1、満州事変と満州国

 

まず、毛沢東が“親日家”であったことを論ずる前に、日本の古代からの国防の基本であり、国是である「満鮮経略」のうち、とくに近代以降の歴史的経緯について概略を述べる。

 

日本は、北方騎馬民族による脅威に対処すべく、古代からの国是である「満鮮経略」を進め、日清、日露戦争に勝利した上で国際法に基づきロシアから南満州鉄道の経営権とその守備駐屯地権等を譲り受けていた。

 

当初、日本は満州軍閥・張作霖に満州の統治をさせようとするが、張作霖配下の郭松齢がコミンテルンないしソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)に買収されて反乱を起こしたため関東軍が出動し平定、その後も日本は引き続き張作霖を支援した。

 

ところが、一九二八(昭和三)年六月四日、張作霖は奉天近郊を列車で移動中、爆殺される。この事件に関して犯人は日本軍の河本大佐ではないと言われてきたが、当日の現場には奉天軍五〇人が護衛に着いていた事、列車が現場に近づいたときだけ時速一〇キロ程度に落としていた事、回収した破片から爆弾がロシア製だった事等から疑問が呈されてきた。  

 

実際、近年、事件は「スターリンの命令にもとづいてロシア人・ナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」とロシアの歴史作家・ドミトリー・プロホロフが語っており、また二〇〇五年に邦訳出版された「誰も知らなかった毛沢東(ユン・チアン)」でも紹介されている。 

 

しかし、この事件をきっかけに父・張作霖との関係がうまくいっていなかったといわれる息子の張学良がソ連の支援の下、激しい排日運動を展開。このため、軍部は満州及び関東軍の建て直しを図るべく昭和四年に石原莞爾中佐を特務参謀として送り込む。 

 

 

そして、一九三一(昭和六)年九月一八日、柳条湖付近の線路を爆破し(日本側は支那側の犯行と主張)、これをきっかけに張学良軍二二万人を、わずか一二〇〇〇人の兵力で撃破、満州各地の軍閥を三ヶ月で平定する。 

 

一九三二(昭和七)年三月一日には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政(のち皇帝)とする満洲国を建国。この結果、満洲には大不況下にあった本国からの渡航者が殺到、華北地方からも漢人が流入し、昭和五年の満州の人口は、日露戦直後二二年で七〇%増加、産業面でも例えば大豆生産量は五倍に、石炭生産量は六倍に達した。

 

2、大亜細亜主義とは何だったか

 

満州国建国という役割を終えた石原は一旦、本国に帰還し参謀本部作戦課長となるが、昭和11(1936)年に起きた二・二六事件で東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立ったことを不満にして自宅に引きこもるようになり、この間、「新国家建設論」を発表。

 

「八紘一宇」の精神を背景にした「王道楽土」「五族協和」をスローガンとして、満蒙領有論から満蒙独立論を主張し、日本及び支那を父母とした「満州合衆国(東洋のアメリカ)」の建国を目指すが、その根本思想は孫文の「大亜細亜主義」にあった。 

 

すなわち、一九二四年に行われた孫文の神戸での講演によると「西洋列強は“覇道”の文明によりアジア諸国を圧迫しているが、東洋には“覇道”より優れた道徳、仁義に基づいた“王道”の文明がある。アジアを復興させるには王道を中心として不平等を打破し、アジア諸民族が団結して「大亜細亜主義」を貫かなければならない。

 

日本は日露戦争の勝利により、白人の支配を退けた。これはアジアのすべての民族に欧州の支配を打破し、独立を勝ちとろうという機運をもたらした。日本は近年来、欧州の武功文化を吸収し、欧米人に頼ることなく自主独立の精神で陸海軍などの軍事力を整備し、独立国家となっている。

 

日本民族は欧米の覇道の文化を獲得し、またアジアの王道文化の本質も持っている。今後日本は、はたして西洋覇道の番犬になるのか、それとも東洋王道の楯と城壁たる道を選ぶのか、それは日本国民の今後の選択にかかっている」というものであった。

 

3、国共合作により日本の敗戦を方向づけた世界國體

 

 

このような「大亜細亜主義」の精神を孫文から学んだ中華民国総統・蒋介石は、満洲で起きた事態に憂慮しながらも、他方で、一九三一年十一月七日に江西省の瑞金で、毛沢東が誕生させた「中華ソヴィエト共和国臨時政府(以下、中共)」に強い警戒感を抱き、日本と戦う前に国内の中国共産党軍(以下、中共軍)を叩かなければ、中華民族はソ連の属国民となってしまうとして、中共軍との戦いを優先する(攘外先安内)ことを国民に呼びかけた。

 

しかし、1937年(昭和12年)7月7日に、ソ連の支援を受けた中共の工作による「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」が起き、日支間の全面戦争に発展する。ところが、一方の毛沢東は、蒋介石と日本軍が戦うことになる事態を大歓迎していた。中華民国軍(以下、国民党軍)と日本軍が戦うことで双方が消耗する間隙を縫って、中共(中共軍)が力を蓄えられるからである。まさに“漁夫の利”である。

 

ところで、ここで不思議なのは、盧溝橋事件発生前の1936年(民国25年)12月12日に、この事態をあらかじめ予期していたかのように、蒋介石は張学良によって拉致され(西安事件)、「国共合作」による対日抗戦を合意させられていたことである。

 

この点が大東亜戦争最大の謎の一つなのだが、その真相は、欧州ハプスブルク大公家から派遣された、プロテスタント系メゾシスト教会のポンピドー牧師が天津に建てた、「南開中学」の“三羽烏”といわれた周恩来、呉達閣、王希天を日本に留学させ、京都大学などでマルクス経済学のほか、國體ワンワールドの存在とその思想(世界國體思想)を教えて帰国させ、張学良と共に国共合作を謀り、実現させたことにある。

 

これにより、日本の敗戦が方向づけられたが、その理由は、強勢化するソ連に対応した國體天皇・堀川辰吉郎と孫文(中華大陸)それに愛新覚羅溥儀(満洲)との間で合意していた「満漢分離策」にもとづき、「朝鮮、満洲以外には手を出すな(満鮮経略)」との國體の意向を無視し、石原莞爾に続けとばかりに功を焦った牟田口廉也らに率いられた日本軍が、済南事件や通州事件などのコミンテルンの謀略に引っかかったとはいえ、中華大陸全土に戦線を拡大した軍部を破綻させるためであった。

 

この結果、日本軍撤収後の中華大陸は、満洲はおろか内蒙古、ウイグル、チベットまでの領域すべてが中共、すなわち「中国(中華人民共和国)」の強権的な統治下におかれるが、実はこれも、軍閥割拠の国民党政府では強勢化するソ連の南下を抑えることができないと、日本の国防を考えて判断されたものであり、周恩来らの日本極秘留学がこれの証である。

 

 4、コミンテルン(ソ連)が嫌いだった毛沢東

 

さて、1949年10月1日に成立した中華人民共和国(以下、中共)の実権は、世界國體に属し、日本とも通じていた周恩来が握っていたことは別項ですでに述べた。そこでここでは、一方の“建国の父”とされてきた毛沢東はどうであったかについて述べる。

 

 

 

1931(昭和6)年9月18日の柳条湖爆破事件で始まった満州事変も、1932(昭和七)年3月1日の満洲国建国で終結する。ただ、これについて国際連盟から派遣されたリットン調査団が、「日本軍の行動は自衛的行為とは言い難く、満州国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い」とする一方で、「満州に日本が持つ条約に基づく権益、居住権は尊重されるべきで、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよく、日華両国は不可侵条約、通商条約を結ぶべき」とした。

 

そのため、これを受けた日華両国は昭和7(1933)年5月、「塘沽(タークー)停戦協定」を締結。列車相互乗入れや郵便事業などを開始して、蒋介石政権は事実上満州国を承認する。

 

この結果、日華間の満州問題を決着させた蒋介石は「第四次共産党殲滅作戦」を本格化したため、中共は「長征」と称して辺境の地・延安に後退、兵力も21万人から7万人にまでに減少していた。。

 

ところで、毛沢東はコミンテルン(ソ連)が嫌いだったフシが窺える。というのも、前記「塘沽停戦協定」交渉中の一九三三年一月に内モンゴルの一部である熱河省山海関で日本軍と中共軍の衝突が発生、この対応を巡ってコミンテルンの指示に忠実な王明が「正面突撃」を主張したのに対し、毛沢東は攻撃と撤退を繰り返す「ゲリラ戦」を主張し、真っ向から対立。結局、コミンテルンが送り込んだドイツ人軍事顧問のオットー・ブラウン(朱徳)が正面突撃を支持したため毛沢東は一旦失脚する。

 

また、王明を始めとした毛沢東以外の中共幹部はモスクワ中山大学を中心に留学経験を持つエリート集団「ヴォルシェヴィキ」といわれたが毛沢東にはそれがなく、スターリンも毛沢東のことを「田舎バター」などといって嘲笑していたという。

 

もっとも、1937年八月二十二日の中共中央政治局拡大会議では、「中国共産党抗日十大綱領」なるものを採択し、「日本帝国主義を打倒するために民族は団結せよ!」などと威勢のいいことは言っているがこれは建前だったようである。

 

例えば、国防部長を務めた徐向前や中央軍事委員会副主席を務めた聶栄臻、文革中に獄死したとされる中共軍元帥だった賀龍、紅軍第四方面軍の軍事委員会主席・張国壽などは、「日本軍との正面衝突は避け、愛国主義に惑わされてはならない。前線に行って抗日の英雄になってはならない。抗日戦争の間は小さなゲリラ戦をやっては大きく宣伝して人民を中共側につけて中共軍を強大化し、日本が敗退したら一気に国民党軍を打倒し新中国を誕生させろ」との毛沢東からの指示を回想録の中に書いている。

 

また、台湾に収蔵されている『中共党的策略路線』『剿匪戦史』によると、八路軍(第十八集団軍)独立第一師団楊成武騎兵連隊共産支部書記だった李法卿は、「中日の戦いは我が党(共産党)の発展にとって絶好の機会だ。我々が決めた政策のうち七〇%は我が党の発展のために使い、二〇%は国民党との協約のために使い、残りの一〇%だけを抗日のために使え」との毛沢東からの極秘指令を国民党幹部に口外していることが分かる。

 

5、岩井公館と“五面相スパイ”袁殊

 

1937年に入って日華全面戦争(日華事変)が始まりしばらくすると、毛沢東は袁殊(袁学易)や潘漢年ら中共のスパイを上海や香港に派遣し、日本の特務機関や諜報機関に接触させ始める。

 

その一つが外務省の岩井英一が設置した「岩井公館」で、もう一つが陸軍の影佐禎昭中佐が設置した「梅機関」である。

 

一八九九年、愛知県に生まれた岩井英一の『回想の上海』によると中学を卒業後、派遣留学生として上海にある東亞同文学院に入学。一九二一年に卒業後、外務省に入り大陸各地の在外公館に勤務し、とくに一九三二年二月五日に上海総領事館情報部の副領事に着任する。

 

しかし、外務省の余りの情報収集能力のなさを痛感し、出先に情報収集機関の設置を提案。これを知った重光公使が「公使館情報部」として認可、二代目情報部長に着任した河相達夫から影佐禎昭を紹介される。

 

河相は支那語の得意な岩井に支那人記者とのスポークスマンをさせ、岩井は多くの人脈を作ったが、その中に袁学易こと「袁殊(えんしゅ)」がいた。

 

なお、「支那」とは中華大陸で初めての統一国家「秦」を、ギリシャ語、ラテン語で「Sinae」と書いたことに由来している正式名称であるが、本稿では近代以降の大陸国家(政体)に関わるときは「中華」、中華人民共和国成立以降を「中国」と呼び、それ以前の大陸ないし大陸人全体を指すとき、及び、それ以外に用いるときは「支那」とする。

 

ともあれ、一九一一年に湖北省で生まれた袁殊は、一九二九年に早稲田大学に留学して新聞学を学ぶうちにマルクス主義に感化され、帰国後一九三一年十月に潘漢年の紹介で中共に入党、情報(スパイ)組織「中央特科」の一員となる。

 

ところが、はやくも一九三三年には国民党のスパイ組織である「国民党中央組織部党務調査科(のちの中統)」に潜入、これがのちに袁殊が中共、コミンテルン(ソ連)、国民党、汪兆銘政権、日本、の「五面相スパイ」といわれた所以である。

 

もっとも、一九三五年六月、コミンテルンの一員が国民党に退歩された際、持っていたノートに袁殊の名前があったため袁殊も逮捕されたが、岩井の尽力により釈放され、これを機会に袁殊と岩井は緊密な関係を築く。

 

その後、1936年12月12日に西安事件が起きて国共合作が成ったため、近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」との談話を出した。

 

また、続く平沼内閣も「蒋介石のような国民党独裁ではなく、汪の国民党を中核として各党派、各界、無党派人士をも糾合するように」との方針を出したため、岩井は汪兆銘政権樹立に奔走していた影佐から「共産党員でも構わないから」と協力を要請される。

 

このため、岩井は「興亜建国運動本部」を立ちあげ、主幹に袁殊を当てたが、場所が上海の日本軍陸戦隊本部に近いこともあって警戒されるため、名称を「岩井公館」にした。公館には辻正信や児玉誉士夫も出入りしていた。

 

6、日本軍に接触していた毛沢東

 

一方、一九〇六年に江蘇省で生まれたもう一人の中共スパイ胡越明こと「潘漢年(はんかんねん)」は、もともと作家活動や雑誌の編集活動に携わっていたが、一九二六年に中共に入党、一九三一年には中共中央情報組特科第二科長となる。

 

一九三五年八月にモスクワに行って訓練を受けたのち、「国民党の張学良を中共側に寝返らせろ」との毛沢東からの密命を受け、一九三六年五月に帰国して張学良の説得に当たり、西安事件を成功させた。

 

岩井は袁殊からそんな潘漢年を紹介される。その際、もう一人「廖承志(りょうしょうし)」という人物にも会って欲しいといわれるが、潘漢年が周恩来と並ぶほどの地位にあると聞いたので、それで十分と考え断った。

 

潘漢年は岩井と面会後、国共合作のために重慶に常駐していた周恩来から得た国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続け、その見返りに半月に一回、当時の金額にして警官の五年間分の年収にあたる高額の情報提供料を岩井から受け取っている。岩井これを外務省の機密費から捻出していた。

 

この頃、上海以外に香港にも中共の特務機関事務所があり、そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた廖承志らが所属しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務)と協力して、「中共・日本軍協力諜報組織」が出来上がっていた。

 

日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、今度は日本軍と直接交渉するよう潘漢年に密令を出している。

ある日、岩井は潘漢年から「実は、華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたいのだが……」という申し入れを受けた。

 

これは岩井の回想録『回想の上海』の中で、最も印象に残った「驚くべきこと」として描いている。潘漢年の願いを受け岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた影佐禎昭(かげささだあき)大佐(のちに中将)を紹介する。

 

さらに、潘漢年は影佐の紹介で国民党南京政府主席の汪兆銘と、その軍事顧問の都甲(とこう)陸軍大佐にも会い、中共と日本軍との和議を申し込んでいる。

 

これらの事実は、毛沢東そして中共にとっては最高国家機密にあたるはずだが、中共の機関紙「人民日報」のウェヴサイトである「中国共産党新聞網」の二〇一三年五月十五日号では、「中共が秘密裏に日本軍(支那派遣軍)総司令官だった岡村寧次大将と接触していた真相」として特集している。

 

 

一方、国民党側でも、一九四一年五月の山西省晋南にある中條山での日本軍との戦いで、北部にいた八路軍(中共軍)が日本軍と示し合わせて国民党軍を挟撃してきたことで疑念を抱いた蒋介石も、その回顧録の中で、「共産党は政府軍(国民党軍)の軍事上の部署や作戦計画を日本軍の特務機関に漏らした」と明記している。

 

日本のポツダム宣言受諾後は、来たるべき国共内戦を見越して、蒋介石が戦犯となった岡村寧次や根本博(陸軍中将・北支派遣軍司令官)らを丁重にもてなし、日本軍将兵と日本人居留民の全員帰国を実現したことは有名である。

 

しかし、実は、毛沢東(中共)も同様に接触を模索したが、蒋介石に恩義を感じていた岡村らを翻意させることができず、せめてもの戦利品として満洲に駐屯する日本軍(関東軍)の武器、弾薬、車両などの接収を強行した。

 

例えば、一九四五年十月、瀋陽東北民主聯軍総司令部・中共東北局書記・彭真は、満洲に駐屯していた元日本軍第二航空軍団第四錬成大隊を包囲し武装解除させ、白米と野菜、鶏肉などで捕虜代表らを歓待した上で、「中共軍には空軍がない。航空学校建立に協力願いたい」と申し出た。

 

元大隊長の林弥一郎陸軍大佐は困惑したが最終的に承諾し、一九四六年三月一日、「東北民主聯軍航空学校」が誕生している。

 

7、毛沢東(中共)の戦略と日本、ソ連、ドイツ

 

毛沢東は実は第一次国共合作(1924年~1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。

 

そこで毛沢東は潘漢年に、重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた汪兆銘政権とも接触を持たせ、さまざまな形で共謀を図った。

 

汪兆銘に「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。

 

汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という実権を握っている大物がおり、その下には「特務機関76号」を牛耳る李士群がいたが、潘漢年は汪兆銘と李士群だけでなく、この周仏海にも接触を持っていた。

 

葉剣英(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員)は潘漢年や揚帆(中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。

 

これらはすべて毛沢東の密令であり、日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化し、来たるべき国共内戦で勝利するという戦略だったのである。

 

このあたりを時系列的に整理してみると、まず、一九三九年八月二十三日に「独ソ不可侵条約」が結ばれるが、ヒトラーの狙いは後顧の憂いを一旦棚上げしたうえで西欧への勢力拡大を図り、一方のスターリンはヒトラーの野心を西欧に向けさせることで、来たるべき独ソ決戦の準備を進めることにあった。

 

が、遂に一九四一年六月二十二日、この“危うい均衡”が崩れ、ヒトラーは「バルバロッサ作戦」と称して三百万人の大兵力でソ連領に侵入し電撃作戦を開始、本格的な独ソ開戦となる。

 

一方、この間のアジアでの動静をみると、蒋介石がドイツと「中独合作条約」を結んで反共連合を形成して国民党軍の近代化を図り、跋扈する軍閥を打倒して北伐を完成させ、満洲に進出してきた日本軍を睨みつつ、本格的に中共の殲滅とソ連の南下に備えた。

 

ところが、ヒトラーはソ連を挟撃するには満州に大軍(関東軍)を置く日本の方が頼りになると考えた。実際、独ソ戦が始まった一九四一年の七月七日、日本軍はソ満国境に七十万人の兵力を大動員して軍事演習(関特演)を実施、ソ連領に進入する体制をとって西にヒトラー、東に日本という脅威をスターリンに与えていた。

 

このような欧州の動きの中、アジアの動静はどうだったかというと、一九三六年十一月二十五日、ヒトラーが「日独防共協定」を締結したため、蒋介石は対抗して一九三七年八月二十一日に「中ソ不可侵条約」を結ぶ。

 

これに怒ったヒトラーは、「独ソ不可侵条約」を結んだうえ、一九四一年七月に南京の汪兆銘政権を承認して蒋介石を切ったため、これを奇貨とした毛沢東は、蒋介石に対抗するためには日本との連携が有利とみて「反蒋聯日」の方針を打ち出すが、これが毛沢東をして日本軍に接近せしめたきっかけとなる。

 

ただ、世界が固唾を飲んで注目し、そして毛沢東にとっても最も気がかりだったことは「日本軍が北進、すなわち実際にソ連領に進攻するのか、それとも南進、すなわち東南アジアの資源地帯確保に向かうかどうか」だった。

 

もし日本軍が北進すればスターリンは日独の挟撃に遭って分断され、少なくとも「欧州+ソ連」を相手にした第二次世界大戦での日独の勝利が決定的となったからである。

 

同時にそれは、毛沢東にとっても、ソ連(コミンテルン)の後ろ盾を失い、これを奇貨とした蒋介石が中共殲滅に全力を傾け、これを完成させることを意味していたのである。

 

このような緊迫した情勢の中、毛沢東が張り巡らせた袁殊、潘漢年らの諜報ネットワークが実力を発揮したのである。

 

それは一九四一年九月、首相近衛文麿が、日本陸軍が年来、とりわけ「陸軍皇道派」が主張してきた大戦略「北進論(対ソ決戦論)」を強く支持する松岡洋右外務大臣を排除して、新しく組閣した内閣での七月の御前会議において、「帝国国策遂行要領」として「南進」を決定したとの極秘情報の入手だった。

 

風見章、西園寺公一、尾崎秀実、ゾルゲ経由でこの情報を得たスターリンはもちろん、毛沢東も狂喜乱舞し、独ソ戦でのソ連の勝利と中華人民共和国の成立が近づいたのであった。近衛らのコミンテルングループの詳細については別項で述べる。

 

ちなみに、毛沢東は中華人民共和国成立後、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、密令を受けてスパイ活動をした者千人ほどを、「日本軍との共謀」という策略を知り過ぎていた者として逮捕し投獄、潘漢年などの多くは獄死した。

 

8、「日本に感謝している(毛沢東)」

 

もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。

 

その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。

 

同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。

 

その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。

 

やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。

 

私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。

 

どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。

 

わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」

 

 

かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。

 

この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。

 

また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。

 

一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。

 

これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。

 

中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。

 

9、毛沢東には存在しなかった南京大虐殺

 

 

ちなみに、「南京事件(南京大虐殺)」についてだが、中共中央文献研究室が編纂した『毛沢東年譜』は、毛沢東の全生涯にわたって全巻で九冊あり、各冊およそ七〇〇頁ほどなので、合計では六〇〇〇頁以上にわたる膨大な資料だが、この全体を通して「南京大虐殺」という文字は出てこない。一九三七年一二月一三日の欄に、わずかに「南京失陥」という4文字があるのみである。

 

また、翌年も、翌翌年も、そして他界するまで、ただの一度も南京での出来事に触れたことはなく、この「南京陥落」という四文字さえその後、二度と出て来ない。

 

事件が起きた一九三七年一二月一三日前後、毛沢東ら中共軍は、陝西省延安の山岳地帯という国民党軍も日本軍もたどり着けないほどの山奥に逃げていて、南京の最前線で戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍だった。

 

仮に「南京大虐殺」なる事件があったとしても、そこを深く探れば国民党軍の奮闘と犠牲ばかりが明らかになり、中共軍が日本軍とは戦っていなかった事実がバレてしまうことを毛沢東は恐れたからではなかろうか。

 

いまごろになって、中国大陸のネット空間には、「なぜ毛沢東は南京大虐殺を教えたがらなかったのだろうか?」とか「なぜ毛沢東は南京大虐殺を隠したがったのだろうか?」といった項目が数多く出てくるようになった。

 

例えば、二〇一四一二三一日付の西陸網(www.xilu.com)(中国軍事第一ポータルサイト)で「毛沢東時代はなぜ南京大虐殺に触れなかったのか――恐るべき真相)」というタイトルで陳中禹いう人がブログを書いている。

 

それによると、彼は一九五八年版の『中学歴史教師指導要領』の中の「中学歴史大事年表」の一九三七年の欄には、ただ単に「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、一文字たりとも「南京大虐殺」の文字はないと書いている。この状況は一九七五年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」まで続くという。

 

ちなみに、毛沢東が逝去したのは一九七六年。陳氏によれば、一九七九年になって、ようやく中学の歴史教科書に「南京大虐殺」という文字が初めて出てくるとのことだ。

 

他の情報によれば「一九五七年の中学教科書にはあったが、六〇年版では削除されていた」とのこと。実際、確認してみたが、たしかにその時期、南京大虐殺を書いた教科書が江蘇人民出版社から出たことがある。しかし、その後消えてしまっている。

 

二〇〇万項目ほどヒットする関連情報の中に、「一九八〇年代に入ると日本の歴史教科書改ざん(美化)問題があったため、中国の一般人は初めて南京で日本人による大虐殺があったことを広く認識し始めた」というのが多い。

 

それによれば、人民日報が初めて「南京大虐殺」に関して詳細に解説したのは一九八二年八月で、その書き出しは「日本の文部省の歴史教科書改ざん問題」から始まっているとのことである。

 

また、「南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀年館)」も、一九八五年八月一五日になってようやく建立された。

 

このように、一九八〇年代に入ってから突如として反日キャンパーんを始めた背景には江沢民の存在も大きい。というのも、江沢民の父親は戦時中、汪兆銘政権の宣伝部副部長として日本軍に協力し、見返りに息子の江沢民も贅沢な暮らしをさせてもらっていたからである。例えば、当時の支那人としては珍しく、社交ダンスやピアノ弾きもできた。

 

ところが、日本が敗戦するとあわてて中共に近づくが、自分の出自や戦時中の行状が戦後の中国人民に知られると、国家主席はおろか共産党員としての資格すら剥奪され、さらには文化大革命で袋叩きにされたに違いない。

 

そこで、自分が反日であることを装うために一九八〇年代後半から始めた「愛国主義教育」の中で、必死になって反日をアピールし出したのである。

 

しかも、一九九五年五月にエリツィンがモスクワで開催した「世界反ファシズム戦争勝利五〇周年記念祝典」に招待されたことで、実際に日本軍と戦った中華国民党に代わって、いつのまにか中国共産党が勝利をもたらした主役として持ち上げられたことで勢いづき、同年九月三日には中国でも「抗日戦争勝利記念日」と「反ファシズム戦争勝利記念日」の祝典を行った。

 

このような“反日の地雷”を踏んでしまった中国共産党政権の中国は、反日を叫び続けていなければ“売国奴”呼ばわれされ、後戻りができなくなってしまったのが実態である。

 

加えて、天安門事件を経て改革開放路線への転換後を果たした中共に、国際金融勢力(米国保守派“ネオコン”やこれに追随する米国民主党)が接近、中共各派に肩入れしたこともあって、その後中国全土で激しい反日運動が展開されたことは記憶に新しい。

 

ところが、ここにきてトランプ政権の米国が、米国内での“反トランプ派”=ネオコンへの反撃に出た流れの中で、その後ろ盾を失った中共がにわかに親日に転換しつつあるのは周知のところである。