ところで、最後の元老・西園寺公望の秘書だった原田熊雄の『原田日記』によると、盧溝橋事件が起きた一九三七(昭和十二)年八月九日には第二次上海事変が起こり、十四日の閣議で政府はこれを「支那事変」と呼ぶことに決定。

 

海軍大臣の米内光政(海軍大将)は十三日の閣議で断固膺懲(ようちょう)を唱え、財政面から反対する大蔵大臣の賀屋興宣を怒鳴りつけ、上海への陸軍派兵を主張、八月三十日までに上海、揚州、蘇州、浦口、南昌などを連日爆撃し、事変を拡大させた。

 

米内は「日支全面戦争となったからには南京を攻略するのが当然」と述べて政府声明の発出をもとめたが、驚いた陸軍の杉山参謀総長は「対ソ戦も考慮しなければならぬから、大兵力は使えない」と答え、外相も政府声明の発出に反対して不拡大論を支持した。

 

にもかかわらず、近衛と風見は外交の定石を無視して「国民党政府を対手とせず」との声明を発表、国民党政府からは「日本側の申し出は抽象的で返事のしようがない」との声明が発表されたため、昭和十三年一月十五日に開かれた政府大本営連絡会議で多田参謀本部次長は「日本側の申し出は抽象的で返事のしようがないというのなら、もっと具体的に示し、また条件も緩和しても、飽くまで停戦交渉を継続すべきだ」と強硬に主張した。

 

ところが、米内は「(陸軍)参謀本部は政府(近衛と風見)を信用しないというのか。もし参謀本部が飽くまで交渉継続論を主張するなら、(海軍は大臣を辞して)近衛内閣を総辞職させる」と息巻いたため、結局、多田次長も交渉打ち切り論を渋々受け入れることで決着した。

 

風見と米内は昵懇の仲で、風見が米内を訪ねるといつも海軍次官の山本五十六(海軍大将)がいて三人で策を練っていたという。この後、米内はさらに海南島に出兵を強行し、仏印(ベトナム)への進出を睨んだため、昭和十五年九月から断続的に行われていた蘭印(インドネシア)との石油買い入れ交渉も決裂、米英蘭の対日石油全面禁輸(ABCD包囲網)を招き、日米関係も決定的に悪化する。

 

これを聞いた杉山参謀総長は、独ソ戦が近いとの急報を受けていたため逡巡し、昭和十六年六月十一日の政府大本営連絡会議で「仏印に進駐(武力行使)するなどはこの際、よく考えなければならぬ。それよりも前から繰り返してきたように、蘭印と仏印に兵力を平和駐屯させるよう、外務大臣の方で手を打ってもらいたい」と外交努力を要請。

 

これに対し、海軍軍令部総長の永野修身(海軍大将)は猛然と反発、「仏印、タイに兵力行使のための基地を作ることは必要である。これを妨害する者は断固として討ってよろしい。叩く必要がある場合には叩く」と発言、出席者一同は唖然としたが、思惑通りに事が運びつつある中、近衛は密かにほくそ笑んだ。

 

 

ちなみに、近衛、風見、米内と共謀したと疑われる、のちに連合艦隊司令長官となった山本五十六は、出生地の新潟県長岡市にいた幼少期からクリスチャン神父の影響を受け、一九一九(大正八)年に米国駐在を受命した際、フリーメイソンの登竜門ハーバード大学に留学、欧米民主社会に憧憬を抱いた。

 

昭和十二年十二月、高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際には、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎えるのが恒例だったところ、これを取り消させ、高松宮を一少佐として到着させた。

 

 

英米派の山本は米内光政、井上成美らと共に日独伊三国同盟の締結に反対し、これが理由で戦後は「先見の明のある偉人」とされてきたが、これは日独によるソ連挟撃、英国の兵站分断、そして日独の大戦勝利を妨害するのが目的だったようである。

 

禁断の真珠湾攻撃やミッドウエイ作戦、ガダルカナル作戦など、大戦(対米戦)中の山本の不可解な作戦行動で日本軍の戦略は東西に分断され破綻するが、その詳細は別項に譲るとして昭和十八年四月十八日、山本は前線視察中のブーゲンビル島上空で待ち伏せ攻撃に遭い、戦死したとされている。

 

が、実際は落下傘で降下してジャングル内を移動、最終的にプロテスタント系クエーカー派(米国國體)の拠点とされる米国フィラデルフィアで、残りの生涯を息をひそめて過ごしたと仄聞している。つまり、山本も米内も日本を対米開戦に導き、制御不能となっていた軍閥を敗戦革命で一掃し、日本をリセットさせるという國體(世界國體)の指示通りに動いていたのである。

 

それにしても一人の日本人として釈然としないのは、近衛も風見も、それに海軍の永野、米内、山本たちも真珠湾攻撃が成功したとの電文「トラ・トラ・トラ」を受電した際、「これで日本は敗北した!」と歓喜したことと、近衛、米内に至っては広島、長崎への原爆投下を「天祐」と呼び、米内はA級戦犯七人が処刑された日に駐日米国大使私邸での祝賀会に参加して、シャンパンを飲んでいたことである。

 

(次回に続く…)