その後、アイヒマン逮捕によってアルゼンチン国内にいることを警戒したヒトラーは、ミシオネス州にある拠点を脱出したあと、ピノチェト独裁政権下のチリにある”エスタンジア”と呼ばれてきた「コロニア・ディグニダ」に向かった

 

チリの首都サンチアゴから南へ350キロ、アンデス山脈の麓にあたるマウレ州リナレス県パラルにある、”エスタンジア”と呼ばれてきたコロニア・ディグニダは、東京都千代田区の四倍に相当する約五千ヘクタール(百五十万平方キロメートル)にも及ぶとされる広大な敷地を有するドイツ人入植地だ。

 

 

 

初期のメンバーは約300人のドイツ人で、大多数はドイツからの移住者とその子弟だった。このコロニーを訪問した者によれば、そこが1930年代のドイツのような光景で、女性はエプロン、髪は三つ編み、男性はドイツ固有の服を着ていたという。

 

 

が、成人男女は別々の寮生活を強いられ、結婚の相手や時期、生殖期間さえもシェーファーの一存で決められ、彼らは日に16時間もの労働奉仕に従事、赤ん坊は2歳になると両親から引き離されたとされる。

 

しかし、次第にCIAの全面的な支援の下に成立したピノチェト独裁政権との密約により、政権に批判的な政治犯の強制収容所と化し、”老教皇”と呼ばれた元ナチスの空軍軍医(医師)だったパウル・シェーファーが教祖として専制支配するカルト教団のコロニーと噂され、恐怖から近づく者はいなくなったという。

 

ここで、コロニー内部を取材したことがあるというチリ人の元新聞記者(チリで最大の部数を誇る日刊紙『エル・メルキュリオ』)の証言を、『20世紀最後の真実(落合信彦)』から引用する。

 

「私(記者)が、このドイツ人コロニーの存在を初めて知ったのは1966年のことだった。そこにユダヤ人少年たちが収容され、虐待されているという噂が立ったのである。私は即座にドイツ人コロニーに取材を申し込んだが、相手は拒否した。

 

そこで私は(チリ中南部の)パラルの市長に取材同行を頼み込んだ。市長がドイツ人側と交渉してくれたおかげで、3ヶ月後、ようやく取材許可が下りた。相手の条件はカメラ、テープレコーダーは絶対に持ち込まないことだった。

 

定められた日、私は市長とともにドイツ人コロニーを訪れた。ゲートを入ってしばらく行くとガード・ハウスがあった。そこで厳重なボディ・チェックを受け、車や持ち物を徹底的に調べられた。それが終わると病院へのゲートが開けられ、先導車に従って並木道を真っ直ぐに進んだ。

 

 


200mぐらい行くと巨大な白い建物の病院にぶつかった。この病院はサンチアゴ(チリの首都)の総合病院よりもサイズが大きかった。救急車の数も非常に多く、全てベンツだった。20台以上はあった。そんなに多くの病人が一度に出るとは思えず、また警備が非常に厳重だったのが不自然に感じられた。正面から見ただけでも5人以上のガードマンがいた。

 

この巨大な病院の前を左に曲がって少し行くと町に入ったが、全てが整然としていた。ヨーロッパの町をそのままスッポリと持ってきたような感じだった。碁盤の目のように整頓された道路は広く、きれいに舗装されていた。走っている車は全てドイツ製だった。メイン・ストリートらしき道路には、ベーカリー、映画館、車の整備工場などがあり、街角のいたる所にスピーカーが備え付けられていた。

 


私と市長は赤いレンガ造りの建物に案内され、そこでヘルマン・シュミットという男に迎えられた。彼はこのコロニーのリーダーの1人だった。建物の中には20人くらいの男女がいた。皆コロニーの運営に携わっている者たちだとシュミットが説明した。

 

その後、このシュミットに町の中を案内された(といっても見ることを許されたのはごく限られた一部だった)。我々が歩いているとあちこちに付けられたスピーカーが何やらドイツ語でアナウンスしていた。外部からのお客さんが来ていることを町の人々に知らせているのだとシュミットが言った。

 

1つだけ不思議だったのは、子供の姿がどこにも見えないことだった。これについてシュミットに聞くと、子供は一ヶ所に集められ、そこで教育され育てられるという。


このドイツ人コロニーの内部は全てが珍しかったが、特に印象に残った事柄をあげるとすれば2つある。

1つはあそこの住人たちの規律正しさというか、リーダーに対する絶対服従の姿勢だ。まるで昔のプロシアの軍隊並みだった。リーダーのひと声で全員が一体となって動いているようだった。我々チリ人から見ればすごいというか怖ろしいというか……。

 

第2に印象に残っている事柄はなんといってもあの経済力だろう。あれだけの道路設備やビルを作り上げるセメントの量だけでも大変なものだ。もちろんセメントは全て自家製だった。セメント工場を見たが規模も大きく、あれなら十分な量が生産できると思った。


セメント工場の他にトラクター工場を見ることが許されたが、セメント工場同様の大きな規模であった。私と市長は5時間ほどコロニーにいて、ともに帰った」


ところで、3日後、このチリ人記者は再びドイツ人コロニーを訪れたという。今度は前もって連絡もせず、文字通りの「抜き打ち訪問」で、市長も同行しなかったという。


期待と不安で胸一杯になりながら、彼がコロニーのガード・ハウスに近づくと、案の定、ドイツ人側は取材拒否の構えを見せ、一刻も早く立ち去るよう威圧的に警告したという。(この時、記者に同行したカメラマンがコロニー周辺を撮影し始めると、ドイツ人ボディガードの2人が血相を変えてカメラマンに飛びかかり、カメラを叩き落とした)。

 

びっくりしたカメラマンと記者は、すでにエンジンがかかっていた車に飛び乗り、ほうほうの体で逃げ出したが、その後、彼らはパラルの町でドイツ人たちに尾行(盗撮)されていることに気づき、言いようのない恐怖を感じ、以来、この記者は二度とこのコロニーに近づこうとはせず、しばらくしてから新聞社も辞めたという(引用ここまで)。

 

このような情報を聞きつけ、真相を見極めようとイスラエルの諜報機関などが人員やヘリコプター、飛行機で侵入を試みたらしいが、地対空ミサイルで撃墜されるなどして、誰も帰還した者はいないという。

 

ところが、コロニー内に監禁されていた少年の脱出をきっかけに事件が明るみ出て、その実態が初めて世間の知るところとなり、当時のチリの日刊紙には次のように書かれている。

 

「ピノチェトの独裁は1974年から1990年まで続いたが、この間、秘密警察による反体制運動家などの拷問、虐殺が横行し、いまだに2000人以上が行方不明のままでである。そして、このコロニー内では収容した政治犯を強制労働に従事させ、その地下牢ではワグナーやモーツァルトのBGMのなか拷問が行われたそうだ」

 

「そんな中、1996年、コロニー内の病院にいた少年が行方不明になり大騒ぎになった。政権はすでに中道左派の大統領に移っていたが、その後もピノチェトの影響下にあった秘密警察やDINA(チリ国家情報局)を後ろ盾に、コロニーは“国家の中の国家”としての治外法権を享受していた」

 

「少年は何とか脱出に成功し両親が告訴したことで新政権も実態の解明に乗り出し、翌1997年、完全武装した警察隊がシェーファーの児童虐待、レイプ容疑でコロニーに突入した。しかし、シェーファーは、”オデッサ機関”などのナチス組織の支援によって、元SSの戦犯ヴァルター・ラウフやシュライバー、そしてヒトラーの護衛役のクルト・シュネレンら70人のナチスメンバーとともに行方をくらましていた。が、潜伏後8年の2005年に元ナチスの幹部仲間とともにアルゼンチンのブエノスアイレスで逮捕された」

 

「シェーファーの供述から、このコロニーはピノチェト将軍の庇護のもと、秘密警察の拷問センター、秘密の巨大武器製造工場、武器庫、武器の国際取引中継基地の機能も果たしてようで、同国史上最大規模の数の機関銃やロケット砲、戦車、装甲車などが隠匿されているのを発見した」

 

 

 

 

 

「また、コロニーが所有する総資産は約50億ドル(約5500億円)。広さ1万5000ヘクタールもある敷地には巨大なトラクター製造工場、巨大病院、2本の滑走路を備えた空港、学校、レストラン、ガソリンスタンドなどが備わっていた」

 

「コロニーはトウモロコシなどの作物、酪農、林業からの収入の他、サンチアゴの国際会議センター、カジノをも運営し、年間数百万ドルを稼いでいたという」

 

以上がコロニア・ディグニダについての新聞記事だが、シェーファー逮捕後はペーター・ミュラーという人物が新しい指導者になり、コロニーの近代化に努めるとともに、住人がコロニー外の大学に通うのを許可したり、コロニーを観光客に開放し、名称も「ビジャ・バビエラ(バイエルン村)」に変わり、宿泊施設を備える観光地として一般に開放されている。

 

が、訪問者には必ずガイドが付き、監視カメラで見ているのか、無断で侵入するとどこからともなく警備員らしき人物が現れて立ち退きを迫られることは今も変わらないと、最近の訪問者から報告されている。

 

 

(次回に続く…)