話を日米開戦前に戻すと、一九四〇(昭和十五)年十一月二十九日、ロックフェラーのメインバンクで日露戦争の際、ロスチャイルドの口利きで公債を引き受けてもらった経緯のあるクーン・レーブ商会の使者として、米国人ウォルシュ司祭とドラウト神父が「日米諒解案」なるものを持って来日、大蔵省出身で昭和研究会発起人の井川忠雄と会見し日米の和解をとなえる。

 

しかし、この背景には、日米政府間の正式ルートとは別に交渉ルートを設け、適当に泳がせながら交渉を長引かせ、松岡洋右外務大臣が進める対ソ戦に向けた日米開戦回避をかく乱、妨害するというルーズベルト大統領とハル国務長官の思惑があった。

 

 

当然、近衛らも承知の上だったが、敗戦後の戦争責任回避に向けたアリバイ作りとして交渉推進のポーズをとり、海軍出身で英文に疎いうえ、外交の素人でもある野村吉三郎を大使として、近衛の秘書(ブレーン)で通訳の牛場友彦を随伴させて派遣、日米首脳会談の実現を図る姿勢を見せた。

 

「日米諒解案」の“翻訳文”には、❶支那の満洲国承認、❷米国の日支和解調停、❸日本の南方資源獲得への米国の協力、❹近衛首相とルーズベルト大統領の直接会談、と日本側に有利な内容ばかりが記載されていたため、これを見た対米戦に自信の持てない東條陸軍大臣と武藤軍務局長は大はしゃぎしたが、とりあえず訪ソ中の松岡外相が帰国するのを待って米国側に回答することとなった。

 

 

その頃、松岡外相はヒトラー、ムッソリーニと会談した後、急遽モスクワに向かいスターリンと会談、急転直下で日ソ中立条約を締結しており、日・独・伊・ソの「四国協商」を背景にルーズベルトと会談し日米和解、日支和解、欧州大戦の収拾を図らんとの大構想を持っての意気揚々の帰国のはずだった。

 

ところが、幼少時から米国で生活していたため英文に強い松岡外相が帰国後、改めて野村大使から送られてきた「日米諒解案」の原文を慎重に見ると“翻訳文”とはかなり違っており、その上、❶一切の国家の領土保全および主権の尊重、❷他国の国内問題への不干渉、❸通商上の機会均等、❹平和的手段による以外、太平洋の現状を変えない、という前記四原則とは正反対の日本側に不利な、米国が日本とは一切妥協する意思がないことを明確にしたものが加わっていたのである。

 

これを聞き付けた海軍軍令部総長の永野修身は「直ちに仏印(ベトナム)」に派兵し、これを妨害する者は断固、討つべし!」との「南進論」を主張したことは既述した。

 

ところが、一九四一(昭和十六)年六月二十二日、ドイツがソ連領に怒涛の進攻を開始、本格的な独ソ戦が始まる。

 

 

実は、独ソ不可侵条約後もコミンテルン(ソ連)は、ドイツ近隣諸国やドイツ占領下の地域で武器供与を含む対独破壊活動とスパイ活動を継続し、ブルガリアを始めとするバルカン半島やフィンランド、トルコへ触手を伸ばし、さらにドイツ国境での軍事力増強を図っており、「独ソ戦は時間の問題」という空気が漂っていた。

 

日・独・伊・ソの「四国協商」を背景に米国と対峙するという松岡の構想が頓挫した今、松岡と陸軍は日ソ中立条約を破棄してでも、年来の不倶戴天の敵であるソ連を討つべく「北進論」を主張、「西からやってくるドイツと連携してソ連を挟撃すべし」と天皇に上奏し、及川古志郎海軍大臣もこれに賛意を表した。

 

実際、ソ連は一九三七(昭和十二)年八月に蒋介石と「中ソ不可侵条約」を結び多額の軍事援助もしていたため、日本がソ連を攻撃すると蒋介石も支援を断たれ、逆に、「日華反共条約」を結んで日華事変を終焉させる機会にもなり、加えて、反共戦争ともなれば自由主義陣営の米国としては介入する建前がない。

 

戦後、チャーチルや、大戦後期の支那大陸戦線およびビルマ戦線において日本軍と対峙した、反共主義者だった米国のウェデマイヤー将軍も、「日本が第二次世界大戦で勝者となれる唯一最大のチャンスがあった。それは独ソ戦勃発時に北進してソ連を攻撃し、ドイツと組んでソ連を東西から挟み撃ちにすることだった。この絶好の機会を日本はみすみす逃してしまった。日本が北進せず南進して米国との戦争に突入してくれたことは、我々にとっては最大の幸福であった」と述懐している。

 

ところが、これではソ連擁護のコミンテルン派はもちろん、対米戦での日本の敗北による“敗戦革命”で覇権獲得を狙う近衛、大陸での戦闘では出番がなく、予算獲得の名目がなくなる海軍は困るのである。

 

 

近衛は六月二十五日、二十六日、二十七日、二十八日、三十日、七月一日と断続的に連絡会議を開き、陸海相と懇談するも結論は出ず、結局、七月二日の御前会議で、海軍軍令部が主張する南進論と、陸軍が主張する北進論の二正面作戦の“準備”をするという「南北統一作戦」の方針が決まったのである。言い換えれば、ただの中途半端な“時間稼ぎ”に過ぎなかった。

 

そして七月十六日、「混乱の収拾を図る」との名目で第二次近衛内閣は総辞職したが、十八日には北進論者の松岡外相を外した第三次近衛内閣を成立させ、二十八日には遂に南部仏印への進駐が強行された。

 

かくして日本国内では、近衛らの筋書き通り「鬼畜米英」の名の下に、対英米開戦への機運が澎湃(ほうはい)と湧き上がり、主役の座も近衛から政治経験のない、したがって近衛らにとっては使い勝手の良い、天皇に従順な東條英機へとバトンタッチされ、近衛は戦争責任を回避するための逃亡を図ったのである。

 

(次回に続く…)