1、日中戦争を拡大させた近衛文麿と海軍首脳

 

 一九三七(昭和十二)年七月七日、盧溝橋事件に端を発する日華事変が起こる。

これに対し近衛は、事変拡大を扇動する声明を出し、陸軍参謀本部の反対に抗して「国民党政府を対手(たいしゅ)せず」との声明を出したうえで事変拡大を予算面で手当てし、現地での戦線拡大を黙認する。

 

これに堪り兼ねた“卓見の士”陸軍参謀本部第一部長の石原莞爾は七月三十一日、昭和天皇に対し御進講を行い、「軍としては保定(支那の地名)の線に進むことが精いっぱいで、それ以上の戦線拡大には自信が持てない。従ってそにこに行くまでに外交手段により兵を収めることを最善の策と信ずる」と言上、天皇も賛意を表した。

 

 

すると首相の近衛文麿は昭和十二年九月、石原を更迭して関東軍参謀副長、さらに昭和十三年十二月には舞鶴要塞司令官に追いやる。

 

そして、昭和研究会を中心に朝日新聞などを使って事変完遂の世論を喚起させ、「東亜新秩序」を謳いながら東南アジアを目指した(南進)「大東亜共栄圏」構想を打ち出す。

 

加えて、一九三八(昭和十三)年四月一日には国家総動員法によって総力戦体制を確立するとともに、第二次近衛内閣では一九四〇(昭和十五)年九月二十七日、日独伊三国同盟を締結したのに続き昭和十五年十一月十九日、私的諮問機関である昭和研究会を換骨奪胎(かんこつだったい)して「大政翼賛会」に発展解消させ、対米全面戦争への準備を進める。

 

そして、「陸軍首脳部は支那との事変の解決は困難ならずして、危機はすでに去りたるものと観測したる」と述べた、ソ連との決戦を念頭に置いていた杉山参謀総長の戦線拡大に対する慎重姿勢を批判し、現地ではすでに停戦協定が成立していたにも関わらず、事件を「北支事変」と命名し、七月十二日の閣議では「支那に反省を促すために一大打撃を与えるべきだ」として、北支派兵と経費支出を決定したのである。

 

 

ところで、最後の元老・西園寺公望の秘書だった原田熊雄の『原田日記』によると、盧溝橋事件が起きた一九三七(昭和十二)年八月九日には第二次上海事変が起こり、十四日の閣議で政府はこれを「支那事変」と呼ぶことに決定。

 

海軍大臣の米内光政(海軍大将)は十三日の閣議で断固膺懲(ようちょう)を唱え、財政面から反対する大蔵大臣の賀屋興宣を怒鳴りつけ、上海への陸軍派兵を主張、八月三十日までに上海、揚州、蘇州、浦口、南昌などを連日爆撃し、事変を拡大させた。

 

米内は「日支全面戦争となったからには南京を攻略するのが当然」と述べて政府声明の発出をもとめたが、驚いた陸軍の杉山参謀総長は「対ソ戦も考慮しなければならぬから、大兵力は使えない」と答え、松岡外相も政府声明の発出に反対して不拡大論を支持した。

 

 

にもかかわらず、近衛とその最側近で内閣書記官長の風見章(元朝日新聞記者)は外交の定石を無視して「国民党政府を対手とせず」との声明を発表、国民党政府からは「日本側の申し出は抽象的で返事のしようがない」との声明が発表されたため、昭和十三年一月十五日に開かれた政府大本営連絡会議で多田参謀本部次長(陸軍)は「日本側の申し出は抽象的で返事のしようがないというのなら、もっと具体的に示し、また条件も緩和しても、飽くまで停戦交渉を継続すべきだ」と強硬に主張した。

 

ところが、米内は「(陸軍)参謀本部は政府(近衛と風見)を信用しないというのか。もし参謀本部が飽くまで交渉継続論を主張するなら、(海軍は大臣を辞して)近衛内閣を総辞職させる」と息巻いたため、結局、多田次長も交渉打ち切り論を渋々受け入れることで決着した。

 

風見と米内は昵懇の仲で、風見が米内を訪ねるといつも海軍次官の山本五十六(海軍大将)がいて三人で策を練っていたという。この後、米内はさらに海南島に出兵を強行し、仏印(ベトナム)への進出を睨んだため、昭和十五年九月から断続的に行われていた蘭印(インドネシア)との石油買い入れ交渉も決裂、米英蘭の対日石油全面禁輸(ABCD包囲網)を招き、日米関係も決定的に悪化する。

 

これを聞いた杉山参謀総長は、独ソ戦が近いとの急報を受けていたため逡巡し、昭和十六年六月十一日の政府大本営連絡会議で「仏印に進駐(武力行使)するなどはこの際、よく考えなければならぬ。それよりも前から繰り返してきたように、蘭印と仏印に兵力を平和駐屯させるよう、松岡外務大臣の方で手を打ってもらいたい」と外交努力を要請。

 

これに対し、海軍軍令部総長の永野修身(海軍大将)は猛然と反発、「仏印、タイに兵力行使のための基地を作ることは必要である。これを妨害する者は断固として討ってよろしい。叩く必要がある場合には叩く」と発言、出席者一同は唖然としたが、思惑通りに事が運びつつある中、近衛と風見は密かにほくそ笑んだ。

 

近衛と風見が日本の敗北を望んだ理由は、マルクス主義者の風見は、日露戦後のロシアと同様の”敗戦革命”による日本の共産化、近衛は”敗戦革命”の混乱に乗じてた戦後覇権のダ奪取にあった。

 

 

2、日米開戦で日本を破綻させたクリスチャン山本五十六

 

 ちなみに、近衛、風見、米内と共謀したと疑われる、のちに連合艦隊司令長官となった山本五十六は、出生地の新潟県長岡市にいた幼少期からクリスチャン神父の影響を受け、同市の山本五十六記念館に愛用の聖書が展示されている。山本は一九一九(大正八)年に米国駐在を受命した際、フリーメイソンの登竜門ハーバード大学に留学、欧米民主社会に憧憬を抱いていたようである。

 

山本は、昭和十二年十二月、高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際には、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎えるのが恒例だったところ、これを取り消させ、高松宮を一少佐として到着させたという。

 

英米派の山本は米内光政、井上成美らと共に日独伊三国同盟の締結に反対し、これが理由で戦後は「先見の明のある偉人」とされてきたが、これは日独によるソ連挟撃、英国の兵站分断、そして日独の大戦勝利を妨害するのが目的だったようである。

 

 

禁断の真珠湾攻撃やミッドウエイ作戦、ガダルカナル作戦など、大戦(対米戦)中の山本の不可解な作戦行動で日本軍の戦略は東西に分断され破綻するが、その詳細は別項に譲るとして昭和十八年四月十八日、山本は前線視察中のブーゲンビル島上空で待ち伏せ攻撃に遭い、戦死したとされている。

 

 

が、実際は落下傘で降下してジャングル内を移動、最終的にプロテスタント系クエーカー派(米国國體)の拠点とされる米国フィラデルフィアで、残りの生涯を息をひそめて過ごしたと仄聞している。

 

ただし、山本も米内も日本を対米開戦に導き、制御不能となっていた軍閥を敗戦革命で一掃し、日本をリセットさせるという國體(世界國體)の戦略に”結果的”に合致した動きをしていたともいえる。

 

それにしても一人の日本人として釈然としないのは、近衛と風見、海軍の永野、米内、山本たちも真珠湾攻撃が成功したとの電文「トラ・トラ・トラ」を受電した際、「これで日本は敗北した!」と歓喜したことと、近衛、米内に至っては広島、長崎への原爆投下を「天祐」と呼び、米内はA級戦犯七人が処刑された日に駐日米国大使私邸での祝賀会に参加して、シャンパンを飲んでいたことである。

 

なお、A級戦犯処刑日は1948年(昭和23年)12月23日、一方、米内は公式には同年4月に病死したとされているがこれは”偽装死”で、秘かに釈放され、米国大使の日記には米内参加の記録がある。

 

「偽装死」などというと違和感があるかもしれないが、歴史上には國體側の秘事を秘すために頻繁に使われており、山本、米内以外にも陸軍の寺内寿一(元帥陸軍大将)、山下奉文(戦後、國體黄金の東南アジア移転に従事)、石原莞爾(陸軍中将で満州事変の企画者・実行者)、甘粕正彦(満洲映画理事長で元憲兵隊長だったが、アヘンを使った24時間の仮死状態で日本に脱出)、それになんとA級戦犯で処刑されたとされる武藤章(陸軍中将)、広田弘毅(外務大臣)も生きていたと京都皇統筋から仄聞している。