①8月15日、昭和天皇の玉音放送でポツダム宣言受諾を発表。4年に及ぶ大東亜戦争が終わったはずだった。ところが、8月18日未明から21日にかけて日本軍とソ連軍が激突し、日本側の勝利に終わった戦いが"占守島"の戦いだ。

 

②当時、占守島には、満州から転属していた戦車第11連隊(士魂部隊)を率いる池田末男連隊長がいた。騎兵学校の教官の出身で、部下からたいへん慕われていた。

 

③16日、池田連隊長は「陛下はポツダム宣言の受諾を表明された。まもなく武装解除の軍使が来るだろうが、わが連隊も準備に取り掛からなければならない。諸君は今日まで、規律正しく労苦によく耐えてくれた。指揮官として心から礼を言う。今日は十分に休養するように」と。

 

④冬はマイナス15度、吹雪が荒れ狂う極寒の地で任務を全うした兵士たちへのねぎらいの言葉です。敗戦の苦みと、一人の部下も失わずに故郷に帰すことができるという安堵が入り混じった言葉でもあった。

 

⑤翌日、北海道の第五方面軍司令部から打電。「18日16時の時点で停戦しこちらから軍使を派遣。なお敵が戦闘を仕掛けてきたら自衛のための戦闘は妨げず」

 

⑥この場合の「敵」とは米軍のことで、ソ連軍の侵攻は予想していなかった。「敵」の上陸予想地点である北東部の竹田浜には大砲が設置された。他の海岸は断崖のため上陸は困難だったのだ。

 

⑦ところが、18日午前2時。濃霧。監視所から報告。「敵上陸、兵力数千人。国籍不明!」。竹田浜に陣を敷いていた歩兵282大隊の村上大隊長は命令。「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」。敵もロパトカ岬からの砲撃を開始。

 

 

⑧報告を受けた幌延島の第91師団本部から命令。「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落とせ。幌筵島の歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ」

 

⑨18日午前3時半、敵主力部隊が竹田浜に上陸、日本軍の砲火をかいくぐって、四嶺山に到達。282大隊が敵に包囲される。報告を受けた池田連隊長が訓示。

 

⑩「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。が、事ここに至ってはもはや降魔の剣を振るう他ない。そこで皆にあえて問う。諸氏は赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか」

 

⑪「赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ」。すると、全員が歓声を上げて両手を挙げる。連隊長は「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」。連隊長は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがる。30数台の戦車が続く。

 

 

⑫18日午前6時20分、戦車連隊、ソ連軍が包囲する四嶺山麓に到達。連隊長は学徒出陣の少年兵に命令。「お前には将来がある。生きて帰れ」。

 

⑬6時50分、池田連隊長より師団指令部あて打電。「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。〇六五〇、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る」 

 

⑭午前中いっぱい、四嶺山から竹田浜にかけて激烈な白兵戦が展開された。池田連隊長の戦車に敵の対戦車砲が貫通し、散華したが戦闘は続行され、午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めた。この戦闘の結果、日本側の死傷者600人に対し、ソ連側の死傷者3000人。 

 

⑮午後3時、停戦交渉はじまる。ソ連側は日本軍の武装解除を要求。この間に島民約400人(缶詰工場の従業員の婦女子)は複数の船に分乗して北海道へ避難させた。ソ連軍の野蛮性を懸念しての配慮だった。

 

⑯21日、ソ連軍カムチャツカ防衛区司令官グネチコ少将が、日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を出し、午後9時、堤師団長が降伏文書に調印。

 

⑰グネチコ司令官;「われられは1日で占守島を占領する予定であった」。堤師団長;「そちらがその気と分かっていたら、わが日本軍は君たちを海へ叩きこんで殲滅したであろう」

 

⑱その後、ソ連軍は千島列島を南下し、日本軍を次々に武装解除。一方、南樺太を占領したソ連軍は、国後島・択捉島を占領し、日本軍を武装解除。スターリンは千島列島をソ連領に併合するが、北海道占領は断念、その野心は潰えた。

 

⑲8月19日のソ連共産党機関紙『イズベスチア』の記事;「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と。