1、古代から太陽暦を使っていた日置町

 

山口県長門市にある日置(へき)町の語源は、古事記では幣伎(へき)、和名抄では比於木(ひおき)とあるが、その街並は西洋の街並みのように、街の中心から放射線状に道が伸び、北緯34度32分の「太陽の道」と呼ばれる東西軸上にメイン道路が重なるように設計され、街のどこからでも正確な時を知る事ができるよう、街全体を大きな日時計にみたて、太陽暦を用いた都市計画をしている。

 

また、通常の稲作地帯では、農作業の利便性から農地に分散した集落を作るが、日置では家屋を中心街に集中し、外敵からの防御に適した構造となっており西洋の城塞都市を彷彿とさせる。

 

古代の日置氏は、西の油谷町から東は深川までの長門市の広い地域を日置荘とし、近隣の堀田遺跡からは金属の加工、精錬に必要となる道具の「鞴(ふいご)」や、金属廃棄物の「鉱滓(こうさい)」などが出土していることからすると、蹈鞴(たたら)製鉄・鉄冶業を職掌としながら、日読み(暦作成)をも司っていたことが窺われる。

 

実際、長門市には、鍛冶屋、鑪、火渡、金焼などの鉄冶業関連地名も多く残り、「八幡人丸神社」のある三佐崎山は御陵山ともいい、往古に日置氏の陵墓として造築されたものと言われている。

 

 

2、ウバイド系だった日置氏

 

なお、記紀によると、長門国以外にみられる日置氏のうち、紀伊・日置首(おびと)は天照大神の子・天穂日命(アメノホヒ)の神別天孫族で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖である。

 

また、「姓氏家系大辞典(太田亮著)」によれば、第十一代垂仁天皇の子・五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)は、王朝を盤石なものにするため菟砥(うど…大阪府阪南市)の河上宮で「裸伴(あかはだがとも)」とも呼ばれる赤熱の鉄を叩いて造った剱(つるぎ)一千口をそろえて忍坂邑(おしさかのへき)に収蔵した功により大王から「十箇の品部」を下賜されたが、その中に「日置部」が含まれていたと記されている。

 

さらに記紀によると、日置部の伴造(とものみやつこ)である幣岐(へき)君は応神天皇の子・大山守皇子(おおやまもりのみこ)とあることから日置氏は皇別でもあることがわかる。

 

この他、平安時代初期(八一五年)に編纂された「新撰姓氏録」では、左京諸蕃に区分された日置造、また大和国諸蕃(高麗)の項には、日置造と同じ祖を持つ鳥井宿禰、栄井宿禰、吉井宿禰、そして「許呂(コロ)使主」を祖とする日置倉人が記録され、このことは「八坂神社社家系図」にもある。

 

無姓の日置倉人については、「天櫛玉命の男、天櫛耳命の後」という祖神が記されているが、平安時代初期に編纂された「先代旧事本紀」によると、筑波国造になった「阿閇色(アベシコ)命」の別名を「安倍色呂(アベシコロ)命」と言い、その兄は「建許呂(タケコロ)」と云う名前であることから、日置倉人は「クロ人~コロ人」と読み、孝元天皇の第一皇子・大彦(大毘古)命の男の絆結命(比毛由比命)の後裔である日下(連)氏、安倍(臣)氏とも同族であることがわかる。

 

一方、奈良朝で官僚社会を生き抜いた日置蓑麻呂(へきのみのまろ)は、天平宝字六年外従五位下の位にあって丹波守に任じられるが、翌々八年「栄井宿禰」に改姓、経師を勤めた後図書頭、東宮学士などを歴任し、延暦元年には陰陽頭(正五位下)に任じているが、これは日置氏が単なる学者というよりは、天文、数学などにも長じた才能の持ち主だったことを裏付けている。

 

ちなみに、竹取物語などによると右大臣・安倍御主人の子である安倍晴明も、天禄四年(九七三年)に正四位下の宿禰として、天皇(天の御門)を補佐する陰陽頭に任じている(土の御門)。

 

さらに、菅原朝臣を賜った京師・日置臣は土師宿禰と同祖であることから、日置氏の持つ極めて高度な測量技術と天文学の知識を考えると、日置氏は“ウバイド系”であったと考えられる。

 

この他、「新撰姓氏録」では、日置造の祖・高麗(後期高句麗)の使者「伊利須使主(いりすのおみ)」の兄は、日置倉人の祖「許呂使主(ころのおみ)」とあり、刮目するのは同列の上位に、韓流ドラマで英雄とされる高麗(高句麗)国主“朱蒙”こと「長背(ながせ)連(むらじ)」が欽明天皇の御代に多数を連れて投降し、「□美体大 其背巾長 賜名長背王」と記されている点である。つまり、日置氏と安倍氏、長背氏は同族である。また、土師氏に始まる大江広元を家祖とする毛利氏とも繋がり、実際、我が家の家紋は毛利氏の家紋「一文字三星」に対して、一文字を取った「三ツ星」である。

 

この点について記紀では、安倍氏の祖・安日彦の弟「長髄(脛)彦(ナガスネヒコ)」は、神武東遷に際し、大和で「磐余彦(神武天皇)」の兄を討ち取るなどの激闘の末、「ニギハヤヒ(饒速日)」に殺されたと記載されている。

 

しかし、「ニギハヤヒ」は物部氏の祖神、すなわち実在していないことを考えると、殺害によって突然世の中から姿を消した長髄彦は、國體が得意とする“偽装死”した可能性が高い。

 

一方、日置造の元の名の「伊利須(イリス)」の「伊利」はシルクロードがある中央アジアを指し、また、長背王の元の「朱蒙」という名も支那系であることが窺える。

 

また、秦~漢の頃の地理書「山海経(大荒西経)」には、西北海の外、赤水の東に「長脛(ながすね)国」があると記しているが、西北海をカスピ海、赤水をヴォルガ河と仮定すると、その東は騎馬族スキタイの発祥地である。

 

そして、「脊」は「背」と同じく「せ」と読むが、人間の背骨を通る「脊髄(せきずい)」と一体をなす言語である。

 

このようなことから、長髄彦の偽装死は、実は古代の“満鮮経略”に基づいて半島に渡り、タカスから騎馬民としての軍事訓練を受け、南満州から半島北部、沿海州にかけて存在したツングース系女真族(清国、満州国皇帝愛新覚羅氏と同族の満州族)の「高句麗(後に渤海)」建国に携わり、「高麗次郎義基」や「新羅三郎義光」などの源氏の始祖や、安倍氏、日置氏ら“ヒノモト(日乃本)族”とともに、その子孫が長背王として八幡基地の羅津から欽明天皇“奉迎(第三次奉迎工作)”に随従したと仄聞している(八幡族)。

 

 

3、日置村と安倍家三代と我が家

 

話を現代の日置町(村)に戻し、私が祖父や父、叔父から聞いた思い出話を挟みながら、安倍晋三総理の祖父・安倍寛(あべかん)氏や安倍晋太郎氏にまつわるエピソードを紹介する。

 

山口県大津郡日置村にあった酒・醤油醸造業を営んでいた実家を持つ安倍総理の祖父の寛氏は、西南戦争で活躍した日置出身の大島義昌陸軍大将の孫娘・静子を娶り、東京で自転車製造業を営んでいたが関東大震災で被害を受け倒産。その後、政治を志し衆議院選挙に立候補するも落選する。

 

この間、寛氏は静子との間に子をもうけたが、実はそれは晋太郎氏と、のちに日本興業銀行頭取となった西村正雄氏の双子だった。当時世間では双子を恥じる思想があり、加えて寛氏は、妻の静子が奢侈なため「家風に合わん!」として離婚したこともあってこれを秘し、晋太郎氏がこれを知って西村氏と再会したのは没年近くになってのことであった。

 

さて、戦前の日置村も全国の農村の例にもれず疲弊し、「このままでは立ち行かぬ」として今後の村政の在り方を巡って有力地主の高橋家を代表とした長老派議員と、我が祖父をリーダーとする若手改革派議員の間で激しい対立が生じ、収拾がつかなかった。

 

このため、「誰か大物を新しい村長に」ということで、東京で事業を営み、国政選挙にも出馬した経験を持ち、“昭和の松陰”と言われ、カリスマ的指導力を期待された安倍寛氏を村長に迎えることとなった。

 

ちなみに、既に述べたが、古来日置では安倍家と鎌倉時代にこれに随従してきた高橋家と我が家が有力氏族とされ、我が家には「禁門の変(蛤御門の変)」で都落ちした“七卿”のうち、三条実美公を一時匿ったことから返礼として贈られた同公揮毫の額と、明治天皇・昭憲皇后の御製が書かれた金屏風がある。

 

安倍寛村長は改革に理解を示し、一方で結核を患い、執務室にベットを持ち込んで寝たり起きたりの体調であったこともあって、「長~君が言っている方が正しい」として、森林事業組合、水利事業組合、区画整理事業組合など、主な村事業において「理事長・安倍寛」、「常務理事・長~」として実務を我が祖父に任せたうえで、耕地面積の拡大を図るための集団農営(コルホーズ)の実施やブランド米(大津米)の開発など、新しい地域産業振興策を実現し、全国からも注目されていた。

 

祖父は当時、日本刀を携えて毎朝登庁していたが、ある時“騒動”が起きた。それは、「病欠で面会がならぬ」とした安倍村長に代わって、「お前が応対しろ」と同和地区の住民が多数、武器を持って実家に乗り込んできたときのことである。祖父は「まあ座らんかい。ほいで用件はなんじゃ?」と丸一日彼らの主張に真摯に耳を傾け、その後差別問題を解決したため、以降、彼らも大人しくなり、道で会っても先方から深々とお辞儀をするようになったという。東條内閣の商工大臣だった岸信介氏や、のちに社会党右派の大物といわれた江田三郎氏(岡山県選出)が視察と称して、様子を窺いに来たのもこのころであった。

 

この間、私の父は若くして満州に渡り、日産の鮎川儀介氏、日立の久原房之介氏、満洲映画理事長の甘粕正彦氏らの知遇も得て、本田宗一郎氏とともに事業を始め、関東軍の軍需物資調達に携わり財を成していた。満州国皇帝溥儀の弟の溥傑や、甘粕氏が育てた李香蘭こと山口淑子、田中絹代、小暮実千代など往年の大女優、NHK記者だった森繁久彌氏などが自宅を訪れたと聞いている。

 

このため、安倍寛氏から依頼されて日置小学校での「奉安庫(昭和天皇の御真影を飾る石廟)」の建立や、地域集会所の設置などの費用を負担し、田畑も公共用地として無償供出した。後に安倍寛氏が衆議院選挙に再出馬した際にはその政治資金をも拠出した。

 

寛氏は、「支那との戦争に終結の目途が立たぬうちに英米と事を構えるなど狂気の沙汰」と、東條内閣の対米開戦を痛烈に批判、このため当時としては異例の大政翼賛会“非推薦”で出馬したが見事当選、鳩山一郎、河野一郎、大野伴睦、三木武吉らの非推薦組とともに“反骨の七人の侍”といわれたが、心臓発作のため当選二期目で逝去した。

 

なお、近年、安倍晋三総理が表舞台に立って以来、アンチ安倍派のジャーナリストを中心に「安倍寛氏は反戦主義者だった」と強調されているが、正確にはそうではなく、同じ日置出身で「2・26事件」の首謀者だった磯部浅一陸軍主計中尉らの“皇道派”が主張する、満洲での「対ソ決戦」を支持していたと聞いている。

 

先述したように、寛氏は離婚をしたのちは独身を貫いていたため、夏休みで東京から帰京していた学生時代の晋太郎氏は退屈を持て余したのか、我が家にきては定期的に帰国していた私の父とも歓談し、支那、満洲を巡る情勢に興味を持っていたようであるが、その後、学徒出陣で海軍航空隊に入隊、神風特別攻撃隊を志願したが生き残った。

 

なお、私の父は、当時世界では二機(ドイツと日本)しかない「ペンタックス~」という高性能カメラでソ満国境を偵察、撮影していたこともあって終戦直後ソ連軍に拘束され、シベリアに抑留された。一日に一回、「煙草ケース大の黒パン一個」と「トウモロコシ三粒が入ったスープ」の食事と、真冬には体感温度零下七〇℃という極寒の中、多くの仲間が斃れていく中を生き抜き、瀬島隆三と接点があったのもこの時期である。

 

ソ連から「(天皇陛下の)御真影(写真)を踏め」といわれたが拒否すると三日間食事を抜かれたが、瀬島はこれを平気で踏んで喜ばれたためか、別の場所に移されて日本人の洗脳教育をやっていたらしい。

 

父が連れ去られたあと母は新京(長春)に残されたが、父が“人タラシ”、要するに豪放磊落な性格で満人、漢人、鮮人を問わず、休日には酒をふるまうなどして手なずけ、「大将、大将」と慕われていたこともあって、彼らに随分助けてもらったらしい。

 

父と母は満州で出会い結婚したが母はもともと東京出身で、その出自は祖父が「御目見え」、すなわち、徳川将軍家直参旗本で、祖母は川越藩主でもあった大河内松平家の出身で、祖先には“智慧伊豆”こと第三代将軍徳川家光の側近として名高い老中・松平伊豆守信綱がいた。また縁者には無名時代の田中角栄を引き立てたといわれている、物理学者で理化学研究所所長だった大河内正敏がいる。このため矜持が高く、父からは「辱めを受けたときはこれで…」と、拳銃を渡されていた。

 

やがて、国民党軍と八路軍(中共軍)の戦闘が激しくなったため故国を目指した逃避行が始まった。幼い姉を背負い、兄の手を連れながら、新京から大連までの満洲の荒野を徒歩で避難したが途中、幸いにもソ連兵や朝・人に襲われることもなく、蒋介石の指示が徹底していたのか、道すがら屯する支那兵もニヤニヤして見ているだけだったという。途中、武装解除された日本兵たちが「頑張りなさいよ~」といってチョコレートを投げれくれたそうだが、軍隊のない国の国民がいかに惨めであるかを痛感したと述懐していた。

 

一方、その頃本土では、巣鴨プリズンから出所してきて、吉田茂首相の推進する「非武装・対米追従方針」に反対し、「自主武装・自主憲法制定」を主張して衆議院選に初当選した岸信介氏は、安倍寛氏の早逝を惜しみ、私の父の異母兄弟の叔父に、「毎日新聞の記者をしている晋太郎君を表舞台に出したいので、なんとかせい」と依頼した。

 

いつも拳銃を懐に忍ばせ、毎朝、自宅前にはパトカーに監視されていたという叔父は終戦直後、全国で拡大したいわゆる“愚連隊”、すなわち、「自分たちは戦勝国人だ!」などと叫んで暴れまわっても警察も手が出せず、手が付けられなかった「三国人(在・朝・人)」による傍若無人な振る舞いを目の当たりにして義憤に駆られ、神戸での田岡一雄らと同じく決然立ち上がり、国権派壮士を中心に自警団を結成、下関、北九州一帯での騒乱を鎮圧した。

 

更にその後、「日本革命・菊旗同志会」を立ち上げ、東京青山に事務所を設けて一時は全国に七千人程度の構成員を抱える、日本最大の民族派団体の代表となり、後には笹川良一氏や児玉誉士夫氏らにも声をかけて“安保反対運動”の鎮圧活動を行うなど、岸信介氏、佐藤栄作氏の“裏方”に携わっていた。

 

その一つが、「このままでは日本は赤化する」との危機感から、元大本営参謀の辻正信氏や、朝鮮総連ビル落札で名の出た池口恵観氏らとともに謀った、自衛隊を巻き込んだクーデター未遂事件(三無事件)である。幸いこの件は岸氏、佐藤氏の計らいで不問にされたという。“真の黒幕”は岸信介氏だったらしい。NHKの番組にも出演し証言していた。

 

その後叔父は、下関での安倍事務所の立ち上げに尽力し、全国から“同志”を集めて晋太郎氏の選挙運動を担った。そのため以降、安倍事務所の重鎮として、晋三氏にも選挙や政治のイロハを伝授した。

 

時代は下り、晋太郎氏が逝去し晋三氏が後を継ぐことになった。が、当時の自由民主党は最も不甲斐ない時期にあって、思想的には異質なはずの社会党・村山富市を首班にして連立政権を組んだ。

 

これに異を唱えたのが前自民党幹事長だった小沢一郎氏だった。小沢氏はPKO法案を成立させ、次は「憲法を改正して自衛隊を国連軍にし、積極的に国際貢献を果たす」と叫び、カビが生えたような自民党政治家と違って輝いて見えたが、今日の節操のなさとは“隔世の感”がある。

 

実際、この頃の私も永田町におり、小沢氏の片腕といわれ、安倍晋太郎氏の子分の“某”有力政治家の秘書をやりながら、自民党分裂、新進党結成に携わり、“某”の子分だった現自民党幹事長・二階俊博氏や選対局長だった中西啓介氏、公明党のドン・太田昭宏氏らとも接点を持ち、自らも衆議院選出馬を模索、叔父の力添えもあって一時は山口二区から出馬し、まだ一年生議員だった晋三氏の対立候補としても考えられていた。

 

この傍らで、山田宏氏(元杉並区長)、中田宏氏(元横浜市長)、松沢成文氏(前神奈川県知事)らを除いて、その多くは現在の野党に所属している議員、ないし議員候補者と活動をし、例えば、長妻昭氏(元厚労大臣)に社会保障制度の改革案や税財政のイロハを教えたのも私である(今も彼は分かっていないようである)。

 

というのも、この頃の私は、ストック経済を専門にする野口悠紀雄氏のもとに通い、「リバースモーゲージ(逆担保)」を軸にした、将来確実に破綻が予想された公的年金制度の制度設計を信奉し、その推進を図っていたからであるが、当時はだれも社会保障制度が危機に瀕するなど考えもせず、見向きもしなかったが、今まさに予想は的中しつつある。

 

が、その頃、「二信組事件」「長銀(日本長期信用銀)事件」が起こり、バブルの寵児と言われた不動産王イー・アイ・イー・インターナショナルの高橋治則氏とビジネスパートナーだった“某”が逮捕され、これをきっかけに自民党系、公明党系、日本新党(細川派)系間の微妙なバランスが崩れ、新進党が崩壊したため永田町から去った。

 

ほぼ同時期、石原慎太郎氏と浜田幸一氏が突然、衆議院議員を辞職したが、これは“ある重大事件”を巡って、東京地検特捜部との取引があったためで、これに抗した“某”だけが政治生命を絶たれた。「国松警察庁長官狙撃事件」があったのもこの頃である。

 

この他、まだまだ世間があずかり知らぬ秘話はあるが、関係者が存命しているため公開は差し控えるが、これから日本と世界で起きる激変に耐えうる政体のリーダーは「安倍晋三」しかおらず、“さる筋(國體)”から選ばれているということだけは一言述べておきたいと思う。