風見らの企む敗戦をきっかけにした日本の共産主義国家化、すなわち“敗戦革命”は、対米戦が行き詰まりを見せ始めた昭和十九年に入るといよいよ佳境に入ってくる。

 

『風見章日記』によると、「戦争が長引けば長引くほど人々は益々戦争に無関心になってくるであろう。戦意は益々低下し自暴自棄的な風潮が社会に蔓延するであろう。その結果、従来の政治組織は払しょくされ、新しい社会秩序、新しい政治組織がこの戦争によって約束されるはずである」

 

「今犠牲をできるだけ少なくするためには、ソ連にすがって和平の道を求めることだろうが、現在の如き政府は相手が承知しないだろうから、戦争の責任なき民衆の力による政府の出現を待たねばならぬ。これは一種の革命であるが遠くはあるまい。遅くとも六か月より遅れまい(昭和二十年二月)」

 

風見の著書『近衛内閣』によると、昭和二十年八月上旬、戦後社会党委員長で首相となる衆議員議員(社会大衆党)の片山哲が風見のもとに訪れ、次のような話を持ち掛ける。

 

 

「何より必要なのは一刻も速やかに講和を図るために、一種の革命的独立政権を作り出すことである。それには同志結束して立ち上がらねばならぬが、それには近衛氏の決起を促さなければならぬ。そうすれば国民も安心して付いてくるであろう」

 

これに対し風見は賛意を表し、「かかる計画の実現は天皇を反対に追い込むわけで、そうなると近衛氏は皇室と運命を共にしなければならなくなるが、近衛氏は『大義親を滅す』の勇断に出ることは信じて疑わないので、片山の片棒を担ごうと決心をした」と、近衛の参加(天皇への裏切り)を確信していたようである。

 

もっとも、近衛の第一の野望は、取り入り易いと思い込んでいた「親米政権樹立」にあり、手強いと思われた「親ソ政権樹立」は次善の策に過ぎなかったのだが風見らは気づいておらず、近衛の方が一枚上手だったようである。しかし、後にわかるが、その近衛すら手玉に取ったのが米国(共産党)だったのである。

 

(次回に続く…)