戦局が悪化する中の昭和十九年四月十二日、近衛は東久邇宮に拝謁し、「自分としては首相を替えるのではなく、このまま東條にやらせて、ヒトラーと共に世界の憎まれ役として全責任を負わせたほうが、途中で二、三人交代させて責任の所在をあいまいにするより良いと思う」と、早くも自分の責任回避のための伏線を張り始める。

 

ところが、一方では、東條内閣打倒を目指す「近衛グループ」を形成して、吉田茂、西園公望の秘書だった原田熊雄、樺山愛輔、牧野伸顕ら「ヨハンセン(吉田反戦)グループ」とともに反東條のポーズをとる。

 

昭和十九年六月にサイパン島が陥落して東條内閣への非難が集中しだすと、内大臣・木戸幸一もさすがに東條を庇えなくなって、東條内閣打倒に動きだし、七月八日に近衛と会談する。

 

『木戸日記』によると、その中で近衛は、「東條内閣は総辞職すべきだが、陸海軍とも戦争を継続する意思を持っているから、今すぐ講和というわけにはいかない。中間内閣を置きその後、東久邇宮内閣を戦争終結の内閣にするが、講和はイギリスに申し入れる」と述べた上で、「その際、今上天皇は御退位になり、皇太子に天皇の地位をお譲りになって、高松宮を摂政とする」と「天皇退位」を持ち出している。

 

これに対し木戸は、「昭和天皇の退位は皇室の根幹を揺るがす」と懸念を表し反対した。私もこれまで、木戸も“怪しい人物”とみてきたが、この一点で疑念は払しょくされた。

 

さらに、第二次、第三次近衛内閣で書記官長だった富田健治の『敗戦日本の内側―近衛公の思い出』によると、近衛は「御上には最悪の場合のご決心もあると思う。恐れ多いことだが、その際は単に御退位ばかりではなく、仁和寺とか大覚寺とかにお入りになり、戦没将兵の英霊を慰められるのも一方法かなとも思うし、また申すも憚られることだが、連合艦隊の旗艦に召されて艦と共に戦死して頂くことも、これこそが本当の我が國體の護持ではないかとも思う」と述懐したという。

 

この後、昭和二十年一月、近衛は京都宇多野の御室にある陽明文庫の一角に建てられた虎山荘で、岡田啓介(元首相・海軍大将)、米内光政(海軍大臣)、仁和寺門跡・岡本慈航の四人で密議を行う。

 

そして、日本の敗戦が決定的となっていた昭和二十年二月十四日、近衛は昭和天皇に拝謁し、今後の日本の方針について纏めた『近衛上奏文』を上奏する。なお、この写しは東部憲兵隊司令部の知る所となり、上奏文の内容流布および陸軍当局の中傷などで陸軍刑法第九十九条違反(「造言飛語」罪)となり、吉田は一時逮捕・拘留される。

 

なお、吉田茂について一言述べると、その養父・健三は幕末、イギリス艦で英国に密航して西洋の知識を習得し、明治元年に帰国。国際金融王ロスチャイルド傘下のケズウィック家が経営するジャーディン・マセソン商会横浜支店長になり、政府相手の軍艦、武器、そして生糸の取引で業績を上げ独立した後、自由民権運動の牙城であった東京日日新聞の経営や醤油醸造、電灯事業で財を成す。

 

ジャーディン・マセソン商会はインド、支那の各地に支店を持ち、清へのアヘン輸出と、英国への茶葉の三角貿易で伸し上がった。

 

この間、健三は、板垣退助、後藤象二郎、竹内綱ら自由党のメンバーと関係を深め、同党のスポンサーとなる。とくに竹内とは昵懇(じっこん)になり明治十四年、竹内と、大室弥兵衛とハナの娘で芸者だった母の間に生まれた五男を養嗣子とするが、これが吉田茂である。吉田が駐英国大使の時、後に吉田のブレーンとなる白洲次郎や牛場友彦、松本重治、鶴見祐輔(IPRメンバー)らは、ケズウィック家(ジャーディン・マセソン商会)の縁で接点ができる。

 

さて、話を近衛に戻すと、大戦共産主義者陰謀説の代表的な文書として有名な近衛上奏文は、昭和二十年の年明けから近衛が湯河原の別荘で考案し、纏めたものをたたき台にして上奏前夜、平河町の吉田邸に一泊して吉田らヨハンセングループと協議して完成させたものであった。

 

 

その内容は、ソ連が東欧に勢力を広げている情勢や、中国共産党のアジアでの動きなど、共産主義勢力が世界で非常な勢いで台頭しているという状況認識を前提にして、これと連動した「陸軍当局(統制派)はアカ(共産主義者)である」と中傷し、「一日も速やかに無条件降伏して、アメリカと講和する以外に方法はない」というものだった。

 

 

(次回に続く…)