黒幕はと聞かれれば、それは「愛」、「平和」、「光」、「正義」などの美辞麗句を掲げて、全く逆のことをやってきた“一神教勢力“で、このことはイエズス会による世界侵略の歴史やGHQによる我が国への戦後政策を見れば明らかです。

 

ただし、ここが難しいところですが、「一神教」にも、追い詰められた状況の人の心の支えになるという”一定の役割 ”がありますが(仮観)、本稿では触れません。

 

 

、哲理(仏教…多神教)と信仰(キリスト教…一神教)

 

ともあれ、ここで仏教とキリスト教の違いを整理してみると、仏教(唯識説)では、全ての出来事は多かれ少なかれ潜在意識が見せている「あるようでない、ないようである(空観)」という曖昧な「立体幻影(ホログラム)」です。

 

しかし、あえて区別すると、「現実」とはリアリティ(納得感)を持って感じるもので、それ以外は広く「妄想」といえます。

さらに細かく区分すると、「今ここ(即今・当処・自己)」で、手で触れるもの、目に見えるもの、肌(体)で感じるものが「現実」。

 

マスコミを通じてイメージするだけのもの、例えば、外国で起こっている戦争などを「想像」、遥か彼方(未来)の出来事、例えば、フリーエネルギーやそれを応用したもの(UFO?)を「空想」、何処に、どうやって、なぜ存在するのか証拠はもちろん、説明すらできないもの、例えば永遠の魂、心霊、天使などを「妄想」といいます。

 

「神」なども「妄想」の典型例ですが、「どこに、どう、なぜ存在しているのか」、論理的に説明できる人はいませんし、実際、人類は二千年以上もこのことを議論してきましたが、解答を見いだせた哲学者もいません。根拠もなく「妄想」を信じる事を “信仰(イワシの頭も信心) “といいます(一神教、キリスト教)。

 

人は「寂しい」、あるいは、「心細い」から「神」や「愛」を設定し、拠り所として存在させます。「寂しい」、「心細い」というネガティブなエネルギーがあるからこそ、対をなすエネルギーの「神」、「愛」が成り立ちます。この関係性と結び目の “哲理 ”を、仏教では「縁起」あるいは「中観(ちゅうがん)」といいます。

 

また、「真理(哲理)」とは、物事の「理(ことわり)=成り立ち」を意味します。これに対し、信仰(キリスト教)で対象にする「神」とは “存在 ”、「愛」とは “価値観 ”ないし “心情 ”に過ぎず、それ自体は「真理」にはなりえません。しかも、全ては相対的(信じる人次第)であって、絶対的、普遍的価値や存在なんてありません。

 

もっとも、ここでいう「キリスト教」とはイエス自身の教えではなく、ローマ帝国の支援機関であるカトリックの教えで、このような特定の価値観の設定によって「善悪二元論」が刷り込まれ、欧米の支配に都合の良い大衆間の分離、対立、争いが引き起こされてきたのがここ二千年に限定した世界の歴史です。