1、「天皇記」「国記」に記された“列島経略”

 

紀元前一世紀の中葉、九州北部にあった安曇族(倭国)の族長だったウバイド族の磐余彦(イワレヒコ)が、東遷して奈良盆地に入りヤマト王権を創めて神武天皇となったのは、迫りくる大陸騎馬民族の襲来に備えて防御陣地の縦深化を図るためであった。

 

また、高句麗の九州北部への襲来が必至となると、これを現実的な脅威としてその対策に苦慮した天孫系ウバイド族(天皇家の祖先)は、馬を知らない縄文海人族が来襲する騎馬武者を“人馬一体の怪物”とみて、精神的に委縮、屈服してしまうことを憂慮し、「縄文騎馬族」の養成を図った。

 

すなわち、縄文海人族から俊秀を選抜して、これをユーラシア大陸の東西に分布した“ウバイドワンワールド”の東極である豆満江デルタ地帯の羅津に送り込み、西ローマ帝国の崩壊により欧州から東漸(とうぜん)し、流遇していた傭兵タカスによる実地訓練を通じて馬産と騎馬術に習熟させ、日本列島に帰還させた(列島経略)。

 

この半島からの渡来人ならぬ出戻り組の“往来人”が、蘇我氏をトップとする春日氏、小野氏、和邇(わに)氏、紀氏、葛城氏、平群氏、そして阿倍(阿閉)氏らの第八代孝元天皇の末裔たる「皇別貴族(臣)」で、これに「天之御中主神」や「神産巣日神(神皇産霊尊、神魂命)」「高御産巣日神(高皇産霊尊、高木神)」などの神々(ウバイド人)を始祖とする伝承を持つ大伴氏や佐伯氏、阿刀氏、栗原氏、田辺氏らの「神別貴族(連)」が加わるが、前者を「日ノ臣(ヒノオミ)」、後者を「道ノ臣(ミチノオミ)」という。

 

やがて國體軍の組織が巨大化、複雑化してくると近衛軍と外征軍に分かれるが、このうち「道ノ臣」が大伴(オオトモ)と称するのは、近衛軍が「大王に伴う」ことに所以するからであろうか。

 

そしてやがて國體軍の枢機は「日ノ臣」が握ることとなり、これを職掌する“ウラの姓(カバネ)”を「日乃本(ヒノモト)」と称したが、蘇我大臣が参謀総長に、阿倍臣が参謀次長になったのである。“ウラの姓”としたのは、タカスの渡来とカラコの帰朝を土台として、防御陣地の更なる縦深化を図ったヤマト王権の奥の院「ミチノク分国」の存在を秘匿するためであった(ミチノク経略)。

 

なお、第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までの「欠史八代」の事績が記紀に記されていないのは、この時期、歴代天皇が騎馬族侵攻の危機に晒された日本列島で安閑とはしておれず、頻繁に羅津と列島の間を行き来して、以上に述べた諸工作に従事し、国内で目立った事績を残すに至らなかったからであることは、京都皇統に密かに残された蘇我一族の古伝「天皇記」「国記」に基づくものと仄聞している。

 

日本皇統を貶めようとするGHQの意向に阿(おもね)る京都大学名誉教授・上田正昭を筆頭とする戦後古代史家が、かような真相も知らずに「欠史八代」の事績はおろか存在までも否定し、むしろこれを逆手にとって「天皇半島騎馬民族説」なる虚説を流布するのは、まことに情けない限りである。

 

2、古代の参謀総長蘇我氏と“三種の蝦夷”

 

騎馬族化した縄文海人の蘇我氏や阿倍氏ら「日乃本」の列島帰還とともに、彼らに騎馬訓練を行ったエジプト起源のコスモポリタン(国際人)傭兵タカス族もこれに随伴して渡来し、荘園の治安を維持する傭兵(武士)となった。その証拠に、現在の秋田県北秋田郡にも鷹巣町と鷹巣盆地がある。

 

彼らは駐留していた満鮮地域の名を冠して、以降、「八幡(=羅津)太郎義家」や「高麗次郎義基」「新羅三郎義光」と名乗った。つまり、源氏はタカスである。

 

タカスのほか日乃本に随伴して帰国したものに「カラコ(唐子、韓子)」がいる。これは朝鮮半島出身者という意味ではなく「朝鮮半島から戻った人」という意味で、「日ノ臣」といわれた日乃本のうち、参謀総長蘇我氏、参謀次長阿倍氏にしたがって半島で騎馬軍事訓練を受け、特務機関を構成していた春日氏、小野氏、田辺氏、上野氏、栗原氏らの特殊軍事貴族を指す。

 

なお、國體参謀総長とされる蘇我氏は、第八代孝元天皇の第三皇子「彦フツ押しのマコト」の子・ヤヌシ武オゴコロと紀国造の娘・山下影媛との間に生まれた「タケシ内の宿禰(武内宿禰)」からはじまる皇別であるが、この「タケシ内の宿禰」は個人名ではなく世襲の職掌名である。

 

蘇我氏は、初代「タケシ内の宿禰」の子の「石川宿禰」から蘇我稲目が生まれ、歴代が「タケシ内の宿禰」を支えて、羅津からの「ホムダワケ(第十五代応神天皇)奉迎(第二次奉迎工作)」、さらに「第二十七代欽明天皇奉迎((第三次奉迎工作)」、そして「欽明王朝下での聖徳太子の出現」までを実現したが、これが“古代の國體参謀総長”と言われる所以である。

 

ちなみに、「第一次奉迎工作」は、迫りくる北方騎馬民族との融和を図るため、朝鮮半島のヤマト直轄領任那から、縄文海人族の「ミマキイリ彦イニエ」を迎えて第十代崇神天皇とした経略のことである(満鮮経略)。任那からイニエを迎えた入れ替えに、羅津には「彦太押しのマコト」の子孫が渡り、その子孫が「ホムダワケ」となった。

 

第一次奉迎工作では“罌粟(ケシ)”を持ち込み、第二次奉迎工作では、ウバイドワンワールドの東極羅津に蓄えられた”黄金(國體ファンド)“を持ち込んだとされているが、騎馬民族との融和策の実現と共に、これにより“古代の開国”が完成したといわれている。

 

この他にも、ヤマト王権の傭兵として満洲と朝鮮で活動し、日本書記によると「吉備の穴海」と「難波の柏済」などの列島内にも散在した武装民「ワタリ」がいて、ヤマトタケルによってさらなる防除陣地の縦深化のためミチノクに移住させられたが、その集住地が陸奥国亘理(わたり)郡である。

 

のちにこの地域は、俵藤太秀郷の六世孫を称する亘理権大夫こと藤原経清の所領となるが、経清が安倍頼時の娘を娶って生まれた頼衡が亘理郡ばかりか奥三郡の領主となり、さらに山北三郡も管理下に置いて奥州に覇を唱え平泉に政体を建てた。これが藤原秀郷から連なる「奥州藤原氏(武門藤原氏)」である。

 

そして、この奥州藤原氏を執権として支えたのが信夫佐藤氏の甚兵衛基治だが、これも藤原秀郷の子孫で、京都皇統からの伝授によると、「乙巳(いっし)の変(大化の改新)」で歴史上から消えた蘇我氏は、密かにミチノクに入ってタカスと混交し、亘理藤原氏に入った阿倍氏には蘇我氏が入っていたという。

 

ちなみに、日乃本阿倍氏には、先住縄文海人族海部の「ヘイ(平)」が従っていたが、以上の「日乃本(蘇我、阿倍)」「カラ子(唐子、韓子)」「ワタリ」を“三種の蝦夷”という。

 

 

3、阿倍氏と閉伊(ヘイ)

 

 

これに対し、國體参謀次長の阿倍氏は、第八代孝元天皇の皇孫「武沼河彦(タケヌナカワヒコ)」の末裔で、三代目の「阿倍大麻呂」が欽明朝で「五大夫」といわれた重臣の一人として世に顕れた(皇別阿倍氏)。大夫とは大連(おおむらじ)、大臣(おおおみ)に次ぐ地位で、阿倍大麻呂は蘇我稲目の側近だったとみられる。

 

一方、阿倍氏の母系は、後年、陸奥国十三湊(現五所川原市)を拠点とした安東氏が自ら、磐余彦(神武天皇)と死闘を演じ、東国に落ちたとされる(記紀による)大和の豪族「長脛彦(ナガスネヒコ)」の兄の「安日彦(アビヒコ)」の子孫であると唱えたことから、武沼河彦の妻が安日彦の子孫だったと考えられる(神別安日氏)。

 

 

安東氏は、自らを“蝦夷管領”や“東海管領”“日乃本将軍”を称したが、第百二代後花園天皇がこれを咎めなかったのは、安倍氏が古来「ヤマト王権ミチノク分国の総督」と見做されていたからである。

 

ところで、陸奥国閉伊(ヘイ)郡の郡域は現在の岩手県遠野市、宮古市、上閉伊郡、下閉伊郡の一帯で、太古からこの地に住んでいた縄文海人が「ヘイ」を称していたのが地名の淵源である。

 

葛原親王らが天下って生まれた皇別桓武平氏の土台をなす神別豪族が、日本神話の海の神である「綿津見」の末裔の安曇氏や海部氏だが、これに「閉伊(ヘイ)」が加わり、「山窩(サンカ)」に対抗した「海窩(カイカ)」と呼ばれた。

 

なお、世にいう“源平合戦”のきっかけとなった「保元の乱(一一五六年)」「平治の乱(一一六〇年)」は、「公地公民制」による律令制の完成に代え、“半貴半武”の桓武(伊勢)平氏と武門(奥州)藤原氏を経て、鎌倉分国(北條坂東平氏)による封建制への移行を謀った白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇らによる國體戦略(仙洞政略)の一過程であった。

 

この閉伊地方には「安倍貞任(あべさだとう)」の伝説が色濃く残っていることから、日乃本阿倍臣が実効支配していたとみられる。

 

 

ちなみに、丹後半島にある籠神社の社家(ユダヤ人)に「海部」の姓を譲ったのは、天孫皇統と偽るための「物部」による買収と考えていたが、「海部」の正体と“ミチノク経略”の真相を秘匿するための國體からの命令であったとも考えられる。

 

ともあれ、日乃本阿倍臣は閉伊郡と、これに隣接する現在の胆沢、江刺、和賀、稗貫、柴波、岩手の「奥六郡」に本拠を置き、のちにこの地から安倍頼時が出る。

 

一方、奥六郡に隣接する秋田県側の「山北三郡」は舎人親王の子孫の「出羽清原氏」が領有し、奥六郡とともに先住民のヘイと渡来民のタカス、それにヤマトから移住してきたカラコが集住し、奥六郡の南側の亘理郡は「亘理権大夫藤原経清」を棟梁とするワタリ党が護っていた。

 

なお、藤原経清の六代前の俵藤太秀郷は、「天慶の乱(九三九年)」で平将門を討ったことから部門藤原氏の棟梁となり、延喜十一(九一一)年に上総介、延喜十五年(九一五)年に鎮守府将軍に任じた。通説は秀郷が藤原北家魚名流の藤原利仁の子孫とするが疑わしく、その本拠が敦賀であることに鑑みれば、利仁の祖は魚名流に潜入したヒノモト蘇我氏ではないかと考えられる。

 

4、“ミチノク経略”と奥州(武門)藤原氏

 

さて、欽明王朝で頭角を現した安倍氏は、「布施臣」と「引田臣」に分かれ、孝徳天皇の妃となって有間皇子を生んだ阿倍内麻呂の娘・小足媛(おたらしひめ)の兄弟である安倍布施臣御主人(六三五~七〇三年)は、琵琶湖周辺のタカスを整理するための“八百長戦争”だった「壬申の乱(六七二年)」で大海人皇子側について戦功をあげ、大宝律令下で初の右大臣に任じた。

 

一方、安倍引田臣の棟梁で、越国を本拠とする強力な海軍力で日本海域を実効支配し、越国守、後将軍、太宰率に任じられた安倍比羅夫は、斉明四(六五八)年に蝦夷討伐を行って勲功を上げ、天智元(六六八)年に白村江で敗れたが、もとよりこれは半島からの撤退の大義とするため國體が謀った“八百長”であった。

 

安倍比羅夫の孫の阿倍仲麻呂(六九八~七七〇年)は、遣唐使として唐に渡って科挙(官僚登用試験)に合格し、唐朝において諸官を歴任、高官に上り詰めたが、日本への帰国を果たせずに現地で客死した。

 

時は下り永承六(一〇五一)年に生じた「前九年の役」では、安倍氏は藤原南家の陸奥守藤原登任(なりとう)の権限を侵したことから兵争となって国司を罷免され、河内源氏の源頼義と交代となる。

 

当初は安倍氏が優勢であったが、清原氏が源頼義側についたため敗北し、棟梁の安倍頼時とその子・貞任(さだとう)が戦死、奥州安倍氏は滅亡する。だが、その前に頼時の娘で貞任の妹の「有加一乃末陪(ありかいちのまえ)」が藤原経清に嫁いで男子をもうけていた。

 

経清は安倍軍に加担したため敗北し斬首されるが、その後、「有加一乃末陪」は清原武貞と再婚、経清との間にもうけた子を連れ子とし清原清衡とする。

 

ところが、清原氏の惣領・真衡と、武貞の実子・家衡、清衡の間で旧安倍領の奥六郡の分割に関して内紛が起こり、源頼義の長男・八幡太郎義家が介入して裁定するも、今度は家衡がこれに反発したため寛治元(一〇八七)年に「後三年の役」が起こり、義家が家衡を討って清原氏を滅ぼしたため、清衡は旧姓に戻し藤原清衡とし、「奥州藤原氏(武門藤原氏)」となる。

 

このように、日乃本安倍氏(蘇我氏)と清原氏を表舞台から消して、他方でタカス、カラコ、ワタリ、ヘイを藤原氏に統合して「ミチノク分国」を密かに創めたのが、國體参謀総長蘇我氏が考えた“八百長戦争”「前九年の役(一〇五一~一〇六二年)」と「後三年の役(一〇八三~一〇八九年)」の真相である(ミチノク経略)。

 

5、その後の安倍氏と佐藤甚兵衛

 

かくして、奥州安倍氏は歴史上から消滅したが、安倍頼時には多くの男児がおり、中でも有名なのが三男貞任と四男宗任(むねとう)である。

 

貞任の娘は清衡の跡を継いだ基衡に嫁いだが、刮目すべきは基衡の側近で、三代目秀衡の参謀長だった信夫佐藤氏の「甚兵衛基治」である。

 

甚兵衛基治の出自の「信夫佐藤家」は藤原秀郷の子孫で、秀郷の九代孫が、全国各地の山林と温泉(湯沐邑)の管理に任じる「甚兵衛ネットワーク」を作った「西行法師(一一一八~一一九〇年)」こと「佐藤義清(さとうのりきよ)」である。

 

佐藤甚兵衛の子孫には山口県熊毛郡田布施町の佐藤三兄弟(佐藤市郎海軍中将・佐藤(岸)信介首相・佐藤栄作首相)がいる。

 

 

 

一方、宗任は「前九年の役」で敗れたものの降伏を受け入れられ伊予国、そして筑前国宗像に流罪となった。宗像と言えば縄文海人「安曇(あずみ)族」の集住地であるが、後年、宗任の子孫の季任(すえとう)が、後に元寇の役で活躍した海賊・肥前松浦党頭主の娘を娶り、自らも頭主となって平家方に与した。このため、平家滅亡後、鎌倉からの迫害を恐れた季任は長門国に落ちた。

 

なお、「日乃本」に因んだ人名、地名に「日下」「比企(ひき)」「日置(ひおき、ひき、へき)」があるが、現在の山口県長門市油谷町の一部が「旧大津郡日置(へき)村」で、國體参謀・内閣総理大臣安倍晋三の実家が現存している。

 

 

参考までに、日置地区の土地、山林所有者は、律令時代からの職掌名が苗字になった国司家、そして安倍家とこれに随従してきたといわれる高橋家、そして我が家の三家で占められ、代々の持ち回りで庄屋(村長)を任じてきた。

 

また、北長門地区全体は古代からウバイド系豪族の阿刀氏がその勢力下に置き実際、現在も「阿武郡阿東町」が存在し、そのほか超古代研究家によると、古代シュメール語で「神に捧げる生贄の牛」を意味する「コッティー」を充てたと思われる「特牛(こっとい)」という地区(同和地区)もある。

 

 

さらに、「長門」の地名は、“不死の薬”を求め、秦の始皇帝の使者として来日した「徐福」が上陸したことに因んだ“長寿の門”を由来としている。

 

 参照;落合莞爾「三種の蝦夷と源平藤橘の真実」