このような「大亜細亜主義」の精神を孫文から学んだ中華民国総統・蒋介石は、満洲で起きた事態に憂慮しながらも、他方で、一九三一年十一月七日に江西省の瑞金で、毛沢東が誕生させた「中華ソヴィエト共和国臨時政府(以下、中共)」に強い警戒感を抱き、日本と戦う前に国内の中国共産党軍(以下、中共軍)を叩かなければ、中華民族はソ連の属国民となってしまうとして、中共軍との戦いを優先する(攘外先安内)ことを国民に呼びかけた。

 

しかし、1937年(昭和12年)7月7日に、ソ連の支援を受けた中共の工作による「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」が起き、日支間の全面戦争に発展する。ところが、一方の毛沢東は、蒋介石と日本軍が戦うことになる事態を大歓迎していた。中華民国軍(以下、国民党軍)と日本軍が戦うことで双方が消耗する間隙を縫って、中共(中共軍)が力を蓄えられるからである。まさに“漁夫の利”である。

 

ところで、ここで不思議なのは、盧溝橋事件発生前の1936年(民国25年)12月12日に、この事態をあらかじめ予期していたかのように、蒋介石は張学良によって拉致され(西安事件)、「国共合作」による対日抗戦を合意させられていたことである。

 

この点が大東亜戦争最大の謎の一つなのだが、その真相は、欧州ハプスブルク大公家から派遣された、プロテスタント系メゾシスト教会のポンピドー牧師が天津に建てた、「南開中学」の“三羽烏”といわれた周恩来、呉達閣、王希天を日本に留学させ、京都大学などでマルクス経済学のほか、國體ワンワールドの存在とその思想(世界國體思想)を教えて帰国させ、張学良と共に国共合作を謀り、実現させたことにある。

 

これにより、日本の敗戦が方向づけられたが、その理由は、強勢化するソ連に対応した國體天皇・堀川辰吉郎と孫文(中華大陸)それに愛新覚羅溥儀(満洲)との間で合意していた「満漢分離策」にもとづき、「朝鮮、満洲以外には手を出すな(満鮮経略)」との國體の意向を無視し、石原莞爾に続けとばかりに功を焦った牟田口廉也らに率いられた日本軍が、済南事件や通州事件などのコミンテルンの謀略に引っかかったとはいえ、中華大陸全土に戦線を拡大した軍部を破綻させるためであった。

 

この結果、日本軍撤収後の中華大陸は、満洲はおろか内蒙古、ウイグル、チベットまでの領域すべてが中共、すなわち「中国(中華人民共和国)」の強権的な統治下におかれるが、実はこれも、軍閥割拠の国民党政府では強勢化するソ連の南下を抑えることができないと、日本の国防を考えて判断されたものであり、周恩来らの日本極秘留学がこれの証である。

 

(次回に続く…)