満州国建国という役割を終えた石原は一旦、本国に帰還し参謀本部作戦課長となるが、昭和11(1936)年に起きた二・二六事件で東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立ったことを不満にして自宅に引きこもるようになり、この間、「新国家建設論」を発表。

 

 

「八紘一宇」の精神を背景にした「王道楽土」「五族協和」をスローガンとして、満蒙領有論から満蒙独立論を主張し、日本及び支那を父母とした「満州合衆国(東洋のアメリカ)」の建国を目指すが、その根本思想は孫文の「大亜細亜主義」にあった。 

 

 

すなわち、一九二四年に行われた孫文の神戸での講演によると「西洋列強は“覇道”の文明によりアジア諸国を圧迫しているが、東洋には“覇道”より優れた道徳、仁義に基づいた“王道”の文明がある。アジアを復興させるには王道を中心として不平等を打破し、アジア諸民族が団結して「大亜細亜主義」を貫かなければならない。

 

日本は日露戦争の勝利により、白人の支配を退けた。これはアジアのすべての民族に欧州の支配を打破し、独立を勝ちとろうという機運をもたらした。日本は近年来、欧州の武功文化を吸収し、欧米人に頼ることなく自主独立の精神で陸海軍などの軍事力を整備し、独立国家となっている。

 

日本民族は欧米の覇道の文化を獲得し、またアジアの王道文化の本質も持っている。今後日本は、はたして西洋覇道の番犬になるのか、それとも東洋王道の楯と城壁たる道を選ぶのか、それは日本国民の今後の選択にかかっている」というものであった。

 

(次回に続く…)